見出し画像

月のこうもり【SF短編】

--- あらすじ ---
吸血鬼が出るんだって。そんなうわさを聞いた少年はその夜、ロケット発射場の見える公園の丘で、お姉さんと出会う。華奢で色白で、こうもりを従え、牙のような八重歯を持つ、不思議なお姉さん。空には、人々のあこがれを失ってしまった月。少年とお姉さんは、ふたり望遠鏡を覗いて月を観察する日々を送る。月の形が移ろう中、少年は近づいていく。月と、父と、お姉さんの秘密に。
第10回星新一賞 最終選考落ち作品を改訂
----------------

「吸血鬼が出るんだって」
 昼休み、教室の真ん中あたりで輪になっている同級生の会話が、窓際の席に座る少年の耳まで届く。
 開け放たれた窓からは、熱気と湿気、そして少し磯の匂いを含んだ夏の風が吹きこみ、少年はそんな窓の枠に頬杖を突いて、遠くを眺めている。窓の外では、梅雨から明けたばかりの濃い青の空を背景に、いくつかの白い雲が浮かぶ。
 少年の通う小学校は高台に建っていて、3階にある5年生の教室の窓からは、遠くまで拡がる畑や林の緑の平地と、その先で陽光にきらめく海が見える。
 少年の目は、海岸近くに建っている、いくつかの高い柱を見据えている。そこはロケットの発射場、ローンチコンプレックスだ。6本の柱は、それぞれロケットを支えるための発射台だ。ただ、今はどの柱も空になっていて、そこにロケットは1台もない。最近は打ち上げを見ることも少なくなった。役目の少なくなった柱たちは、ただ空の先のどこか遠くを見上げている。
「吸血鬼ってなんだっけ?お化け?」
 同級生たちの話が聞こえてきて、少年の意識が教室に戻ってくる。
「よく分かんないけど、こうもり公園あたりに最近出るらしい」
 あの公園のことか。少年は、目線を窓の外に向けたまま、彼がひとりで通っている公園のことを思い浮かべる。吸血鬼でも何でもいいから、邪魔は入らないといいんだけど。そんな心配をしていると先生が教室に入ってきたので、彼は仕方なく目線を教室の中に戻した。
 
 その夜、少年はその公園へ出かけた。大きなスーツケースを後ろ手に引き、肩には長さのある袋をかけている。日はすでに落ちているが、アスファルトは昼間に吸った熱気を周囲に放っていて、少年の顎からはぽたぽたと汗のしずくが落ちる。
 いつもの公園に着くと、そこの中心あたりにある小さな丘の頂上を目指す。さほど手入れもされていない伸びた芝生の中をざくざくと歩きながら、空を見上げる。空には丸い月が浮かんでいる。満月だ。白さがひときわ際立つ今日の月は、少しまぶしく感じるほどの光を放ち、夜空を濃い紺色に染め、そこに雲の形を投影している。丘に街灯はないが、足元はそう暗くない。
 少年は丘の頂上にたどり着く。すると、珍しく先客がいることに気づいた。夜空を背景に丘の中心に浮かぶそのシルエットは空を見上げていて、ときどき吹く風に長い髪がなびいている。その佇まいから女性であることが分かる。数匹のこうもりが、彼女に従えられるように彼女の頭上を舞う。彼女の見上げている先には、きっと今日の月があるのだろう、と少年は思った。
 少年は女性を気にしつつも、少し離れたところに場所を決め、スーツケースと肩の袋を下ろしてしゃがみこむと、準備を始める。まずはヘッドライトを頭につけて、明かりをつける。スーツケースの中を探っていると、彼の背後から声が落ちてきた。
「何、それ?」
「うわっ」
 突然声をかけられた少年は、情けない声をあげて、危うくスーツケースの中に顔を突っ込みそうになる。彼が振り返ると、さっきの女性がいつの間にか後ろに立ってスーツケースの中を覗き込んでいて、その顔がヘッドライトの明かりに照らされる。きれいなお姉さん、というのが初めの印象だった。同級生の女の子とは違う、知的で優しげな雰囲気。あとこの暗がりとヘッドライトの明かりでも分かるくらい、色白の肌をしている。
「あはは、そんなに驚くなんて」
 驚いて固まっている彼を見て、お姉さんが笑う。笑った口から、整った八重歯がきらりと覗く。ちょうど、生き血を吸うのに都合のよさそうな。

