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2020.10.24 アメリカ大統領が尊敬した日本の政治家

Uesugi Yozan, who?

1961年、第35代米国大統領に就任したジョン・F・ケネディは、日本人記者団から質問を受けた。

記者「あなたが、日本で最も尊敬する政治家は誰ですか?」

ケネディ「上杉鷹山(ようざん)です」

おそらく日本人記者団の中で、上杉鷹山の名を知っている人はいなかったでしょう。なにせ明治以前の人物で、さっと藩主=政治家に結び付けられる日本人は、今もそういないのではと思います。

鷹山公は、江戸時代に米沢藩の藩政建て直しに成功した名政治家で、財政危機に瀕する現代日本にとっても学ぶべき所が多いです。

戦前は、小学校の修身教科書にも登場し、青少年に敬愛されてきた人物です。

では、上杉鷹山とは、どのような人物だったのか?
そして、なぜケネディは鷹山を尊敬していたのだろうか?
を今回は書き綴っていこうと思います。

破綻していた藩財政

上杉鷹山は1751(宝暦元)年、日向国(宮崎県)高鍋藩主である秋月家の二男として生まれ、数え年10歳のとき第8代米沢藩主である上杉重定の養子となりました。

上杉家は関ヶ原の合戦で石田三成に味方したため、徳川家康により会津120万石から米沢30万石に減封。

さらに、3代藩主の綱勝が跡継ぎを定める前に急死したため、家名断絶は免れたものの、さらに半分の15万石に減らされてしまいました。

収入は8分の1になったのに、120万石当時の格式を踏襲して家臣団も出費も削減しなかったので、藩の財政はたちまち傾きます。

年間6万両ほどの支出に対し、実際の収入はその半分ほどしかなく、不足分は借金でまかなったため、その総額は11万両と2年分近くに達していました。

ちょうど、現代の日本のような深刻な財政破綻に陥った状況と言えます。

収入を増やそうと重税を課したので逃亡する領民も多く、かつての13万人が、重定の代には10万人程度に減少していました。

武士達も困窮のあまり
「借りたるものを返さず、買いたる物も価を償わず、廉恥を欠き信義を失い」
という状態に陥っていました。

民の父母

受次ぎて国の司の身となれば 忘るまじきは民の父母

この歌は、鷹山が17歳で第9代米沢藩主となったときに決意を込めたものです。

藩主としての自分の仕事は、父母が子を養うごとく、人民のために尽くすことであるという鷹山の自覚は徹底したものでした。

後に35歳で重定の子・治広に家督を譲った時、次の3ヵ条を贈りました。
これは『伝国の辞』と呼ばれ、上杉家代々の家訓となります。

・ 国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候

・ 人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこれなく候

・ 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候

藩主とは、国家(=藩)と人民を私有するものではなく、『民の父母』として尽くす使命があると鷹山は考えていました。
しかし、それは決して民を甘やかすことではありません。

鷹山は、『民の父母』としての根本方針を次の『三助』としました。

・ 自ら助ける「自助」
・ 近隣社会が互いに助け合う「互助」
・ 藩政府が手を貸す「扶助」

武士たちの「自助」と「互助」

「自助」の実現のために、鷹山は米作以外の殖産興業を積極的に進めます。

寒冷地に適した漆(うるし)や楮(こうぞ)、桑、紅花などの栽培を奨励しました。

漆の実からは塗料を取り、漆器を作る。
楮からは紙を梳き出す。
紅花の紅は染料として高値で売れる。
桑で蚕を飼い、生糸を紡いで絹織物に仕上げる。

鷹山は、藩士達にも自宅の庭で、これらの作物を植え育てることを命じました。

武士に百姓の真似をさせるのかと強い反発もありましたが、鷹山自ら率先して城中で植樹を行ってみせました。

この平和の世には、武士も農民の年貢に徒食しているのではなく、「自助」の精神で生産に加わるべきだと身をもって示したのです。

やがて、鷹山の改革に共鳴して下級武士たちの中からは、自ら荒れ地を開墾し、新田開発に取り組む人々も出てきました。

家臣の妻子も養蚕や機織りに携わり、働くことの喜びを覚えました。

米沢城外の松川に架かっていた福田橋は、傷みがひどく大修理が必要であったのに、財政逼迫した藩では修理費が出せずそのままになっていました。

この福田橋をある日、突然20~30人の侍たちが肌脱ぎになって修理を始めます。

理由は、もうすぐ鷹山が参勤交代で江戸から帰ってくる頃でした。

橋がこのままでは、農民や町人がひどく不便をし、その事で藩主は心を痛めるだろう…。
それなら、自分たちの無料奉仕で橋を直そうと、下級武士たちが立ち上がったのでした。

