多言語国家の可能性

高校1年生の頃に国語総合の課題で書いたレポートを元にしたものです。

課題:「多言語国家の可能性」とは具体的にどのようなものが考えられるか?

「多言語国家」には、多様な文化を尊重し、差別のない平和な社会を作ることができる可能性があると思う。

『言葉屋』に、以下のように要約できる文章がある。
「人間は言語があることによって同じ本や新聞で情報を共有することができた。それによって同じ思想や常識を持つようになった人を、仲間、すなわち「同じ国民」だと感じるようになった。逆に、違う言語を話す人に出会ったとき、人々はお互いに「自分たちの国」との違いを意識した。」

言語は戦争の道具になることもあった。戦時中、植民地支配をおこなった国々は、植民地の人々に自分たちと同じ言語を使うように強制した。使われる言語を統一することで、植民地の人々にも「同じ国民」という意識が芽生え、自分たちの国が広がると考えたからだ。イギリスがオーストラリアやニュージーランドに英語を、日本が朝鮮に日本語を話すように強制したことが主な例として挙げられる。

明治時代の日本では、方言札などの手段を用いて、すべての日本国民が使う言語を「標準語」に統一しようとした。結果的にこれらは差別を生むこととなった。一つの言語に統一しようとしたことにより、「異端なもの」=「統一しようという動きを邪魔するもの(方言など)」が目立つようになり、それを排除する力が働いたからである。

近年におけるグローバル化とは、世界全体が一つになろうとする動きのことであり、それは言語の均一化をも加速させた。これは、「言語を一つにしていく動き」という意味で、上に述べた過去の二つの例とも通じる動きだといえる。グローバル化の欠点には、それぞれの言語の特性が薄れる、または消滅するという問題がある。言語の消滅はその言語と結びついている貴重な知恵や世界観や思想の消滅にもつながる。つまり、言語の多様性を失うことは文化の多様性をも失うことになるといえる。また、近年のグローバル化では、多くの情報媒体がアメリカに集中していることなどから、事実上アメリカの文化がほかの文化を支配していることになる。

よって、「多言語国家」を認めることは、言語を統一しようとする動きをなくし、変化に対して寛容になること、文化の多様性を認めることになる。つまり、言語によってそれぞれの「国」の個性を意識したり区別したりすることがなくなり、言語によって「同じ国民」として仲間意識をつなぐ必要もなくなる。だから私は、「多言語国家」には、多様な文化を尊重し、差別をなくすことができる可能性があると考える。

参考文献

GräweGudrun. (発行年不明). 英語の優勢について. 立命館大学 .

クリムゾン・ジャパン. (2021年4月12日). 言語の消滅危機―日本語も他人事じゃない. 参照先: クリムゾン・ジャパン: https://www.crimsonjapan.co.jp/blog/endangered-language_ethnologue/

安田敏朗. (発行年不明). 多言語主義の過去と現在ー近代日本の場合ー. 立命館大学 .

久米絵美里. (2019). 言葉屋⑦ (光)の追跡者たち. 朝日学生新聞社出版部.

松原好次. (2003). グローバル化と「消滅の危機に瀕した言語」. 湘南国際女子短期大学紀要.

西川長夫. (2003). グローバル化と戦争ーイラク占領の「日本モデル」についてー.

猪子寿之. (2013年10月7日). グローバル化は、英語化じゃなくて、非言語化!

─日本、アジア、そして21世紀.

参照先: gqjapan:https://www.gqjapan.jp/culture/column/20131007/trotting-arround-asia-126


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