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〈都市〉という地獄に幽閉されながら

労働者と消費者がえげつないほどの高密度で集住することで成り立つこの都市というものはただでさえ精神の不安的な人間をますます「病的」にしますます耐え難い存在にした、と断じることに私は毫末のためらいも覚えない。共同住宅で「他人の生活音」のために強迫神経症を患うなど、都市人間に特有の現象でしょう。まさに一事が万事で、都市はこうした「心の狭さ」「他人嫌い」を増幅する装置となっているのであり、都市住人が多かれ少なかれ抱えているあの「なんとなくのイライラ感」の原因は決して個人的事情にのみ帰すべきものではない。なにも東京の満員電車だとかそんな極端でグロテスクな例を持ち出すまでもなく、都市という空間はたいていどこに行っても見知らぬ他人がひしめいていて騒がしく、不快であることに慣れ切ってしまうほどに不快の種が尽きない、ということを都市住人ならたいがい誰もが理解しているだろう。生物的条件を無視した高密度居住を強いる都市生活は、他人をノイズとして認識させる「排他的感性」を自然と育む。そんな地獄みたいなところに居心地の良さなど感じられるわけがない(といって都市以外が楽園かとかといえば勿論そうではないから厄介だ)。
世界的傾向として都市生活者の人口は年々増える一方なのでとうぜん今後間違いなくストレスによる精神疾患者は増える。してみるとグローバルな抗鬱剤メーカーなどは今後ますます収益を上げ、カウンセラー関連の仕事もますます繁盛するだろう。

私自身はいま地方都市の密集的な共同住宅に住んでいるが、足音や喋り声がいったん気になりだすと「殺意」がむくむく湧いて来る。負け組的劣等感を哲学的思索と文学的反逆で埋め合わせようと心をいつも極限まで怒張させている私のような非良心的労働忌避者にとってみれば、他人の出す「無神経な雑音」は全て「からかい」もしくは「挑発」にしか聞こえず、その度やりきれない気持ちにさせられる。「なんでただでさえ可哀想で惨めな俺をそうやって迫害するんだ」となる。防音の行き届いた高家賃物件とは生涯にわたって縁もゆかりも無さそうなので、死ぬまでこうした都市病に苦しめられねばならないのだろうな。赤貧洗うが如しなのに炭水化物中心の食習慣のせいで腹が出て来ていよいよ薄汚くなってしまった不甲斐ない僕には空を見上げる気力も残されていない。
どうしようか?死んだ方がいい?「私の意識」が消えれば「世界」は確かに「滅亡」するからね。そのほうが手っ取り早いか。

というふうにですね、私は「生きること」に慢性的の不愉快を感じているから、脳に作用し気持ち良くさせてくれるものが大好きなのです。そういうものを摂取し過ぎることに何の躊躇もないばかりか、それで寿命を縮められるのなら本望だと常日頃より思っている。なかでも酒、紅茶、トウガラシへの依存体質はこの頃とくに顕著になってきた。つまりアルコール・カフェイン・カプサイシン。ちなみに、トウガラシ料理を食うといささか陶酔的になるのは、その辛み成分であるカプサイシンが体に与える「痛み」に対して脳がエンドルフィン(脳内モルヒネ)を分泌させるからだと、山本紀夫『トウガラシの世界史』(中公新書)に書いてあります。

考えてみれば、「脳よ、覚醒せよ」と言わんばかりに紅茶もしくはコーヒーを毎朝がぶ飲みしなければならない現代の生活者は憐れに過ぎる。そう思いませんか。過酷で退屈な長時間労働を耐え抜くためにカフェインを摂取し続ける人間の多さを思うと、時代憎悪の為に発狂しそうになる。こんな労働疎外に溢れた社会に誰がした、といまさら陳腐な恨み節を並べても虚しい。いまさら「産業革命」だとか「機械文明」といったものに〈不幸の原因〉を求めるなんて滑稽の極みに違いない。でもいくら滑稽に映ってもいいから罵らせてください。「進歩など大嘘だ」と。「どうせ人間に生まれるなら俺は森で狩猟していたかった」と。
現代において大量生産・大量消費されるカフェイン・アルコール飲料は、「生きることに付きまとう不安や苛立ち」を鎮めるための「産業文明推奨薬物」に他ならない。社会のヒエラルキーの最下層でこきつかわれている労働者が私生活の場でその推奨薬物を消費しまくり、結果的にそれらを供給している巨大企業をますます潤し続けるというこの構造は、もうおぞまし過ぎて声を失う。