「侍のくせに、人夫のまねまでして」
とせせら笑う声を無視して、武士たちは作業に打ち込みました。

やがて江戸から帰ってきた鷹山は、修理された橋とそこに集まっていた武士たちを見て馬から降ります。

そして、
「お前たちの汗と脂がしみこんでいる橋を到底馬に乗っては渡れぬ」
と言って橋を歩いて渡りました。

武士たちの感激は言うまでもありません。

鷹山は、武士たちが自助の精神から、さらに一歩進んで、
「農民や町人のために」
という互助の精神を実践し始めたのを何よりも喜んだのです。

農民たちの「自助」と「互助」

「互助」の実践として、農民には五人組、十人組、一村の単位で組合を作り、互いに助け合うことを命じます。

特に孤児、孤老、障害者は五人組、十人組の中で養うようにさせました。

一村が火事や水害など大きな災難にあった時は、近隣の4ヵ村が救援すべきことを定めました。

貧しい農村では、働けない老人は厄介者として肩身の狭い思いをしていたので、鷹山は老人たちに米沢の小さな川や池、沼の多い地形を利用した鯉の養殖を勧めさせます。

やがて美しい錦鯉は江戸で飛ぶように売れ始め、老人たちも自ら稼ぎ手として生き甲斐を持つことができるようになりました。

これも「自助」の一つです。

さらに鷹山は90歳以上の老人をしばしば城中に招いて、料理と金品を振る舞いました。

子や孫が付き添って世話をすることで、自然に老人を敬う気風が育っていきました。

養父の重定が70歳となった古希の祝いには、領内の70歳以上の者738名にも酒樽を与えました。

そして31年後、鷹山自身のが古希のときには、その数が4560人に増えていたといいます。

天明の大飢饉をしのいだ扶助・互助

藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価が問われました。

1782(天明2)年は、春から長雨が始まって冷夏となり、翌年も同じような天候が続いたため、米の収穫は平年の2割程度に落ち込みました。

しかし、この時は鷹山が陣頭指揮を執ったので、藩政府の動きは素早かった。

・ 藩士、領民の区別なく一日あたり男は米3合、女は2合5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。

・ 酒、酢、豆腐、菓子などの穀物を原料とする品の製造を禁止。

・ 比較的被害の少ない酒田や越後地方からの米の買い入れる。

鷹山以下、上杉家の家臣も領民と同様、三度の食事は粥としました。

それを見習って、富裕な者たちも貧しい者を競って助けました。

全国300藩で、領民の救援をなし得る備蓄があったのは、紀州、水戸、熊本、米沢のわずか4藩だけでした。

近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙台藩に至っては、30万人の餓死者と病死者が出たとされていますが、米沢藩では、このような扶助と互助の甲斐あって餓死者は一人も出ませんでした。

それだけでなく、鷹山は苦しい中でも他藩からの難民に藩民同様の保護を命じています。

江戸にも飢えた民が押し寄せましたが、幕府の調べでは米沢藩出身のものは一人もいなかったといいます。

米沢藩の業績は幕府にも認められ、「美政である」として3度も表彰を受けています。

自助・互助の学校建設

鷹山は、領内の学問振興にも心を砕きました。

藩の改革は将来にわたって継続されなければならないため、人材を育てる学校が是非必要だと考えました。

しかし、とてもそれだけの資金はありません。

そこで鷹山は、学校建設の趣旨を公表して広く領内から募金を募りました。

武士たちの中には、先祖伝来の鎧甲を質に入れてまで募金に応ずる者がいました。

また学校は藩士の子弟だけでなく、農民や商人の子も一緒に学ばせることとしていたので、これらの層からの拠出金が多く集まりました。

子に未来を託す心情は、武士も庶民も同じだったのです。

ここでも農民を含めた自助・互助の精神が、学校建設を可能としたのです。

アジアの理想郷

イギリスの女流探検家イザベラ・バードは明治初年に日本を訪れ、いまだ江戸時代の余韻を残す米沢について、次のような印象記を残しています。

<南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。
鋤で耕したというより、鉛筆で描いたように美しい。
米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。
実り豊かに微笑する大地であり、
アジアのアルカディア(理想郷)である。
自力で栄えるこの豊沃な大地はすべて、それを耕作している人びとの
所有するところのものである。
美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。
山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。
どこを見渡しても豊かで美しい農村である。>

イザベラ・バードは、この土地がわずか100年前には、住民が困窮のあまり夜逃げをするような所であったことを知っていたかどうか…。

この理想郷を作り上げたのは、鷹山の17歳から55年にも及ぶ改革が火をつけた武士と領民たちの自助と互助努力だったのです。

美しく豊かなのは土地だけではない。
それを作り出した人々の精神も豊かで美しい。

病人や障害者は近隣で面倒をみて老人を敬い、飢饉では富裕なものが競って貧しい者を助ける。

鷹山の自助、互助、扶助の『三助』の方針が、物質的にも精神的にも美しく豊かな共同体を作り出したのです。

ケネディの問いかけ

Ask not what your country can do for you.
Ask what you can do for your country.

(それゆえ、わが同胞、アメリカ国民よ。国家があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国家に対して何ができるかを自問してほしい。)

ケネディ大統領就任演説の中の有名な一節。

国民がみな国家に頼ろうとしたら国家はもたない。

それは社会主義国家の失敗や福祉国家の行き詰まりで歴史的にも証明されています。

現代日本の財政危機もひたすら景気浮揚のための政府公共投資、福祉充実のための予算膨張と国民が国からの「扶助」のみに頼ってきたツケが溜まりに溜まったものです。

国家という共同体が成り立つためには、その構成員がそれぞれ国家のため、お互いのために何かをしようという自助と互助の精神が不可欠です。

それがあってこそ国が成り立ち、その中で国民は自由と豊かさを味わうことができます。

ケネディが鷹山を尊敬したのは自助と互助の精神が、豊かで美しい国造りにつながることを実証した政治家であったからでしょう。

しかし、日本の戦後教育は、鷹山公をことさらに無視してきました。

それは「扶助」のみを訴える戦後の社会主義的風潮からは、「自助・互助」とのバランスを取る鷹山の姿勢は受け入れ難いものがあったからでしょう。

財政再建もまた、教育や政治の改革も「自助・互助」の精神の復活が鍵です。

それを教えてくれている人物が、実は私たち自身の歴史のすぐ手の届くところにいることに早く気が付くべきではないでしょうか。

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