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2022.6.13 FBIが徹底マークした伝説のスパイ

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戦時中には、多くの日本人スパイが活躍しましたが、
「彼のような優秀な部下がいたらどれだけ助かるだろう」
と、米国務長官に言わしめた男。

今回は、帝国陸軍軍人であり、FBIが徹底マークし、諜報大国アメリカが認めたスパイ岩畔いわくろ豪雄ひでお陸軍少将と彼にまつわる逸話と小話を紹介したいと思います。


岩畔は広島県の呉出身で、『謀略の天才』と言われた人です。

ちなみに『謀略』という言葉には、今は物凄く悪いイメージがあります。

しかし、当時の軍の中での謀略というのは、それほど悪い意味ではありませんでした。

むしろ、正面攻撃で軍事力を使うか、謀略を使うかというチョイスで、つまり何かの作戦目標・ターゲットを達成するときに、
「軍事力でやるか謀略でやるか、どっちにしようか」
という会話がよくありました。

岩畔は、1919年のシベリア出兵で、コミュニストのレジスタンスであるパルチザンに対し、反乱軍として対ゲリラ戦の経験を積みました。

そして、1930年代には、東京にある外国大使館の盗聴や郵便検閲などを行いました。

岩畔の特筆すべき点は、『通貨戦争』です。
これは、偽札を作って敵対国に流し、経済を弱体化させて戦うという戦い方です。

そういった、銃や武器を使わない戦い方を得意とした方です。

この岩畔少将は、とにかく頭が良かったということで、文章を書かせても上手く、どのようなアイデアを持ってきても、それを1つにまとめて出してしまう天才と云われた方でした。

後に、同じ陸軍軍人だった秋草俊と共に、当時は後方勤務要員養成所と呼ばれていた日本のスパイスクールである『陸軍中野学校』を創ることになります。

その一方で、彼は色々なことをしています。

1939(昭和14)年に、昭和通商という会社を作りました。
当時は、日本軍が使ったライフルやピストルのように、古くなったものをどこに売ろうかという時には、三菱や三井、大倉財閥などが色々な国に競争して売っていました。

しかし、それだと値段が下がり、他の国が入ってきた時に性能などの入札で負けてしまうため、オールジャパンとして会社を1つにする目的で作られました。

組合のようにして三菱や三井、大倉財閥が入り、日本の陸軍が管理をして国策会社にしようということで、モンゴルや中国、タイあるいはチベットなどのにも日本のライフルを売っていました。

この昭和通商という会社は正社員の数が3000人。

テンポラリーのスタッフや現地雇用者を入れると6000人の会社であり、満州や中国大陸のみならず、ニューヨークや南アメリカのペルーやボリビア、ヨーロッパではドイツのベルリン、イタリアのローマ、東南アジア各国に支店を持っていました。

そこに日本人の社員たちが行って、世界中でビジネスをしていたのです。

昭和通商は、軍が秘密活動をやる上で非常に便利な会社でした。

例えば、ある軍人が軍を一旦退役した形にして、昭和通商に入って民間人として活動します。

しかし、その情報などは全部軍の本部に行くということで、非常に上手なオペレーションをやりました。

そして、実はこの会社は、後にアヘンと麻薬を大量に扱いました。

これは日本の黒歴史ですが、例えばイラン産やトルコ産、 モンゴル産といった麻薬をたくさん売って、関東軍や日本軍の戦争の資金にしたり、満洲国を設立する時の資金にしたりということも、この昭和通商という謀略会社がやっていました。

これを聞くと、
「ひどい、悪い会社だな」
というのが、一般的な戦後日本人のイメージだと思いますし、確かに褒められたことではありませんが、
「これは日本だけがやっていたのか?」
というと、別に日本だけがやっていたわけではありません。

そもそも、こういったアヘンを使った麻薬ビジネスをやって、その秘密資金をマネーロンダリングして、軍や現地の傀儡政権の資金にしたり、本国に持って帰るということを一番最初にやったのはイギリスの東インド会社です。