 少年は、大げさに驚いてしまったことに少し恥ずかしくなった。顔をスーツケースに戻すと、お姉さんを無視して準備を続ける。
 袋から三脚を、ケースからは大きな円筒を取り出して、三脚に据え付ける。円筒の脇のポインターを使って、月の位置を捉える。レンズを覗き込み、ピントを調整するうちに、ぼやけた白い視野が徐々に解像度を増していって、ついに月の表面をくっきりとした輪郭で視野に収める。
「それは、望遠鏡だね?立派だねえ」
 レンズを覗く少年の耳に、お姉さんの声が届く。少年は答えずレンズを覗いている。お姉さんは返事が来ないことも気にせず、話を続けている。
「月が好きなのかな」
「別に。習慣」
 少年はいつもここで月を見ている。彼はお姉さんの問いかけに、できるだけ迷惑そうに答えたつもりだったが、それを聞いたお姉さんはうれしそうにさらに少年に話しかける。
「そっかあ。でもそんなすごい望遠鏡だから、きっと月の表面も細かく見えるんだろうなあ」
「…」
「私、望遠鏡で月を見たことないなあ。どれだけきれいに見えるのかなあ」
「…」
 少年はため息をつくと、レンズから顔を離してお姉さんのほうを向き、レンズを指差す。お姉さんは、ありがとう!と言うと、少し腰をかがめて、レンズを覗き込む。
「うわ、すごい。クレーターの縁の影も、月の海もきれいに見える」
 お姉さんは楽しそうに月の表面を実況している。
「あれ?あの緑の点は」
「月面の基地か街か何か」
 少年が答える。
「へえ、なるほど。いくつかあるみたいだね」
「でも昔よりかは、だいぶ光が減った」
 数年前は、月面上の施設の放つ赤や緑の光が、月の表面にもっとたくさん見えていた。でも年を経るごとに、ひとつひとつと、その明かりは消えていった。

 お姉さんはレンズから目を離し、伸びをする。空を見上げた彼女の目に、月夜でも目立つ、ひときわ明るい光が写った。それは星ではなく、建設の途中で放棄された、宇宙太陽光発電のパネルが反射する光だ。
 空を見上げる人たちが、宇宙に飛び立ってその地平を熱心に切り拓いていたとき、うつむいて顕微鏡の世界を覗いていた別の人たちは、原子がもたらす新たな力を見つけた。
 それによる膨大な熱量は、地上にほどほどの豊かさと安心を与えた。それと入れ替わりに、人々が宇宙へ向ける熱量は失われていった。
 夜空を見上げるお姉さんを見ながら、少年はふと聞いてみた。
「お姉さんって、吸血鬼なの?」
 お姉さんは、少年のほうを向く。今度は彼女のほうが驚いている。この辺りで見ない雰囲気の大人の女性、従えるこうもりたち、白い肌、牙のような八重歯。きっと友達の誰かが、ここでお姉さんを見かけたのだろう。
「この公園に吸血鬼が出るって学校で言ってたけど」
「ああ、そういうこと。あはは、私そういうことになってるんだ」
 お姉さんは笑いながら答える。
「うーん、内緒」
 変なことを聞いてしまったな、と少年はまた少し恥ずかしくなる。お姉さんは吸血鬼なんかではなく人間である、と少年は心の中で仮説を立てた。
 その後、2人で交代しながら月を眺めたあと、名残惜しそうにするお姉さんを横目に、少年は望遠鏡を片付けた。別れ際、じゃあさよなら、といった少年に対し、お姉さんは、またね、と答えた。



