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【短文連載型短編小説】カメを戻す。#4


前回

暗黒の世界

 汗は相変わらずダラダラと私の全身を濡らし続けている。

 ガラスの破片は相変わらず床に広がっているのだが、すでにそれは紅い煌めきを失い漆黒の闇がその鋭い先端から侵入してフローリングに接する形状様々な紋様を通過、ただ闇を。
 ただ暗闇を。
 ただこのキッチンを暗黒の世界に変貌させつつある。

 どうという話ではない。
 私が全身を汗でぐちゃぐちゃにしながらぼっ立っている間に時間はひたすら流れ、夕景が消えてもう夜になっているというだけのこと。
 私は立ち続けている。ただキッチンの床に。一歩も動かずに。コーヒー豆も砕け散ったガラスの破片もそのままに。

 ただただ。

 亀の飼育というものを甘く見てはいけない。

 初めは小さく、ちょまちょました感じが可愛らしい銭亀もやがて育つ。
 私の銭亀はまだ小さいがそれでもこの半年ほどの間にかなり大きくなった。
名前は「銭」という。

 銭の飼育の中でもその清潔を保つという作業は最重要で徹底して行わなければならない。
 呼吸食事放尿脱糞入浴清掃強制性交読書飲酒自慰睡眠という、人間として生きるためには毎日必ず行わなければならない必須事項と同等の位置に銭清掃という作業がある。
 言うまでもなくこれはマネーロンダリングではなくて、銭という名の亀を清掃するという作業である。

 銭は半惚けのような顔つきをしているがあれでもなかなか神経質で不潔が続けば病気になってしまうため、常時清潔に保たなければならない。

 まず銭の居室となる水槽から内部に配置された石なども含めゴシゴシ擦り、水を変える。水が汚いと神経質な銭は水分を摂らなくなり脱水症状を起こして体調不良、最悪の場合死に至る。

 亀という生物が水辺周辺の叢にいる印象から暗くジメジメした陰気な生物であるという認識を持つ御仁も在るかも知れないが、実はしっかりと日光浴をさせないと、くる病になって甲羅が変形したり、ちゃんと乾かさないと皮膚病になったりもして弱ってしまい最悪の場合死に至る。

 と、このように死に至る危険と常に隣り合わせで行きている銭ではあるのだが健やかに成長すれば数十年に渡って生きる長寿の生物なので中年以降の独居男女が生涯の伴侶として飼育するにはもってこいの生物でもあるのだ。

 だから私は飽くこと無く。
 呼吸食事放尿脱糞入浴清掃強制性交読書飲酒自慰睡眠と共に銭清掃も行っている。毎日。

 ジリジリと狂ったような陽を爆射するファッキン太陽の元で、私は銭を洗った。

 そして。

(つづく)

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