東インド会社が、香港を中国の清帝国から奪い取るときに、アヘン戦争をしました。

その後、中国国内にインドで作った大量のアヘンを東インド会社経由でどんどん売るわけです。

中国国内のいろいろな商社などを間に噛ませますが、そのお金というのは、麻薬から取ってきた汚いお金です。
領収書も何も取れません。

どうするのかというと、それをマネーロンダリングするために銀行をきちんと作りました。

その銀行の1つが香港上海銀行、今はHSBCといいますが、そういう会社を作ってマネーロンダリングをしていました。

当然、フランスも真似をしましたし、今ではアメリカもやっていますし、ロシアでも中国でも北朝鮮でも、どこの国でもやっています。

日本も昔はやっていたのです。

「ほかの国がやっていたから日本も許されるべきだ」
と言っているわけでは全くなく、こういう類の戦いをやっていたということです。

そして、今では、日本の河川の下流域の如く、ある意味良くも悪くもきれいになり過ぎてしまい、最早こういった芸当はできませんし、当然、麻薬を使って何かをするというのは、勧められたことではありません。

しかし、1つの歴史的な事実として、こういうことをやっていました。

そうかと思えば、中国戦線で国民党政府を倒すために、岩畔少将は『杉工作』という作戦を実行します。

これは、日本陸軍の情報将校が、上海に阪田機関という特務機関を創り、中国国内の黒社会である青幇チンパンというマフィアと仲良くなって、本当の中国のお金を日本の川崎の登戸という所で刷ったのです。

それを45億元という巨額の偽金を中国国内に流して、経済・通貨戦争をやりました。

ところが、ここで「日本人だな」と思って笑ってしまうのが、あまりに本物のように精巧で、しかもインクも本物を使っていました。

そのため、当時の南京政府は、お金が無くて困っていたので、逆に岩畔たちがやった経済戦争のおかげで、お金がどんどん入ってくるものですから、助かってしまったということもあったとか。

そこまで本当に完璧なものを作るというのは、変なところで日本人だなと思います。

これが成功したかどうかは分かりませんが、通貨戦争までやってのけようとするスケールは、今の日本人には、まず無いのではないかと思います。

そして、冒頭に岩畔を米国務長官が欲しがったというのはどういうことかと云いますと、このように裏方で生きてきた人なのですが、彼は、実は1941年、中米、アメリカのワシントンの日本大使館付の武官補佐官としてアメリカに行きました。

そして、1941年1月からずっと日本とアメリカは、戦争をしないようにとアメリカとの和平交渉をしました。

ところが、岩畔の過去を知っているアメリカのFBIは、岩畔のことをずっとマークします。

FBIは電話を盗聴をしたり、ホテルの部屋から岩畔が電話をしているのを全部聞いたり、行動をいわゆる監視ということをずっとやっていました。

そして、ルーズベルト大統領とも、いろいろな交渉をする準備をしました。

相手になっていたのが当時、アメリカの長官のコーデル・ハルです。

日本ではハル・ノートで有名ですが、ハルと共に『日米諒解案』を作成したというのも岩畔だと言われています。

しかし、これが外務省の松岡洋右ようすけから
「ノー」
と言われてしまい、日の目を見ることはありませんでした。

当時、アメリカにはもう1人、日本の陸軍から大佐のスパイが入っていました。

三井物産の社員としてニューヨークに入っていた新庄健吉大佐です。

彼が、アメリカと日本の経済規模を数字の上で比べると、アメリカが大きすぎてとてもではないけれども、日本は勝てないというようなレポートを出しました。

例えば、日本:アメリカの比率
鋼鉄の生産量や保有量 1:20
石炭 1:10
石油 1:500
電力 1:6
アルミニウム 1:6
工業労働力 1:5
航空機製造力 1:5
自動車製造力 1:450
というぐらい経済の差があったということです。
そのため、新庄は「これは無理だ」ということでレポートを書いて送りました。

そして、それを見た岩畔も、何とかしてアメリカと戦争をしないようにということで奔走ほんそうしました。

結果は皆さんもご存知の通り、日本は大東亜戦争を始めざるを得なくなったなのですが、このような岩畔の姿を見た国務長官のコーデル・ハルは、
「私にも岩畔のような優秀な部下がいたらどんなに助かるだろうか。岩畔みたいな人が本当に欲しい」
と漏らしたと云われています。

