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COTEN RADIO 民主主義の歴史編4

みんな大好きCOTEN RADIO。
民主主義の歴史編、第4話の概要を記載します。

(間違いがあったらすみません)

セクションタイトルに時間指定リンクを貼っておりますので、学び直しにご活用ください。


西ヨーロッパの議会

00:12 - 身分制議会

西ヨーロッパ全体で、議会制が存在していた。

これは身分制議会と呼ばれ、貴族院は貴族から、庶民院は庶民から、もしくは庶民は参加不可であった。
これらは国によって形態が異なっていた。

00:43 - 西ヨーロッパの政治体制

17世紀のヨーロッパにおいて、フランスやスペインでは、絶対君主による専制支配が行われていた。
ドイツ(神聖ローマ帝国)では統一国家の体裁がとれていない状態であった。

その中で、イギリスだけが、他の国よりも早く、統一的な議会政治を実現させていた。
そこで王と議会の間で牽制しあっていた。

01:39 - 法の支配

13世紀から17世紀の間、イギリスにおいては、法の支配が強化された時代である。
王であっても、法のもとに従わないといけなかった。

一方、フランスやスペインでは、13世紀から17世紀の間、法の支配が消滅させられていた。

02:26 - 現代の議会政治のルーツ

このイギリスの議会政治が、近代国家の議会政治のルーツとなっている。

現代日本の議会は、ギリシア民主政の民会や、ローマ共和政の元老院をモデルにしているのではなく、イギリスの議会がルーツと考えられる。

イギリスにおける議会成立までの歴史

04:06 - イギリスの歴史概略

国王を、いかに法で抑えるかの歴史だったとも言える。

04:50 - 11世紀

1066年、ノルマン・コンクエストが起こり、イングランドに封建制国家が確立される。

ノルマン・コンクエスト以前は、七王国時代(ヘプターキー)といって、様々な王がいた。
フランスのノルマンディーの貴族がイングランドを征服した。
つまり、イングランドはフランス貴族によって治められていた。

この貴族がイングランド国王ウィリアム一世として、封建制国家を作る。
国王、諸侯、貴族、騎士がいて、その間で君臣関係を結んでいた。

その息子、ウィリアム二世が専制的な政治をした。
その弟である、ヘンリー一世が即位したときに、専制政治を取りやめた。

ヘンリー一世の孫である、フランスにいたアンジュー伯が、イングランドにてヘンリー二世として即位する。
(ヘンリー二世は獅子心王リチャード一世の父)
ここでも、イングランドを統治しているのはフランス貴族となる。

06:52 - 当時のイングランドの扱い

当時、フランスは大国であり、一方、イングランドは辺境の島という扱いであった。

フランス貴族からしたら、あまり行きたくない土地であった。
統治のためにコミットするインセンティブが無かった。

このとき、イングランドの王は司法改革を進めていき、自分がイングランドに居なくても法律が駆動してうまく治まる状態となった。

ヘンリー二世は、コモンロー裁判所という、先例や伝統をもとに判決を下していく裁判所も設置した。

08:27 - マグナカルタ

やがて、ヘンリー二世の末っ子のジョン王が即位する。
このジョン王が諸侯から税を取り立てて、専制的な振る舞いをした。
(ジョン王の即位はリチャード一世の死後)

ヘンリー二世の頃は制度に元にした政治をしていたが、ジョンは強固なマネージメントをしたことにより、イングランド諸侯からの反感を買った。
諸侯は協力してジョンに対して、諸侯の権利を認める「マグナカルタ」に署名させた。

その後、ジョンは署名したマグナカルタを反故にし、イングランドが内戦状態となる。
その内戦状態でジョンが亡くなり、その息子のヘンリー三世が即位する。

ヘンリー三世が即位した時に、国王支持派と国王反対派との間の妥協が成立し、国王も法のもとにあるという原則を確認する文書が再交付された。
当時、ヘンリー三世が9歳と幼いこともあり、諸侯の力を借りる必要があったことから、マグナカルタを再度承認することとなった。

ヘンリー三世が成長すると、対立が再燃した。
外国人を重用して軍事遠征を行ったが、失敗し、課税を強化することとなった。
このような失政が続いたことにより、諸侯が反乱を起こした。

11:41 - オクスフォード条款

ヘンリー三世に対する反乱の中に、シモン・ド・モンフォールという指導者が出てくる。
彼はオクスフォード条款(じょうかん)という、マグナカルタのような条項を、ヘンリー三世に認めさせた。

