2021.11.16 昭和天皇を裏切った男
偽りの英雄が隠したGHQ占領史の新事実
「あなたに罪は全くありません。悪いのは全てあの男なのですから…。」
昭和天皇は、一人の“罪人”にこう告げた。
“国家機密をマスコミに垂れ流し、陛下の面子を潰した”男は、その罪で長年人々から咎められていた。
しかし、昭和天皇のこの言葉で、新たな事実が判明する。
昭和天皇が告げた真犯人の正体。
それは、現代で『占領期の英雄』として、憧れを集めている男だった。
昭和史を揺るがしたこの大事件…。
捏造され続けた占領期の真実が76年の時を越え、今明らかになる…。
――――――――――
「どういうことだ!話が違うじゃないか!」
東京虎ノ門に位置するアメリカ大使館にて、GHQ最高司令官マッカーサーの怒声が鳴り響いた。
一体何があったのか?
“お互い絶対に口外しない”
そう誓い合った昭和天皇との極秘会談、その内容がマスコミに漏れていたのだ。
「強国日本の牙を抜き、アメリカの支配下へ」
「天皇として、2000年以上続く伝統ある国を、民を何としてでも守らなければならない」
文字通り国を背負った2人が未来を決める極秘会談。
当然、最高レベルの国家機密であり、漏洩などもってのほか。
昭和天皇、マッカーサーそれぞれの面子を潰すような真似をし、緊張感を保ち続ける両国の関係に水を差した犯人は誰だ?
マッカーサーは怒りを鎮め、思考を巡らせた。
自身はもちろんのこと、天皇もわざわざ“男の約束”を破り、立場を悪化させるような真似をするはずがない。
ほかに、会談の内容を知る人物は?
「私と天皇以外の誰か。会談に同席していた人物は他に誰がいる…?あのinterpreter(通訳者)か。」
マッカーサーは、会談に同席した通訳者に目星をつけた。
その男の名は奥村勝蔵。
マッカーサーは犯人の正体を確信すると、抑えていた怒りが再び込み上げてくるのを感じた。
「会談では淡々と通訳をこなしながら、裏ではマスコミに内容を暴露していたのか…、この命知らずめ」
GHQの怒りを買った奥村は当然のように即刻、懲戒免職…。
両国の関係を不必要に拗らせたこの事件は執着した……はずだった。
「マッカーサーを激怒させ、昭和天皇の面子を潰した男」
「国家機密を漏らした裏切り者」
事件後、奥村が周りからこのような目で見られるのに、時間は掛からなかった。
暴露した理由は何にせよ、重大なルール違反をしたのだ。
当然の報いだろう。
そして、この事件から約20年後、亡くなる直前、奥村はこんな言葉を漏らした。
「陛下に誤解されていては、自分は死にきれない…」
最後になって、突然罪を否定し、汚名を濯ぎたくなったのだろうか?
そう思われたが、昭和天皇は死に際の奥村にわざわざある言葉を伝えた…。
「奥村に全然罪は無い」
その言葉を伝え聞いた奥村は安心したのか、16日後に息を引き取った…。
昭和天皇の衝撃的な告白…。
歴史は複雑怪奇になり始める。
マスコミに会談内容を漏らしたのは、奥村ではなかったのだ。
昭和天皇を裏切った真犯人
だとすれば、一体、昭和天皇を裏切ったのは誰なのだろうか?