 次の週の夜、少年はいつものように望遠鏡を携え、あの丘に向かう。丘の頂上に上がると、お姉さんがすでにそこにいた。少年が来たことに気づいたお姉さんが、彼に手を振る。
 先週の夜と同じように、少年は望遠鏡を立てる。やはりお姉さんは彼の近くに寄ってきたので、先週と同じように交代で月を眺める。今日の夜空には雲ひとつなく、半分くらい欠けた月が浮かんでいる。
「月の極の近くにある明かりも、基地とか開発現場かな?」
「そう」
とお姉さんの質問に少年が答える。
 月の極付近は、その周囲よりも比較的開発が進んでいる。極付近のクレーターの底、太陽の光の届かない冷たい場所に多くの水氷が存在するからだ。月面開発に欠かせない水資源を得るために、極付近に採掘基地が集中している。またそのあたりには、深い縦穴と、それに繋がり横方向に続く広く長い洞窟が存在することが知られていて、そこは地下基地を建設する候補地として様々な調査が行われていた。
 縦穴開発は今ではほとんど行われていない。あの日、大きな縦穴のひとつで崩落事故が起きたのがきっかけだ。ただそれはやはりきっかけに過ぎず、事故があってもなくても、宇宙への関心を失いつつあった人々は、縦穴の開発をいつか止めていただろう。
 少年はそれきり口をつぐむ。海から吹く夜風に芝生がざわめき、虫が鳴く。
「ねえ、お腹空いた」
 お姉さんが言った言葉があまりに唐突で、少年は何と返せばいいか分からなかった。この人はこういうところがある、いい大人なのに。彼はわざとらしく呆れ顔を作ったが、夜闇で気づかれなさそうなので、聞こえるようにため息をついた。と、このとき、彼はいいことを思いついた。あの仮説について検証してみよう。
「ラーメン食べる?」
 お姉さんは少し驚いたあと、うれしそうに答えた。
「ラーメン!私食べたことないんだよね」
 お姉さんはうれしそうだ。少年は、スーツケースからキャンプ用の小さなコンロとガス缶、やかん、水の入った水筒と、カップ麺を2つ取り出す。手頃なベンチを見つけてそこにそれらを置き、お湯を沸かすと、それを2つのカップ麺に注ぎ、ひとつをお姉さんに手渡す。
「慣れた手つきだねえ。お、これはおいしい。こんなおいしいものが宇宙にあるとは」
 お姉さんは夢中で麺をすすっている。少年は、昔は父とよくこうやって外でカップ麺を食べていた。
「君のもひと口くれる?」
 よし、と少年は思った。少年は、自分の持っていたカップ麺をお姉さんに手渡す。お姉さんは、これもおいしそう、と言ってそれを口に運ぶが、
「うえー何このにおい。私こっちは苦手…」
 とお姉さんが舌を出して、カップ麺を少年に返した。そのパッケージには、強超激にんにく味、と印刷してある。父がよく食べていたものだ。にんにくはダメ、と少年は脳内でメモをとりながら、カップ麺をすする。この匂いは少年にもきつすぎて、彼もしかめ面をした。



 次の週はずっと雨だった。窓の外は夜の闇に沈んでいる。蒸し暑く暗い部屋の中、パソコンの画面の明かりが、少年の顔を照らしている。外の雨音と、ぶーんという扇風機の音が彼の部屋に響く。
 その画面には、暗い洞窟の中を進む映像が映し出されている。月面機動車に乗った誰かの撮った映像だ。月の縦穴を降り、それに横から繋がる洞窟に入ったのだろう。前方の地面には機動車のヘッドライトの光が円を作っている。砂浜のようなさらさらとした砂の地面に、ときおり大小の岩が混ざり、それらは画面の後ろにゆっくりと流れ去っていく。
 画面が唐突に揺さぶられたかと思うと、直後に宇宙服姿の人物の頭が画面いっぱいに写る。ヘルメットの横に取り付けていたカメラを取り外して手に取ったのだろう。その人はこちらに向かって手を振っている。その顔は、ヘルメットの遮光バイザーの濃い色に妨げられて見えないが、その奥では、無精髭を伸ばした、こちらに向かって無邪気に笑う父の顔があることが、少年にだけは分かる。

 少年の父は、月面の洞窟調査を仕事にしていた。月面に空いたいくつかの縦穴を降下し、縦穴とそれに繋がる洞窟を調べ、基地建設の候補地をさがしていた。彼は学生のときに、少年の母との間に子供ができて大学を辞めた。学術の世界に身を置くことを望んでいたが仕事に恵まれず、そのうちに少年の母とも別れた。彼は稼ぎのよい職を、月に求めた。
 少年の父は、月で働きはじめてすぐは、月に数度は地球に帰ってきていた。少年は、週末を父と過ごし、そして週明けの朝に射場から飛び立つ父を見送るのが習慣だった。
 しかし数年もすると、彼の父は徐々に地球に帰ってこれなくなっていった。自分にしかできないことがあるのだと、申し訳なさそうに少年に言った。ただそのさみしそうな表情の裏に、何か静かな情熱を秘めていることを少年は感じていた。少年はそんな父を、心から応援していたし、さみしさなんて感じたことがなかった。月なんて、射点のほんのすぐ先に、いつもあったのだから。
 でもあの日から、ついに少年の父は地球に帰らなくなった。大きな縦穴での工事中、大規模な崩落が起きた。月の冷たく白い砂や岩が、数え切れないほどの人々の上に降り注ぎ、その中に少年の父もいた。それから、地球から月へ向かうロケットはさらに減った。月は、遠く彼方の星となった。
 父にしかできなかったこととは、何なのか。月の何が父を惹きつけたのか。地球から空を見上げ、月面を望遠鏡で観察していたら、いつかその問いへの答えが見つかるのだろうか。
 少年の父は、月からいつも少年へ映像を送ってきていた。映像の中には、洞窟探査のときの撮影の映像もときどき含まれていて、少年はその映像をよく見ていた。
 パソコンの画面に映る映像は、洞窟の中を変わらず進んでいたが、やがて目の前に壁が現れ、行き止まりとなった。ライトの光が壁を照らす。行き止まりの壁は、瓦礫の積み重なったもののようだ。映像は、壁の横方向に動いていく。すると壁の途中で、周囲の壁とはやや異質な箇所が現れた。その表面には陰影が少なく、触れると滑らかであることを想像させる。何かが、壁に埋まっているように見える。
 そこでその映像は途切れた。少年にとって映像はもう見慣れていて、新しい何かが見つかるわけではない。おもむろにパソコンの横に月の地図を広げる。赤いペンで地図の上に丸をひとつ書くと、地図を畳んでベッドに入った。