そんな岩畔の親友と言われる人がいました。
それが、インド人のA・M・ナイルという人です。

ナイル氏は、インドでもそこそこ裕福な家の出身でしたが、高校生の頃からインドの独立運動やインドに幾つも存在するソーシャルランクであるカースト制を無くそうという運動をしていました。

彼の兄が北海道の大学におられて、
「日本が良いから来い」
と言われて、彼も京都帝国大学(現・京都大学)に行って勉強をしました。
その時に、当時、既に東京に住んでいたラス・ビハリ・ボースというインドの独立運動家とも交流をしたということです。

その後、日本の中でインドの独立運動をやりますが、その後は満州に渡っていろいろな活動をします。
大東亜戦争が始まった後に、日本はインド国民軍と一緒になってイギリスと戦うことになります。

その頃、ほとんどの日本人はインド人のことを知りません。

文化も分からなければ、インド人かバングラデシュ人、スリランカ人かパキスタン人かというのも日本人には分かりません。

当時は、日本軍の中にも学の無い馬鹿な兵士は居たので、そういったところで間違いを犯さないためにはどうするか、というインド人の見分け方も教えました。

つまり、相手がこの人がインド人かバングラデシュ人か分からないというときに、
「『ガンジーをどう思う?』」と聞いてみろ」
と、彼は言いました。

「もし、その人がガンジーについてニコっと嬉しくなったならば、多分インド人なのでその人は大事に扱って下さい」
というような話を、ナイル氏は日本軍人に言ったのです。

当時、東南アジアのマレーシアやシンガポールなどの地域に、インド人は約200万人くらいいました。

しかし、その結果、ほとんどの日本の軍は、あまり問題がなかったそうです。

インド人の方も守ることができたというのは、やはり、ナイル氏とビハリ・ボース氏のおかげであったということです。

そして、ナイル氏は戦争が終わった後も日本に残り、1949(昭和24)年に銀座に自分の名前を取ったナイルレストランというカレーの専門店を開きます。

岩畔は、ナイル氏ととても仲が良かったので、ナイル氏が亡くなった後も、銀座のナイルレストランに行って、カレーを食べながらナイル氏のことを思い出したというようなことがありました。

今もナイルレストランは銀座にあり、3代目の方が店を継がれています。

非常に美味しいと評判のお店だそうなので、私も明日行こうかと思っています

これも、そういった銀座にある小さなお店が、こんな歴史を持っていたんだと、日本とインドの友好関係やインドの独立のようなものに繋がっていた歴史があることを感じながら、カレーを食べてみるのも美味しいのではないかと思います。

ちなみに、このナイル氏は、1982年に『知られざるインド独立闘争 A.M.ナイル回想録』という本を出版しています。

この本を出したきっかけは、インド独立の父であるチャンドラ・ボースだと云います。

チャンドラ・ボースは、確かに非常に勇猛果敢な人で、
「イギリスと実力で戦うんだ」
と言って、ナチスドイツに行ったり、日本と協力したりと、色々と活動していましたが、ナイル氏は、
「チャンドラ・ボースの闘争心は認めるものの、今のインドでは過大評価されている」
と言っています。

むしろ、ナイル氏は、日本人女性と結婚した別のボース、ビハリ・ボース氏に対し、
「この人の活動の方がインドの独立に非常に強い影響を与えた、後世に残さなければ」
ということで、本を書いておられます。

ちなみに、このビハリ・ボースさんが新宿の中村屋というレストランで、日本人の口に合うカレーを出しました。

実は、私も先日食べましたが非常に美味しかったです。

「こういったレシピをビハリ・ボースさんが作ったのだな」
と思いながら食べましたが、皆さんも是非インドと日本の歴史、インドの独立の秘話が詰まったレストランで一度、歴史を振り返りながらカレーを食べるのはどうでしょうか。

最後までお読み下さいまして有り難うございました。
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