犯人の正体は、誰もが予想し得ぬ人物だった。
その答えが、昭和天皇の側近を50年間も務め上げた、入江という男の日記に遺されている。
『入江相政日記』
1975年9月10日(奥村の死の16日前)の箇所にはこう書かれていたのだ。
<奥村には全然罪はない。白洲が全て悪い(と昭和天皇は仰っていた)>
白洲…そう、真犯人は白洲次郎だったのだ。
高身長でハンサムな顔立ち、ネイティブレベルの英語力を持つ英国紳士で、
『マッカーサーを叱りつけた男』
『日本独立のキーパーソン』
『GHQが恐れた唯一の日本人』
そんな異名もある占領期の英雄でもある白洲次郎。
現代の日本からも憧れを集めるこの男だが、その素顔は180度違うものだった。
真相はこうだ…。
白洲、深刻なコンプレックスを抱えていた。
神戸女学院を創設し、横浜正金銀行(現・三菱UFJ銀行)の副頭取になるなど、数々の実績を残した祖父の退蔵。
そして、綿工業によって巨額の富を築いた父の文平。
裕福な家庭で育ち、ベンツやポルシェを乗り回し豪遊していた白洲次郎は、二人が活躍した歳になっても、何の業績も上げられないでいた。
そんな中、外務大臣の吉田茂の側にいた白洲は、毎夜権力の甘い香りを近くで嗅いでおり、名誉に飢えていた。
自分も父や祖父、吉田さんのような『大物』になりたい…。
否、なれて当然だ。
しかし、父や祖父のように商売で成功する素質もない、かといって、吉田のように政界で成り上がる器量を持ち合わせているわけでもない。
そんな中、白洲が捻り出した策略が…、
『国家機密をマスコミに暴露する』
ことだった。
占領期の混乱の中、日米両トップの昭和天皇とマッカーサーの極秘会談の内容は、マスコミからすれば一大スクープ。
喉から手が出るほど欲しい情報だ。
そして、実は当時、白洲は奥村の上司であった。
そのため奥村に会談内容を詳細に報告させ、その国家機密を知ることができた。
その内容を政府の重役として上からペラペラと記者に語り、一時的な愉悦に浸る…、それが白洲の狙いだったのだ。
記者が有り難そうに聞く姿…、それを見て『大物』になれたと錯覚する、あまりに無様な白洲次郎。
しかし、その罪は暴かれることなく、後は先ほどのマッカーサーの激怒、奥村の懲戒免職でこの事件は幕を閉じる。
国家機密の暴露という明確な犯罪行為を犯し、部下の奥村にその濡れ衣を着せた。そして、“男の約束”として一切内容を語ることをしなかった昭和天皇。
その決意を易々と裏切った。
これが白洲次郎の正体である。
彼はこれほどまでに品位を捨ててでも、『大物』として目立ちたかったのだ。
そして、その経験で“目立つ快感”に味を占めた白洲は、その後“嘘の伝説”を広めることを画策した。
マスコミは、真偽は分からずとも、面白い内容を書きたい一心で白洲を持て囃し、その自慢話を次々と記事に採用。
敗戦後GHQの占領を受ける中で、微かな希望を求めた国民は、白洲のホラ話を有り難く読むこととなったのである…。
――――――――――
『マッカーサーを叱りつけた男』
『日本独立のキーパーソン』
『GHQが恐れた唯一の日本人』
このように称される占領期の英雄である白洲次郎ですが、本当の姿は全く違っていたことに気付き、驚かれたのではないでしょうか?
実際、他にも、
「吉田首相、英語ではなく日本語で演説を」
サンフランシスコ平和条約の首相演説で白洲はこのように提案し、日本のプライドが保たれたという逸話がありますが、当時のアメリカ大使の回顧録などを調べると、それが全く違う話だったということが分かってきますし、
「陛下からの贈り物を地面に放置とは何事だ!」
白洲はGHQ最高司令官マッカーサーの横柄な振る舞いに毅然として立ち向かったという話も、当時の大使館の執務記録などの史料を見ていくと、白洲による『歴史の改竄』があったことが明らかになります…。
このように、残された記録や証言を丁寧に調べていくことで、私たちが知っている逸話がどれも、白洲次郎本人によって捏造された嘘のエピソードであったことに気付きます。
それも、自身を良く見せるために、他人を蹴落としてでも作り上げたというのですから、目も向けられません…。
私たちを騙し続けてきた、この男…。
ですが、なぜこれほどまで、白洲の『嘘に武勇伝』が私たちの中で語り継がれていっているのでしょうか?