オクスフォード条款では、統治上の権限を持った委員会の設置と、王国の統治を点検するための議会(パーラメント)の設置と定期開催を規定している。
諸侯が自分たちの望む施策を行政的に実現しうる可能性が、これによって生じることとなった。

課税のためには議会の開催が必要であり、定期的に議会を開催することを約束させたること、王に約束させた。
ヘンリー三世はこのオクスフォード条款に署名した。

数年後、ヘンリー三世はこれを反故にし、内戦が起こる。
そこで再度、国王とシモン・ド・モンフォールが戦い、シモン・ド・モンフォール側が圧勝する。

13:13 - シモン・ド・モンフォールの議会

二度の王との戦いに勝利したシモン・ド・モンフォールは、王に対して強気に出ることができる。
ここで、後に「シモン・ド・モンフォールの議会」と呼ばれる議会を開催した。

13世紀前半に、州を代表する貴族、高位聖職者だけでなく、都市代表者の市民を招集した。
このときに招集された市民は、シモン・ド・モンフォールを支持している市民だけであったが、議会に市民が呼ばれるという革新的な出来事であった。

中世において、王を牽制する場である議会に、庶民が参加するということがアクシデンタルに実現した。
これがイギリス議会の最初だと言われている。

1965年にエリザベス二世が議会創立700周年の記念行事を行ったが、この700年前が指しているのがシモン・ド・モンフォールの議会である。

16:13 - 議会の廃止

シモン・ド・モンフォールの議会は2ヶ月ほどしか続かなかった。

当時、ヘンリー三世は幽閉されていたが、その息子のエドワード王太子がそこから脱走する。
また、シモン・ド・モンフォールに対する反対勢力が勢いづいていた。

エドワードは反対勢力をまとめ、シモン・ド・モンフォールと戦い、ヘンリー三世を開放する。
その過程で、オクスフォード条款も廃棄した。

しかし、ここまでの改革の成果は一部引継ぎ、多くの人の力を借りたことおもあり、王は強権的な王権を発動できなかった。

17:43 - 模範会議

エドワードは即位し、エドワード一世となる。
軍事活動が必要となった際に、国内の支持を取り付けるために議会を開催する。

この議会が模範会議と呼ばれる。

諸侯や高位聖職者だけでなく、下級の聖職者の代表、州の代表の各2名の騎士の選出、都市を代表する各2名の市民も招集された。
この代表を送るように求められた都市は100以上あった。

エドワード一世は、シモン・ド・モンフォールの議会よりも幅広く人を集めた。

これは、多くの人から徴税する必要があったため、その代わりとして議会に多くの人を呼んだと言われている。

19:26 - イングランド議会の成立

イングランド議会は13世紀の後半には、二つの制度が結合して成立したと言われている。

ひとつは、地域共同体の代表が国政に参加するということ。
もうひとつは、国王の専制を抑制するために有力な臣下が集会を開いているということ。

このような状態が議会政治で成り立っている。

20:01 - イングランドでの議会の発展

有力な臣下や地域の共同体が、議会によって国王の専制を抑止することができる。
一方、国王からすると、議会を開催することで、より多くの課税ができる。

市民からは、課税の代わりに様々な要求を受けることになるという、トレードオフが生じる利害調整の場であった。
このように、イングランド議会は、国王においても、貴族や市民にとっても有益な場として現出していた。

イングランドの歴史は、利害調整の場である議会が、国王から権力を少しずつ削いでいくという歴史でもある。

イギリス議会

21:39 - 二院制

14世紀の半ば頃に、二院制を敷く。
二院制は上院と下院で構成される。

上院は、聖職者と上級貴族が、貴族院と呼ばれるものを作っている。
下院は、騎士や都市の代表市民が、庶民院と呼ばれるものを作っている。 

この庶民院は、課税の同意権をテコとして、地域社会の要望に応えていく法律を制定していく。
政治的駆け引きをしていくなかで、庶民院の存在感が大きくなっていく。

15世紀の前半に、庶民院議員の選挙関連の法律が作られていく。
15世紀の後半は、身分制議会の域を脱して、広く地域住民を代表していく。

例えば、ある程度の年収がある人は、被選挙権を持つ状態となる。
身分が無くとも、被選挙権を持ち国政に参与できるということと言える。

24:20 - 当時の議会の立ち位置

中世14世紀頃の議会は、国王による統治の補助者であり、協力者という立ち位置に過ぎなかった。

例えば、議会がいつ開かれるかという定期的な開催は約束されておらず、王政の政治的な都合で、課税が必要になった時に議会が開かれていた。

しかし、たまたま14〜15世紀は、王政において、政治的な危機が連続していた。
100年戦争や薔薇戦争という長期に渡る戦争が断続的に続いたことで、議会を何度も開かないといけない状態に置かれていた。

