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2023.7.4 中国の英雄と呼ばれたナチス党員の正体

半世紀の時を超えて蘇った悪しき日記

「日本人は暴虐な人種だ!」

あるドイツ人が、1冊の日記の執筆に執念を燃やしていました。

一介のドイツ人が書いたこの日記が、後に世界中に広められていくとは、この時は本人さえも予想だにしていませんでした…。

なぜ、歴史に埋もれたはずの日記が50年も経って突如掘り起こされたのか?

実は、その背後には金儲けのカラクリと、日本のある勢力が関係していました…。

「我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携の基礎となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来する事を喜ぶものであります」

現地の中国人からも慕われていた野田少尉が処刑されます…。
死刑執行を目前にして、彼の脳裏には、戦いの日々が走馬灯のように浮かんでは消えていきました…。

1937年、支那事変が勃発。
蒋介石はテロを繰り返し、民間人の犠牲は日に日に増えていきます。
同胞を守るため、野田少尉は大陸へ飛びました。

戦いは次第に泥沼の様相を呈し、敗走する中国軍を追って南京に向かいました…。
「いくら日本軍が討伐しても、三年や五年で尽きるものではない」

南京では中国人のゲリラと住民の戦闘が絶えず、住民が殺されたり、子供のが誘拐されたりする悲惨な出来事が繰り返されていました…。

「中国では兵隊は良くない人間ばかりなので、住民は日本軍も同じようなものだと考えている。中国の兵隊と一緒に見られては敵わないね」
ですが、日本兵に対する住民の見方は徐々に変化していきます。

「最近部落での評判が大分いいのです。示威行軍に行っても皆出迎えてくれるほどなのです。日本軍は税金も取らないし、品物買ってくれると…」

「中国兵は毎日食い物を貰いに来る。応じなければ銃殺されることもある。税金はむやみに取る。出さなければ女や子供を人質に取る。こんなやり方をするのだから嫌われるのも当たり前です」

日本軍の行動は規律に満ちており住民に歓迎されていました。

しかし、日本が戦争に負けると状況は一変します。

野田少尉は逮捕され『南京軍事法廷』に連行されました。

そこでは東京裁判と並行して『戦犯裁判』が行われていたのでした。

野田少尉は最後まで無罪を訴えましたが、即日死刑判決が下されます。

裁判とは名ばかりで、日本や第三国の弁護人の立ち会いも許されない、一方的な集団リンチでした。

後世の日本人なら、必ず何が正しかったか、認めてくれる…。
日本人を信じた最後の言葉がこうでした。

「何卒我々の死を犬死、徒死むだじにたらしめない様に、それだけを祈願致します」
「中国万歳、日本万歳、天皇陛下万歳」

享年35。
野田少尉は自分の命が平和の礎となることを願いながら死んでいきました…。

この様子をほくそ笑みながら見る男がいました…。

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