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他人の書くものは大体「もどかしい」

人の文章を読んでいて「嘘つくなコラ」と思わないことは少ない。「こいつは本当に言うべきことを回避しているな」と感じた瞬間は肉声で叫ぶ。これは本の虫ケラだったチー牛的大学時代から続いている癖。プロ野球を観るのと同じで毒づいたり野次ったり批判すること自体に中毒性の快感を得ているのだ。性悪といえば性悪だけど、誰でもいちおう思い当たる節があると思う。それにこういうときに毒素を排出しないと一体どこで排出できるのよ。友人相手?そんな愚痴許容度の高い友人は自分にはいません。

人はとかく誤魔化す生き物だ。体よく何かを糊塗する生き物だ。中途半端にものを書きたがる人間に限ってその傾向が強い。これは深刻な問題だ。どうにかしたい。

小人的な羞恥心がそうさせるのか、不完全なナルシシズムがそうさせるのか、生来の頭の弱さがそうさせるのか、あるいは文章の技術的低劣さがそうさせるのか、それは分かりません。ただ私が読中にイラっと来る文章は決まって「自分の評判」を妙に気にしているような印象を受ける。自分の過去や心のありようをそのまま言語化させることによる弊害を恐れている。あらゆる方向に遠慮している。「不道徳」「人生を舐めてる」「こいつ嫌い」「差別的」「ひねくれすぎ」「人としてどうなの」「ならず者」「ただの馬鹿」「変態」なんていう読み手の非難的リアクションが恐いのかも知れない。世の中の「自分語り」があんなにも詰まらないのはこの恐れのせいなのか。なんだかんだ皆嫌われたくないし「まともな人」と認定されたくて仕様がないのね。何もかもがナマヌルイ。

子育て系や介護系や教育系や政治評論系の「エッセイ」の中には一読して反吐が出そうなものが多くあるが、そういうのは決まって、「人はこうあるべき」という前提的理念の臭みが強すぎるんだよね。「良識ある大人」としての立場を一瞬たりともは離れることが出来ない。「それはお前のナマの経験じゃないだろ、もっとドロドロした負の感情を克明に記録しろよ」と毒づいてしまう所以です。「子供は可愛いもの」という前提、「親は大事にしなければならない」という前提、「教育者たるもの依怙贔屓はいけない」という前提、「親になることは素晴らしい」という前提。こんな嘘くさい前提からさえ自由になれない「エッセイ」なんかみんな豚に食われろだよ。選挙公報や履歴書の自己PR欄じゃないんだから。守るものが多いせいで文体まで腐ってしまう。

たとえ読んでいる文章の主が誰であれ、「嘘こくなボケ」「綺麗事ほざくなカス」「おいおい論点すり替えんな」と毒づきまくる快感に大差はない。書き手としてはある程度尊敬していたとしても、不満は不満で何も変わらない。というか尊敬していればいるほど余計に不満が濃縮される場合の方が多い。

夏目漱石の書くもの、村上春樹の書くもの、上野千鶴子の書くもの、マルティン・ハイデガーの書くもの、エマニュエル・レヴィナスの書くもの、鈴木大拙の書くもの、プラトンの書くもの、ズブの素人の書いた拙劣無類の雑文、誰の書いた何を読んでいても必ず決定的な「ズレ」を感じる瞬間がある。この「ズレ」は存在論的に必然であり、架橋は不可能。私の経験では、そうした「ズレへの絶望的発奮」こそものを書く上での肝心の端緒となる。

この辺の消息もうちょっと詳しく書きたい。

たとえば妙に煮え切らない「人生論」なんかを間違えて読んでしまったとき私は、「もっと真実をえぐりだして書けよ、人間の心の深部がそんな童貞のマスターベーションみたいな言葉で言い表せるはずないだろう、ふざけんな」と激烈な「もどかしさ」に駆られる。私にあっては、脳裏に勃発したこうした「もどかしさ」こそ、「ならいっそ自分が書いてやろう」という直接的動機を形成するのだ。

「なぜ何も存在しないのではなく何ものかが存在しているのか」という問いのために私がこれまで多くの文章を書いてきたのも、その問いにまつわる他人の書き物が私に全然満足をもたらしてくれなかったからだ。

こういう行き場のない「もどかしさ」に駆動されない限り、生来無精な私は何かを書く気にならない。そもそも原稿料をもらって食ってるわけじゃないからね。それにこの頃は慢性的の抑鬱に引きずられてしまって、オナニーと糞と酒を飲むこと以外、何をするのも大概億劫だ。にもかかわらずこうやって出しゃばって何かを書きたがるのは、「なら俺が的確に書いてやろう」という「純然たる欲望」がそこにあるからに他ならないからだ。

だからね、人の文章を読むことは私にとっていつも非常に「有益」なことだった。上手いとか下手とかに関係なしに行き場のない暴発寸前の陣痛的不満が必ず生じるから。そして「あああああああ、もういい、お前が言わないなら俺が言う」と勢いに乗じ一気呵成に仕上げる。その勢いが竜頭蛇尾に終わることも少なくないけども。けっきょくそれはフラストレーションの質量次第だね。

どんな方面のものであれ、優れた書き物には何かしらの面で上記のごときフラストレーションが強く関係している(と思う)。けっきょく他人の書き物(つまり「考え」「言説」)に不満があるから自分が書いてやるのだ。「違う、どけ、こうやるんだ」みたいな調子で。身の程もわきまえないで。いいのよ、それで。ヤフーニュースのあの地獄のようなコメント欄を覗き見ればわかるでしょう。誰もがなにか一言意見したい時代なのだ。素人がひとかどの評論家然と振舞うことがさして滑稽に映らない時代なのだ。もともと長文を書きたがる面々が我勝ちにしゃしゃり出てくるのも無理はないのです。もっと恥知らずになりましょう。まだまだ修行不足です。

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