25:31 - 宗教改革

16世紀に入ると宗教改革が起こる。

イングランドにおいては、ヘンリー八世がイギリス国教会を作る。
この宗教改革を断行していく際に、今まであった教会や修道院を解散していった。

そのような行政手続きを執行していくにおいても、役所の整備などにおいても、議会が国王を助けていった。

26:16 - 王権神授説

ヘンリー八世の子、エリザベス一世が未婚のまま亡くなる。
その後、スコットランド王ジェームス六世が、イングランド王ジェームス一世として即位する。

それまで、ヘンリー八世もエリザベス一世も、伝統に則り、議会に対して気を使っていた。
しかし、スコットランドはイングランドと文化が異なることから、ジェームス一世は議会をないがしろにする。

スコットランド王がイングランド王となった際、ジェームス一世は王権神授説を主張した。
王は神に対してのみ責任を追い、神に権力を渡されているため、議会の言うことは聞かなくて良いとした。

これが物議を醸し、議会が激しい反発を起こした。

28:56 - 権利の請願と清教徒革命

ジェームス一世の後、チャールズ一世が王位を継ぐ。
チャールズ一世はイングランドの政治文化になじまなかった。

チャールズ一世は、バッキンガム公という寵臣に依存する政治を行い、議会を無視する。
議会とディスコミュニケーションしているため、貴族ともディスコミュニケーションをしていることになる。

チャールズ一世は強制公債を発行したり、献上金を強制した。
また、コモンローを無視した、法的な手続きによらない逮捕や監禁を行っていた。

それに対し、貴族院と庶民院が「権利の請願」を提出した。
財政状況が悪化した際に、この権利の請願に同意を与えた。

その後、議会がチャールズ一世の寵臣であるバッキンガム公を暗殺してしまう。
それによりチャールズ一世が権利の請願を認めないという態度を取り、11年間、議会を招集しなかった。
加えて、チャールズ一世は、船舶税という強引な徴税を行い、議会を怒らせる。

さらに、スコットランドで反乱が起こる。
ここで軍事費が不足したことにより、11年ぶりに議会を開くこととなる。

庶民院は、そこでの課税に応じず、国王の専制を厳しく非難した。
チャールズ一世はそれに対し、議会を解散する。
しかしそれではスコットランド軍を倒せず、再度、議会を招集する。

このようなやり取りを経て、最終的には、議会が国王チャールズ一世を処刑する。

スコットランド軍がイングランド北部に侵入し、賠償金の支払いを余儀なくされる。
改めて議会を開いていく中で、議会側は、少なくとも三年に一度は議会を開くことを要求する。
しかし、議会の中でも、議会派と王党派に分裂していく。

スコットランドとの内戦は最終的には収まるが、分裂のいざこざの中でチャールズ一世は裁判にかけられ、処刑される。

33:30 - その後の歴史

チャールズ一世の処刑に関わったクロムウェルが独裁制を敷く。
クロムウェルの死後、チャールズ一世の子供のチャールズ二世がイングランドに呼び寄せられ、王に即位する。

チャールズ二世の息子、ジェームス二世がイングランドから国外逃亡する。
(これは名誉革命と呼ばれる)
イングランドは、オランダからオラニエ公ウィレムを呼び寄せ、王に据える。

当時の他国の議会

35:52 - フランス

フランスでは絶対王政が進んでいた。
家を統治する延長線上のような形で王政が行われていた。

それゆえ、社会の中で議会が育っていなかった。
社会を統治するための社会システムが育たずに、王家のシステムで社会を統治しているイメージ。

フランスには三部会という、伝統的な身分制議会はあった。
しかし、長い間、三部会は開催されていなかった。
(フランス革命の直前に久しぶりに開催された)

37:17 - ドイツ地方・イベリア半島・北欧

ドイツ地方は分裂気味であった。
神聖ローマ帝国には帝国議会があるが、そもそも統一国家として成り立っていない状態だった。

スペインやポルトガルでは、コルテスという身分制議会があった。
しかしこれは立法には関わっておらず、そもそも力が無かったと言われている。

北欧にも議会はあったが、こちらも力が無かった。

政治思想

39:02 - 次回:トマス・ホッブズ

17世紀はイギリスにとって革命の時代であった。
このような革命を経験することによって、イギリスでは新しい政治思想が生まれていった。
そこからホッブズにつながっていく。

次回以降、大展開点としての、トマス・ホッブズ、ジョン・ロック、ルソーを紹介していく。

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