#

「何これ?」
 少年とお姉さんは、またあの公園の丘で月を見ていた。今日の月は大部分が欠け、細い弧を描いている。お姉さんは、少年のスーツケースから落ちた紙切れを広げて首をかしげている。
「月の地図。極から見たやつ」
「へえ。こんな地図あるんだね。この赤い丸は?」
 お姉さんは懐中電灯を片手に、地図を興味深そうに見ている。
 地図は月の極を中心として、クレーターの名前などが印刷されている。その極の近くに赤い丸がいくつか書き込まれている。少年の父が月から送った探査の映像のはじめには、記録のためだろう、位置の示された画面が映されることが多かった。少年は、縦穴の入口や、行き止まりの位置を推定し、赤い丸をつけていた。
「これは…よく分からない」
「そうかな。君は、どう考える?」
 先生のような口調で言うお姉さんから地図を受け取り、それを眺める。少年自身、何か目的や意志があって地図に印をつけていたわけではない。しかし彼は、月の地図とそこに並ぶ赤い印をぼんやりと見ているうちに、湖の底から染み出す湧水のように、頭の奥で形にならない考えが浮かんでくるのを最近感じていた。一方で、その考えを言葉にしようとすると、大人への成長の途中で覚えた小利口さが、彼の心に蓋をする。
「君の、君だけの仮説は大事にしなきゃいけないよ。論理的な、冷静かつ情熱的な思いをもって」
 うつむいていた少年は、お姉さんの言葉に顔を上げる。新月に近づく月の弱い明かりしか差さない丘で、そう言うお姉さんの表情は少年には見えなかったが、そのやさしい視線だけは感じた。

#
 
 それからも、ふたりは何度か月の観測を行った。ただ、お姉さんの様子が少し変わったような雰囲気を少年は感じていた。あれだけひとりでしゃべっていたのに少し口数が減ったし、何やら考えこんでいるようなときもあった。少年は、小さな心配を感じた。その間、月の明るい部分はだんだんと増え、次の満月へと向かっていた。
 その夜、少年は、小さな意志を持って丘に向かった。そこには当然のようにお姉さんもいた。少年は少しだけ自分に喝をいれて、お姉さんに言葉をかける。
「これ、あげる」
 少年の手がお姉さんに差し出される。その手には、飾り気のない、質素な銀の十字架のついたペンダントが握られている。少年の机の中にいつからか入っていたものだ。
 お姉さんはかなりびっくりして、何を言うか迷っていたが、やがて、ありがとう、と言ってペンダントを受け取った。ライトでそれを照らして時間をかけて眺める。お姉さんの横顔もライトに照らされる。目を細め、少し微笑んだその表情には、うれしさの中に少しだけそれとは違う思いが混ざっているように、少年には見えた。
「十字架かあ、おもしろいね。私金属が少し苦手で身に付けられないんだけど、大切に持っておくね」
 お姉さんは、ペンダントを大切そうにポケットにしまう。
 少年は、自分の中の考えを改めて整理した。色白の肌に細い体格で、日光とにんにくと銀が苦手。とすると。
「お姉さんって、月から来たんでしょ。月生まれの人間」
と少年は言った。