その決定的な原因を作った出来事が、白洲がこの世を去り15年ほどの月日が経った時に起こります。
ある1冊の本が発売されたのです。
それが、この『風の男 白洲次郎』
白洲の妻である正子が
「夫の功績を現代の日本に広めたい」
という思いで、国文学者の青柳氏に執筆を企画、後に出版されたのです。
占領期の偉人と言えば、マッカーサーくらいしか名前が挙がらない当時の日本では、白洲の伝説は驚きであり、誇らしいものでした。
その評判が広まるのに時間は掛からず、この後次々と白洲次郎に関する本が出版されました。
しかし問題なのは、その伝説が嘘だらけだったということ。
残された記録や当時の証言を紐解けば、容易に嘘と分かる内容なのですが、本の書き方が、あたかも真実かのように語られていたこと、戦後の自虐史観教育を受けた日本人にとって誇らしい、信じたくなるようなものだったこと、そして、占領期を生き、真実を知る人間が既に亡くなっていたり、発言力が低下していたこと。
こういった理由から嘘だらけの白洲伝説は世に広まり、GHQ占領期の英雄として、その名が知られていくようになりました。
白洲の思い通りなのか、偶然なのか真相は分かりませんが、GHQの教育改革によって愛国心を育む経験を奪われた日本人の精神に取り入れることで、『白洲伝説』は日本国民の間で広まっていったのです。
“白洲”のように、神格化される過去の偉人たちは、小説やドラマなどでさらに人気を集めていきます。
もちろん、それを『歴史フィクション』と割り切って、楽しむこともできるでしょう。
しかし、この白洲伝説を信じている限り、占領期の歴史の真実に辿り着きことはできません。
なぜそう言えるか?
確かに実績のないホラ吹きの男は、当時の歴史に大きな変化や影響をもたらしたわけではありません。
ですが、当時の外務省を牛耳り、その後首相に上り詰めた吉田茂の側近として戦後日本の幹部を務め、さらにはGHQとの折衝を担当する終戦連絡中央事務局の参与、占領期の日本の交易を一手に担う貿易庁の長官などの重役を経験…。
吉田だけでなくマッカーサーその部下のホイットニー准将などとも深い関わりを持つ白洲は、“占領期の日本を知るのに重要な人物”であることには間違いありません。
しかし、もしも、その『重要な1つのピース』が嘘で塗り固められていたとしたらどうでしょうか?
たった1つの小さな汚れが、徐々に真っ白なTシャツ全体に広がり汚していってしまうように、白洲という一つの“嘘”が、占領史全体を“嘘”で塗り固めて行ってしまうことになるかもしれません。
そして、段々とその“嘘”がこびり付き、取れなくなっていってしまうのです。
実際、嘘の白洲伝説が真実として伝わってしまっていることで、GHQが日本政府をどのように牛耳っていったのか?
日本を裏切り、アメリカに媚びを売った政治家の正体とは?
日本を守るため最後まで命がけで立ち向かったのは誰だったのか?
というような大事な話が隠され、段々と歴史の真実が拗れていってしまっています。
それだけではありません。
私たちにとって耳障りの良い神話は、戦争を経験し、戦後の辛い時期も我慢強く日本や家族を支え続けた私たちの祖父母や曽祖父母を冒涜しているとも言えます。
死んでもなお、名声に浸る裏切り者に、私たち日本人が紡いできた歴史が歪められたままで良いのでしょうか?