都市生活(あるいは市場経済圏の生活)は人間の生存上避けられない暴力行使をほとんど外部委託することで維持されている。食卓のうえのポークソテーをしげしげ見つめながらこの豚がどこで生まれいかにして管理・肥育されどうやって殺されどうやって解体・加工されここまで辿り着いたのかをふつうの都市住人は考えない。缶詰のなかのサバやイワシを見てこれは誰がどこでどんな方法で捕獲したものなのかなんてふつうは考えない。そんな「面倒なこと」を考えなくてもいいのが都市生活の最大の「利点」なのだ。そんな骨の髄まで都市ボケしてしまった人々は、石油掘削や森林破壊などで地球の生物種が「自然現象」ではありえない速さで消滅していることにも、真剣な憂慮を抱けない(漫然と疎外感に苦しんでいる都市人間にそんな心的余裕はそもそも生まれない)。空虚を空虚で埋め続けることに余念のない都市住人がさしあたり気にかけることは今晩の献立であり、最新モデルのアイフォンであり、新しくオープンしたばかりの猫カフェであり、人気俳優のゴシップであり、大学の単位のことであり、持っている銘柄の株価であり、贔屓の野球チームの勝ち負けであり、将来もらえる年金の額であり、育毛シャンプーの効能であり、ツイッターのフォロワーが増えないことであり、皐月賞の本命馬のことであり、つまり「宇宙論的暴力問題」の観点から見ればどれもこれも「糞どうでもいいこと」ばかりなのだ。さいきんデヴィッド・グレーバーという人類学者が「ブルシット・ジョブ(糞どうでもいい仕事)」という言葉を広めることに成功したけれど、人間がふだん好んで話題にすることに対しても私は〈bullshit〉と叫びたい。こんな薄汚れた人間などいますぐ巨大隕石で消滅しろと願わない日はないのだけど、これは果たして「邪悪」なことなのだろうか。あるいは心を病んだ孤独人間のヤケクソ気分に過ぎないのか。誰にでもあるやぶれかぶれの「もうウンザリだ」的暴発の後遺症に過ぎないのか。
私はやはり心の底から「人間という存在」を拒絶している。ほかの生き物はまあ好きにやってくれという投げ槍の感じだけど、おのれの暴力性への痛ましい自覚もなしにのさばっている人間どもに対し、ほとんど胸苦しいまでの同族憎悪を抱き続けている。
小学生のころの一人になってぶつぶつ呟きながら妄想遊びに余念のなかった私は、なにかにつけて脳裏に水素爆弾を爆発させてはあらゆるパターンのキノコ雲をぞくぞく湧き起こし猛烈に興奮していた。ヒネリの無い解釈であることは承知だが、そこにはたぶん、人間が営々と作り上げてきた文明が一瞬で灰になることへの無意識的熱望があった。それまで三年ほど隔離的な病気治療を強いられていた私の内面にはひじょうに頑固な厭世意識がこびりついており、それがやがて邪気のない世界壊滅願望へと変質していったのだと思う。
そんな私がいわゆる「非行」や「凶悪犯罪」を起こさなかったのは、私が単なる臆病だったからに過ぎない。想像世界ではいつも嫌いな奴をピアノ線で殺していたので、心はいつも惨殺死体の山だった。他人を直接殺傷したりしなかったのは、『歎異抄』でいう「さるべき業縁」がなかっただけだろう。
それにしても、あのころの無邪気な水爆妄想が現在の「人類絶滅運動」に直結しているとすれば、後者にはそれなりのがっちりした「倫理」の装いがなければ話にならない。お前の人類拒絶思想も結局は「私怨」に端を発するものなのかということになってしまうと、他人を感化しにくくなる。
ただこういうのは楽屋話であって、ほんらい表に出してはいけないことだ。あなたがいま「人間を地上から出来るだけ早く滅亡させる」という遠大な目的に向かって真剣な行動を取ろうとしているのなら、自身の胸の奥深くにひそむ極度に個人的な人間憎悪感情は最後まで包み隠しておいたほうがいい。私はこのように自堕落で頭の弱いナラズモノだから、この「人類滅亡運動」をもっと有効かつラジカルに引っ張ってくれる狡知に長けた猛烈な活動者が現れ出ることを、望むばかりです(この種の英雄待望論がどれくらい愚昧で反実践的であることかはよく分かっているつもりですが、都市ボケの進行した甘ったるい善男善女に囲まれていたら、こんなこともたまには言いたくなるじゃないですか)。

現代の巨大産業構造にどっぷり依存している人間は、ただ生きているだけで猛烈な構造的暴力に加担している。しかし都市という偽善的な「非暴力空間」に悠々と暮らしている限り、そのことにほとんど罪悪感を抱かないで済む。歴史的に人間が都市を「発明」した背景にはおびただしい要因があることは確かだけど、都市空間の与える「機能的な居心地よさ」が「暴力の構造的不可視性」に依っていることは否定しようにも否定できない。
狩猟採集者は生命活動を維持するため他の生物を直接的に捕食する。それも暴力であることには違いないが、少なくともそれは、現代の都市住人が見て見ぬふりを決め込んでいるあの甚大な間接暴力に比べれば、ほとんど取るに足らないものだ。
といった文明批判めいた文を義憤に任せて綴っているが、私はきょうも都市機能や情報技術の「便益」を当たり前のように享受し、そこから離脱し自給自足の野生生活に切り替えるつもりなどこれっぽちも抱いていない。熱帯地方で裸族になってサバイバル生活を送りたいという希望も抱いていない。この「矛盾」をどう直視すればいい。こうやって「矛盾」に苦しんで見せるポーズこそ、産業文明に飼い慣らされた家畜人に出来る最大の「反逆」なのだとしたら、あまりに哀れであまりに卑劣ではないか。そんなこれ見よがしの軽々しいポーズによって自分をわずかでも免罪した気になれるのだとしたら、もはや救いようがない。やはり巨大隕石は人類を滅ぼさねばならない。隕石さん、いくらでも酒をおごるので、軌道変えて地球にぶつかってみませんか。あなたがかつて滅ぼしたとされている恐竜などとは比べものにならないくらい醜悪で暴力的な生き物がいま地球に繁殖してるのですよ。

今夜も酒を死ぬほど呷って明日が来ないことを全力で祈ろう。
ではまた。

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