 月面開発が最盛期のとき、月へ向かった人たちの中には、月面で子をもうけた人たちもいた。月生まれの人の特徴として、太陽光のない環境で育った影響で色白で、肌が日光や刺激物に対して弱い。低重力環境は体格を華奢なものとする。また生活空間の空気は常に循環し清浄に保たれているために、匂いに敏感な人が多い、とも聞いた。
「ふふ、でも吸血鬼だと思って調べてたんじゃないの?」
 お姉さんはいたずらっぽい声色で答える。バレていた、と少年は思う。
「冷静で論理的に考えると、吸血鬼なんてありえない」
 どこかで聞いた言葉を使って、少年は言葉を返す。
「生意気だねえ。月から来たというのは、君の言うとおり。私は月で生まれました」
 お姉さんはそう言うとあたりを見回し、あのベンチに少年を誘う。ふたりでそこに腰掛ける。
「私の両親は、地球で生まれて、月で出会い、そして月で私が生まれた。地球に降りることなく育ってきて、地球にはじめて降りたのはつい数ヶ月前」
「どうして地球に来たの?」
「それは、ふるさとを探すため」
 お姉さんは一息いれて、言葉を続ける。
「私は月で仕事をしていてね。でもあの崩落事故で仕事がなくなっちゃって。どうしようかと思っていたときに、家から曾祖母の日記が出てきたの。日記には、彼女を囲む草花や生き物、空や風や季節の移ろいが綴られていた。彼女は地球の美しさを愛していた。それと比べて私の生まれたところは、月の砂で作られた白い壁に囲われ、極めて清浄な空気で満ちている一方で、扉の一歩外では、宇宙服なしでは生きられない、無慈悲な白い砂漠が広がっている。私はここを愛しているか、自信がなくなったの。だから仕事がなくなったこの機会に、地球へ降りてみた。私のふるさとは、もしかしてこっちにあるんじゃないかと思ってね」
 まあ、事故でお金もらってひまだったからってのがあるけどね、と笑って言って、言葉を続ける。
「地球では、青い空と流れる雲を初めて見た。くらくらしそうなほどに色鮮やかな鳥や虫たちを見た。それらはとても素晴らしかったけど、日光も重力も、私にとっては心地のよいものではなかったし、どれだけ美しいものを見ても、ここが自分のふるさとだとは思えなかった。夜の宇宙色の空とさみしげに輝く星たちに、やっぱり安心を感じるんだなって思ったんだよ」
 お姉さんは夜空を見上げる。少年も同じ方向を見る。月から見える星々は、地球から見るものとはどう違うのだろう。

「君のお父さんは、とても魅力的な人だったよ」
 少年は、突然の言葉に驚き、お姉さんのほうを見る。言葉が出てこない。どうして、いや何から聞けばよいのだろう。お姉さんは話を続ける。
「私は君のお父さんと同じところで働いていたの。月と宇宙を切り拓いていくことに、情熱を持っていた人だった。月から人が減っていく中でもそれを持ち続けていた。そして君のことをいつも気にかけていたよ」
 お姉さんは楽しそうに話す。
「あの事故のとき、縦穴が崩れていく中、君のお父さんはみんなを避難させるために最後までそこに残っていた。縦穴と洞窟の構造を誰より知っている人だったからね。たくさんの人達が救われた」
 うつむいて話を聞いていた少年は、月を見上げた。今日の大きく欠けた月から、月の極は見えない。少年の心にさみしさが少しだけ浮かんできたが、それ以上に、そうまでして父が月に居続け、それを守りつづけたのか、それを知らないといけないと思った。そしてその答えは、すでに自身の奥底ではっきりとした輪郭を持って存在していることを、彼は感じていた。
「ペンダントのお礼に、君にこれをあげよう」
 少年は、お姉さんの手から何かを受け取った。メモリーカードだ。いつも少年の父が月から送ってきていたものと同じ形の。
「渡すか迷ってたけど、やっぱり君に必要なものかもしれないね。君のお父さんは、縦穴や洞窟の探索をする中で何かを見つけた。いつも会社の偉い人に、縦穴開発を中断して、詳しい調査をするように頼んでいたよ」
 父を惹きつけたもの、その答えはやはり月の穴のどこかにある。そしてこの最後のメモリーカード。
「君のお父さんは、月の地学的成り立ちの通説に一石を投じるものだと、始めは考えていたみたいだね。さて君は、どう考える?」



