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日本の内ゲバは鎌倉幕府から(14)-尼将軍誕生-

西暦1219年(建保七年)1月27日、鎌倉幕府三代将軍・源実朝は、鎌倉幕府二代将軍・源頼家の子・公暁によって鎌倉の鶴岡八幡宮で暗殺されました。

ここに初代将軍・源頼朝より続く鎌倉幕府将軍家の嫡流は絶えたのです。
そしてこれが朝廷VS幕府の戦いである「承久の乱」に繋がっていきます。

将軍暗殺後の幕府の動き

実朝暗殺後の動きとしては、まず翌日(1月28日)、幕府(おそらく大江広元か北条義時)の命令で、加藤景廉が鎌倉を出発して京に向かいました。朝廷に実朝暗殺を知らせるためです。

加藤景廉はこの時63歳。源頼朝のデビュー戦である山木館襲撃から加わっていた歴戦の猛者であり、幕府創設期からの宿老でした。なぜ老体の彼が選ばれたのかはさっぱりわかりわかりません(もっと若い方がいいと思うんですが)。

そして実朝の御台所である坊門信子は出家しました。
さらに前述の加藤景廉も加えて100名近い御家人も共に出家しています。

さらに義時は公暁に共犯者がいないか鎌倉中を捜索し、主だった者を挙げましたがほとんどが無罪放免となっているため、実朝暗殺は公暁の単独犯行の疑いが濃厚でした。

事件の後始末が一段落すると、次に幕府が対応せざる得ないのは後継将軍の擁立でした。要するに以前、尼御台・政子が京の卿二位の局と調整をしていた後鳥羽上皇の皇子(親王)を推戴するという話を大急ぎで詰めなくてはならなくなったのです。

後鳥羽上皇の苦悩

1219年(建保七年)2月13日、幕府政所執事・二階堂行光が朝廷の使者として鎌倉を出発しました。この時、行光は後鳥羽上皇の皇子を将軍に戴きたいという幕府首脳陣が署名した文書を持参しています。

行光は2月の終わりには京に到着し、翌閏2月1日、文書は上皇の奏聞に達しました。そして同月四日に下された上皇の返事は次のようなものでした。

「鎌倉が新しい将軍として宮(雅成親王か頼仁親王)を求めている事情はわかる。ゆえにどちらか一人を必ず鎌倉に下向させる。しかし、それは今すぐではない」

この知らせが鎌倉にもたらされたのは行光の使者が鎌倉に到着した閏同月12日のことです。おそらく幕府は「え、なんで?」と思ったに違いありません。

上皇にどちらかの親王を下される意思に変わりがないなら、早くしてくれというのが幕府の本音です。鎌倉幕府は初代将軍・頼朝によって創設され、その血統という「威厳」「征夷大将軍」という官位を以って「王権」を発生させ、御家人を統括しているに過ぎません。

実朝暗殺によって源氏の嫡流が断絶した以上、それに代わる権威が必要です。現時点ではそれが空位になっているのが問題なのです。

日本のどこかで源氏の血脈を持った人間が担がれて挙兵し、有力御家人がそこに集ったら、今の幕府を維持することが困難になるのはもちろん、下手すると内乱が続発する可能性すらあります。

前回のエントリーで書きましたが、現に2月11日に頼朝弟・阿野全成の子、時元が駿河で謀反を企て、鎮圧されています。
同様のことを起こさないためにも1日も早い後継将軍の擁立が不可欠でした。

しかし、上皇の立場になってみれば、自分が名付け親であった実朝が殺害されるような場所に自分の子供遣わすとか、できれば避けたいのが親というものです。要するに、上皇は幕府および幕府を運営する首脳陣に対し、「気持ちはわかるが空気読め」と言いたかったんだと思います。