私たちが大切にしなければならないのは『神話』ではなく『真実』です。
日本の歴史は美しいことばかりではありません。
恥ずかしく、後悔するような路も通ってきました。
ですが、そんな良いことも悪いことも含めた真実の歴史が国民の誇りの芯となり、遺伝子となるのです。
『史実』が私たちの鎧であり、日本を護る楯です。
今回は、GHQが作り上げた自虐史観に染まるのでもなく、甘い神話で溜飲を下げるのでもなく、今の日本を作り上げた歴史の真実を知ることで、国民一人ひとりが、責任ある日本人としての気概と誇りを持って進んで欲しい、正しい歴史観を持つことで、ブレない判断軸と自信を持ち、正しい行動が取れるようになって欲しい、そんな思いで書き綴らせて頂きました。
〔編集後記①〕
国民から広く憧れを集める美しき昭和日本の英雄。
しかし、その正体は『裏切り者』でした…。
『裏切り者』無くして、歴史は語れない。
「ブルータス、お前もか」
古代ローマで独裁者カエサルを裏切ったブルータス。
『本能寺の変』
天下統一目前の織田信長に反旗を翻した明智光秀。
『天下分け目の戦い』
関ヶ原合戦の明暗を決定づけた小早川秀秋の寝返り。
どの時代を見ても、歴史を大きく動かした出来事には『裏切り者』の存在が潜んでいます。
そして、現在の日本を形作った戦後の占領史も例外ではありません。
食糧不足で明日の食事さえ考えられない極限状態…。
(東京、新橋にあった闇市)
その中でも命懸けで国を、家族を守るため、必死に戦い続ける国民を尻目に私服を肥やし、名声に浸る日本人もいました。
美貌、名声、大金…全てを備えた『偽りの英雄』。
GHQに性接待を提供し続け、成り上がった男。
巨額の富をもたらした満洲アヘンの罪…それを隠蔽した男。
等々、これまでタブー視されてきた占領史の“闇”を体現するかのような暗躍者たち。
彼らの正体とは?
本当の素顔とは?
今回は、その中から美貌、名声、大金…全てを備えた『偽りの英雄』を紹介させて頂きました。
〔編集後記②〕
“コインには裏側がある。物事には別の見方があると分かる”
Appleの創業者スティーブ・ジョブズは、このような言葉を残しています。
そこで、私たちが教わらない『裏側の歴史』を皆さんにご紹介します。
教科書や大河ドラマでは語られない隠された歴史とはどのようなものなのか?
明治維新の立役者として知られる吉田松陰。
自身の教える松下村塾にて高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋など、幕末から明治時代にかけて活躍する人々を輩出したと言われる幕末の有名人。
出身の山口県では、今でも人々から「吉田先生」と呼ばれるほど広く慕われている偉人でもあります。
…ですが、この松陰には、いくつか不可解な謎があるのを皆さんは知っていますか?
私たちが教科書やドラマで知る明治維新では語られない歴史の裏側…。
『吉田松陰の3つの謎』がこちらです。
<吉田松陰の謎1:短すぎる指導歴>
吉田が『明治維新の立役者』と呼ばれている理由。
そこにはやはり『長州ファイブ』の存在があります。
遠藤謹助、伊藤博文、井上勝、井上馨、山尾庸三。
彼ら長州出身の若者たちは鎖国の中でヨーロッパに密留学し、先進的な近代技術を吸収。
それらを日本に持ち帰り、明治初期の急速な近代化に大きな影響を与えました。
彼らを育てたことが吉田の功績として讃えられているのですが…。
実は、長州ファイブを教えていたのはたったの1年だけでした。
「恩師」と呼ぶには、流石に短すぎではないでしょうか?
もちろん、時間が全てではないはずです。
…しかし、長州ファイブの一人伊藤博文は『回顧録』にて、このように語っています。
松下村塾では5ヶ月しか学んでいない…
私の恩師は来原良蔵氏だ。
吉田の下で学んだのは半年足らずで、恩師は別の人間だと言うのです。
その来原は長州の藩士でした。
このような記録があるにも関わらず、なぜ吉田は明治維新の立役者として語られているのでしょうか?