 その夜、少年は丘に向かった。今日は望遠鏡の入ったスーツケースも、三脚の入った袋も持っていない。代わりに、一つの思いを抱えていった。
 丘の上に立つと、空には満月が浮かび、明るい夜空が広がり、その果ては黒い海と接している。遠くに見える海岸のそばの発射台が、投光されて白く浮き上がっている。久しぶりにロケットの打ち上げがあるのだろう。
 丘の真ん中には、いつものようにお姉さんがいる。少年はお姉さんに近づくと、ポケットから月の地図を出して、それをお姉さんに突きつける。
「これは、ローンチコンプレックスだ」
 少年は、自信をこめたはっきりとした声で、そう言い放つ。

 お姉さんのくれたメモリーカード。少年は家でそれに入っている映像を再生した。その映像は、宇宙服姿の父の姿から始まった。父は少年に手を振っている。やがて映像は、大きな縦穴を降りる様子に変わった。縦穴の壁がライトに照らされ、下から上へと流れていく。
 映像が止まり、縦穴の底に着いたことが分かる。映像は前方に移動を始め、しばらくすると壁が現れた。さらにそれに近づくと、宇宙服の手が横から現れ、その表面に触れる。その表面は滑らかだ。そして上下にゆるやかな曲線を描いている。映像の中の父は左右を見る。どちらも先のほうは暗闇に沈み、先端は見えない。大きな円柱のようなものが横たわっている。
 映像の中の父は、今度は円柱に背を向けて移動する。ある程度離れたところで、また向きを変えて円柱の方向を向くと、ライトの光量を上げた。そして、画面に円柱の全景が映し出された。それはやはり大きな径の円柱で、左側を少し高く上げて斜めに横たわっている。右側の先は瓦礫に埋まり、反対の先は円錐状になっている。その先端から少し下がったところには、半分地面に埋まっているが、円柱の径よりやや大きな円盤がついている。ちょうど、円盤を柱が貫いたような形であり、その姿をもし遠くから見ると、きっと十字架のように見えるに違いなかった。
 少年はそれを見たとき、これは宇宙船だ、と直感した。根拠はないが、その形が乗り物であると、彼の中の感性が言っていた。
 少年は月の地図を開いて、その縦穴の場所に丸をつける。これで、印は6つめ。それらの印を結ぶと、極を中心として、正確な六角形を描いた。その6つの映像のうち、3つは縦穴、残りの3つは瓦礫で行き止まりでそのいくつかにはあの円柱の一部が写っていた。
 彼の脳裏に、その場所の昔の姿が想像される。縦穴はすべて宇宙に向かって開いていた。その底には宇宙港があり、宇宙船がひっきりなしに発着していた。人間も縦穴の底に宇宙港を建設する計画を持っていたが、それより先に、似たような考え方をした、誰かがいた。

「人間じゃない誰かが建てたんだ。でもその後、近くで小惑星か何かの衝突があって、宇宙港や、そこにたまたまあったいくつかの宇宙船が埋まってしまったんだと思う」
 少年の言葉には熱がこもっていた。父の考えていたこととは違うが、少年は自分の仮説を信じていた。
「それが君の考えね。素敵だと思うよ」
 お姉さんは優しい声で言う。少年はそこでやっと、お姉さんの雰囲気がいつもと違うことに気づいた。今日は少年の代わりに、お姉さんの横に大きなスーツケースがある。
「君のおかげで、私も決めたよ。月に戻ること、そしてふるさとを見つけること」 
 お姉さんの胸ポケットあたりの上で、月の光を反射して何かがきらりと光る。十字架のペンダントだ。あの宇宙船に似た形の。
 そのとき少年の頭の中に、いくつかの疑問が浮かんでは過ぎ去っていった。あの場所に宇宙船が残されているならば、それに乗れなかった誰かはその後どうしたのか。お姉さんはなぜ十字架を見たときにあんな表情をしたのか。僕のはじめの仮説と検証は、本当に正しかったのか。
「君もまだまだだね」
 お姉さんがいたずらっぽく笑う。少年がなにか言おうとしたとき、突然、いくつもの何かが彼の眼前に飛んできて、その視界をさえぎった。
「じゃあまたね。先に行ってるよ」
 少年が目の前を腕で払うと、もうそこにはお姉さんの姿はなかった。
 少年は月を見上げる。数匹のこうもりのシルエットが、白く輝く月を背景に飛び去っていった。
 丘には少年だけが残った。吸血鬼は眷属を作る、という話を少年は思い出す。僕も月の眷属だ、と彼は思う。少年は前を向くと、月明かりの丘を歩き始めた。
 

<終>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?