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身の丈にしなやかに。|イサム・ノグチ展観覧<前編>:断片的に見がちな社会で、線として捉える

関東も本格的に梅雨ですね。営業をしていた一年目の頃、見ず知らずの人との会話があまりに苦手で、前段として当たり障りのない天気の話から入って、いかに本題に繋げるか、というシナリオ設計をずっと考えていたことを思い出します。笑

さてさて、ということであまり外で何かをしたいという季節でもなく屋内鑑賞日和ということで、今回は少し前に東京都美術館で開催されているイサム・ノグチ展に行ってきた話を。美術の専門ではないので、あくまで20代サラリーマンというカテゴリ属性として感じたことの共有です。

イサム・ノグチって何屋さん?

展示を拝見しての感想は、「イサム・ノグチ」と聞いて最初にイメージされるものが、人によってここまで異なるアーティストは少ないんじゃないかなあということでした。

レオナルド・ダ・ヴィンチと言われれば多くの人がモナ・リザや最後の晩餐を想起するだろうし、アントニ・ガウディと言われれば、サグラダ・ファミリアをはじめとした作品群が思い浮かぶ。音楽家のパッヘルベルのように代表作のカノン以外は一般的に全然知られていない、という極め付けのパターンもありますね。特定の作品ではなくても、一般的に1人のアーティストから想起される作品の作風/画調は、一貫性が強いものが多い印象です。

それに対してイサム・ノグチは、彫刻家・プロダクトデザイナー・画家・舞台芸術家・・・と、複数の顔を持つアーティスト。一貫して彫刻家という要素を持ち合わせているものの、作者の名前を聞いて「これが代表作!」という、イメージが絞られないことはそのアーティストを知るという意味ではいいことだなと思います。

サラリーマンにも共通する「代名詞」という存在の功罪

美術・建築・音楽・執筆などなど、どの世界においても通ずることですが、アーティストの話を聞く限り、社会的に大きく評価される点と、本人がこだわりを持って行ったクリエイションは往往にして異なる場合が多いですよね。もちろんビジネスとして社会的評価を得るために、言葉を選ばずにいうと「狙って」創作が行われることも多分にあると思いますし、それも生きていく上でとても大事なプロセスだと思います。

我々会社勤めの人間も同じだなと思うことが多々あります。評価された1つの仕事の裏には評価されなかった100の仕事の積み上げがあったり、でもその評価された仕事よりも評価されなかった仕事の方が自分にとってずっと有意義だったり本質的だったなと感じたり。たまに、やっていることは殆ど変わっていないのに、前回誰も見向きをしなかったのが、今回なぜかとても評価される、みたいなことも事象として発生している気がします。

そういった中で、ビジネスとしての方針や、潮流を的確に把握して、今求められている側面で結果を出す、というのも生きていく上で大事なビジネススキルですよね。ただ、私が人と接する中で日々気を付けなければと思うのが、誰かがある特定の領域で成果を出し評価を受けると、「〇〇さんといえば××」という代名詞がついてしまうこと。これ、ブランディングとしては成功例であるものの、時にすごく勿体無いなと感じるんですよね。

社会生活を送る中では「××の仕事といえば〇〇さんだから、〇〇さんにお任せしよう!」といったみたいに、代名詞が浸透することでのメリットも非常に大きいです(上で話した「『狙って』創作する」という話と同義ですね)。でも、私が勿体無いなと思うのは、代名詞が浸透しすぎることで、そのシンボル的要素一点以外が見え難くなる・排除されてしまうこと。

「代名詞」はあくまで入り口

例えばピカソ。ピカソといえば、このキュビズムの作風ですよね。

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パブロ・ピカソ「アヴィニョンの女たち(1907)」
(ニューヨークMoMAにて 筆者撮影)

ですが「ピカソといえばキュビズムのあの作風!」ということがあまりにも代名詞になりすぎた結果、下記の作品が同一人物から生まれていることに驚かされますよね。画像1

パブロ・ピカソ「科学と慈愛(1897)」
出典:http://art-picasso.com/1890_18.html

芸術をお仕事にされている方や芸術に精通している方にとっては、こういった作品もピカソの名作として認知されているのかもしれませんが、私は初めてこれを見た時「ピカソってこんな絵も書けるんや!」と思ったのが正直な感想です。笑
でも、それが現代社会のビジネスの現場だったとしたら、私みたいな人がたくさんいて「ピカソといえばキュビズムやし、今回お願いしたい作風は多分ピカソかけへんやろな、、別の人にお願いしよ。」となる可能性が多分にありますよね。圧倒的機会損失です。笑

そして芸術として鑑賞する側としても、シンボル的要素一点だけを観るのではなくて俯瞰して観ることで、ピカソだったら「なぜこんな特徴的な画調の作品を生み出すようになったのか」「どんな背景があったのか」という、アーティスト自身とそのアーティストが生きた時代や文化・ルーツを感じる/考えることができますよね。
代名詞はブランディングとしては活用できるものの、あくまでアーティストを認知する入り口・きっかけとして存在すべきで、そこに閉じてしまうと勿体無いなーというのが持論です。

まあ代名詞をつけるのは、本人ではなく後世の社会で生きる人々であることが多いので、今を生きる我々として、自戒の意を込めて、断片的ではなく多面的に観るよう心がけたいという話です。

余談ですが、最近ミュージシャンでも、自分のやりたい音楽・自分がルーツを持つ音楽表現を行うために、メインで所属するグループやバンドとは別にプロジェクトやソロで活動するアーティストが目立ちますよね。特にトップチャートを賑わすヒット作を生み出すアーティストとなると「〇〇というグループといえば××」という代名詞がつきやすくなる中で、その社会的イメージとは別の作風を表現ために、異なる場を持っているのだとしたらすごく理にかなっているなーと思っています(そういう意図でやっているのかどうかは全くわからないですが。)

線として捉える

とーっても遠回りをしましたが、そういう意味でイサム・ノグチって、彫刻家という軸を持ちながら、アウトプットされる作品のバリエーションが多岐にわたり、シンボル的要素一点ではなく、アーティストの作品・人生を線として捉えやすいアーティストだなと思います。

展示も、一階層目は「あかり」のシリーズ、二階層目は金属彫刻・遊具彫刻の世界、三階層目は石彫の作品群、と多彩な作品を階層で分けて空間づくりがされており、フロアを移動するたびに、改めてこれが全部一人の手から生まれていることに驚かされた展示でした。

次回予告

さてさて、、、ということで遠回りしすぎた結果、イサム・ノグチご本人についてほとんど触れられずここまで来てしまったので、続きは次回に。
イサム・ノグチと、私が勝手に親近感を抱いている建築家丹下健三との関わり、筆者の地元広島で二人の関わりから生まれた平和の架け橋について。その橋がきっかけで生まれた作品について。生まれなかった作品について。まあまあ有名な話だとは思いますが次回はこの辺りを書こうと思います。なぜ私が親近感を抱いているのかも次回。笑

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ということで、回し者でもなんでもないですが、まだ絶賛会期中なので興味がある方はぜひ。

「イサム・ノグチ 発見の道 Isamu Noguchi - Ways of Discovery」
場所:東京都美術館(東京都台東区上野)
会期:開催中(〜8月29日(日))



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