<吉田松陰の謎2:高杉晋作「松陰とは絶縁する」>
今でこそ、山口では松陰“先生”と呼ぶのが当たり前になっていますが、当時、吉田とその門下生たちは、地元の人々からは良い目では見られていなかったようです。
吉田の門下生の一人に野村靖という男がいるのですが、彼は回顧録『追懐録』で、地元の人々が、
「吉田や門下生を『乱民』のように見て、皆、警戒して近づく者はいなかった」
と語っています。
さらに、同志たちから、
「鼻輪の無い暴れ牛」
と呼ばれたという高杉晋作ですら、父にこんな手紙を書いています。
<寅次郎(松陰の通称)事にては一言一行も致すべきようの志はござなく候間、この段は御安心下さるべく候よう願い上げ奉り候>
この手紙で高杉は、
「松陰との関係を断つ」
と誓い、父を安心させようとしているのです。
あの破天荒な高杉が心配するほど、周りから異常に見られていた吉田松陰。
私たちが教科書やドラマで学ぶ歴史とは、かなり違ったものに感じませんか?
<吉田松陰の謎3:真の明治維新の立役者>
吉田が明治維新の立役者ではないならば、一体、誰が明治維新を支えたのでしょうか?
維新を進めたのは若者の志士たち。
政治機構や教育などの綿密なシステムを整えるには、“導き手”の存在が必要だったことは確かです。
実はその導き手について、ある男が証言をしています。
その男とは、高橋是清。
総理大臣を歴任した是清は、自伝でこのように語っています。
「高位高官の人たちが外国の事情を知りたいと思う時には、まずフルベッキ先生を訪ねて教えを乞うた。就中、加藤弘之、辻新次、杉孫三郎などという人々は、しばしばやって来て、先生の教えを受けた」(『高橋是清自伝』)
是清が「先生」と呼び慕う男とは、グイド・フルベッキ。
この男こそが、幕末志士の『恩師』であり、明治維新の影の立役者でもありました。
オランダ出身のフルベッキは、西洋の近代的な技術や文化の知識を用いて国防や行政などに関して、明治政府の重鎮に献身的に指導しました。
人望が厚く、高橋是清以外にも大隈重信や岩倉具視などとも深い親交があったといいます。
しかし、そんな影の立役者ことフルベッキはあまり取り上げられることはなく…。
私たちにとっての明治維新は、吉田松陰先生の教え子たちが成し遂げた近代化として学んでいるのでした。
このように、私たちが知っている『英雄』には想像もつかないような裏側の歴史がありました…。
大河ドラマなどで見る姿とは、全然違うその実態に驚いたのではないでしょうか?
…しかし、日本の歴史を見ていくと、実は吉田松陰よりも驚くような裏側を持つ人物がいました。
幕末から約80年後…。
大東亜戦争が終わり、GHQが日本に降りたつ頃、その男の伝説が始まりました。
『占領期の英雄』として憧れを集めるこの人物の正体こそ、本編の白洲次郎でした。
〔編集後記③〕
少し前の総裁選で、国民が求めた『森友問題の再調査』。
公文書の改竄や安倍前首相の妻・昭恵の語られない交友関係、そして、自殺を迫られた2人の官僚など、闇の深い問題でしたが、その後自民党側からはこれといった言及もなく総裁選、衆院選を経た今でも尚、取り上げられることはなくなりました。
「責任は取りたくない。自分たちの罪は、犠牲を払ってでも隠し通す…」
そんな腐敗した政治家の体質ですが、もちろん、今になって始まったことではありません。
今からおよそ70~80年前、大東亜戦争から戦後にかけて、外務省や吉田茂らが罪を逃れるために犠牲なった男がいました。
その男の名こそ、本編の悲劇の人である奥村勝蔵です。
当時の外務省や吉田茂が企んだ罪の隠蔽工作を皆さんにお伝えします。
外務省の罪:真珠湾攻撃が“奇襲”になったワケ
リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)。
1945年12月8日。
日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃し、日米大戦開戦の火蓋が切られることになったこの出来事ですが、アメリカでは宣戦布告がない状態で突然行われた奇襲攻撃と認識し、
「日本人は卑怯者だ!」
と考えている人も多いようです。
確かに、真珠湾攻撃は宣戦布告より1時間近く前に行われたというのは事実なのですが、なぜこうも微妙なタイミングになってしまったのでしょうか?
もう少し宣戦布告が早ければ、
「奇襲をした汚い日本人」
なんて汚名は着せられてはいなかったはずです。
そこには、外務省と大本営のある思惑が隠されていました。
「宣戦布告なしでは不要に敵を増やしてしまう…。とは言っても、最初の攻撃で確実にダメージを与えたい」
そう考えた外務省と大本営は、
「真珠湾への奇襲作戦の効果を最大限に高めるため、通告をギリギリまで引き延ばす」
という方針を採用します。
これまでは、ただの“狡猾な判断”と解されていましたが、そのやり口が政治家の腐敗を物語るような内容でした。
当時の宣戦布告は、大本営がアメリカの日本大使館が“暗号電報”を送り、それを大使館の職員が解読、そして内容を英語で清書しアメリカに通達する、という流れで行われていました。
つまり、大使館が非常に重要な役割を果たしているということなのですが…。
外務省は奇襲の罪を大使館に押し付けるようなことをしました。
どうやって責任転嫁したのか?
外務省は宣戦布告を意味する『最後通牒』なるものを大使館に送ったのですが、
・全14通のうち、最終通が『大至急』とも『至急指定』ともなされていない。
これにより当然、電報の到着が遅れます。
・その上、訂正電報まで送っている。
当時はタイプライターで清書します。
なので、訂正するには最初から打ち直さなければいけませんでした。
・この状況で、大使館の奥村勝蔵は慣れないタイプをさせられた。
“タイプに慣れたアメリカ人には任せるな”と通達がありました。
このような
「宣戦布告が時間通りにできるはずもない」
という状況で、大使館は当然、真珠湾攻撃の前に通達を送ることはできませんでした。
つまり、外務省は、
「時間通りに通達できたら日本は無罪。遅れてしまったら大使館の責任」
という絶妙なポジションを取ろうとしたのです。
“だまし討ち”の責任は「大使館にあり」。
このような認識のもと、大使館の第一等書記官の奥村勝蔵は、外務省の身代わりにされてしまいました…。
吉田茂の隠蔽:マッカーサーに嫌われたくない
しかし、その後日本は、ポツダム宣言受諾により無条件降伏…。
GHQ主導の下、占領が進められていきます。
敗戦国になってしまった今、当然“奇襲の罪”は追及されることになるでしょう。
そんな中、どのようにすれば外務省は罪から逃れられるのか?
戦後、外務大臣に就任した吉田茂は考えました。
我々外務省のやり口を知っている人間に口封じをさせれば良い…。
そこで、吉田は大使館の書記官の奥村勝蔵を突然、外務次官(外務省の最高官職)に任命します。
だまし討ちの汚名を背負った代償として昇進させ、外務省の罪を口封じさせる…。
そんな汚い思惑に、奥村は翻弄されることになりました。
このようにして、吉田は自らが戦争の責任を追及されることなく、むしろGHQにとって都合の良い人間として保身に走り、その後は総理大臣にまで上り詰めることになります…。
責任を逃れたい外務省や吉田茂によって、好き放題に翻弄された奥村勝蔵。
…ですが、彼にとって、これは悲劇の始まりに過ぎませんでした。
本編で紹介した、この後に起きた1つの大事件が、奥村を死の淵まで苦しめることになります。
私たちが教科書やドラマでは知ることのない、戦後占領史の“闇”。
これを知らなければ、
・GHQと日本政府の本当の関係
・国を裏切った日本人の正体
・最後まで日本のために戦い続けた人
このような重要な歴史が、現代の『森友問題』のように、身勝手な政治家たちの都合によって隠されたままになってしまうのです…。
今回は非常に長くなりましたが、最後までお読み頂きまして有り難うございました。
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