ある意味、幕府に対する不信の現れでもありますね。

上皇、賭けにでる

同年3月8日、院近臣で北面の武士である藤原忠綱が上皇の使者として鎌倉に遣わされました。

忠綱は鎌倉に到着すると、まず尼御台・北条政子の屋敷を訪ね、上皇が実朝の死を嘆き悲しんでいることを伝えてお悔やみを述べると、その足で幕府政所に向かい、義時に面会を申し出ました。

ここで忠綱は義時に上皇からの院宣を伝えます。
それは「摂津国長江庄および倉橋庄の地頭職を替えよ」というものでした。

これだけ読むと全く意味がわからないと思うので、補足すると、この2つの荘園は上皇が寵愛していた亀菊という遊女に与えられた荘園と言われています。しかし、土地の地頭(幕府の経済官僚)は領主である亀菊の言うことを聞かないため、亀菊が地頭の交代を上皇に申し出て、それを上皇が幕府に伝達したという流れです。

普通に聞けば「上皇のお気に入りの遊女・亀菊が所有する荘園の地頭を交代させよ」という流れですね。

ちなみに「院宣」とは院(上皇)の私的な要望書に相当するもので、現代風に言うと忖度要求書に近いものだと認識してます。これに対し、院庁の公的な命令書は「院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)」と呼ばれます。

義時はこの院宣には裏の意味が隠されていると察したのか、忠綱に対して即答は避けました。このあたりが彼の一級の政治センスというか勘の鋭いところです。

上皇はこの院宣にある種の謎かけをしていました。それは幕府が院と朝廷をどのような存在として受け止めているのかの確認に近いものでした。

鎌倉幕府の将軍職を上皇の皇子(親王)が継ぐとした場合、源氏の嫡流が繋げてきた東国王権の盟主の座が朝廷のものとなります。これは、鎌倉幕府創設以来、西国と東国となんとなく2つに分かれていた日本国の支配構造を1つに戻すことになると上皇は考えていたと思われます。

そうなった場合、鎌倉幕府は治天の君である院庁の下に置かれ、天皇家である朝廷と同列もしくは一段下に位置づけられると考えられますが、幕府側にその心構えがあるかどうかを、この地頭交代要請で計りたかったんだと思うのです。これが上皇の賭けです。

苦悩する幕府

3月11日、藤原忠綱は鎌倉を出発し、京に帰って行きました。翌12日、北条義時は北条政子に会議の要請を伝え、大江広元、北条時房(義時弟)、北条泰時(義時嫡男)が政子の屋敷に集まりました。議題は上皇の院宣のことです。

上皇が出してきた「摂津国長江庄および倉橋庄の地頭職を替えよ」という要求を受け入れるか否かの相談になります。忠綱が鎌倉を出発した翌日に幕府首脳陣が集まって会議をするということが、この議題の重要性を物語っていました。

まず、幕府としては一刻も早く後継将軍を迎えなければならないという切迫した事情があります。尼御台・政子と後鳥羽上皇の乳母である卿二位の局との間で雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)のいずれかが鎌倉に下されることが確定していたのですが、実朝が死に、すぐにでも下向をお願いしたのですが「今はその時ではない」とやんわり断りが入っています。

そしてその後に藤原忠綱がやってきて、実朝のお悔やみと前述の地頭職交代の要求をしてきました。

この流れから幕府首脳陣は、ここで上皇の要求を却下した場合、上皇のご機嫌を損じることになり、今、保留状態にある親王下向の話が完全に立ち消えになると予想したと思われます。

かと言って、上皇のいう通り地頭職を交代させることは、鎌倉幕府の権威を損ね、御家人の幕府への不満を募らせる結果になり、将軍空位の不安定な幕府の状態においては避けたいところです。

「吾妻鏡」によるとこの結論は15日に出ていますので、3日間の間議論し続けたと見られます。そして出た結論は

「北条時房が政子の使者として1000騎を引き連れて、院宣の返答と親王の下下向を申し上げる」

というものでした。

北条時房は1218年2月の尼御台・政子の「熊野詣」経由の上京(卿二位の局との後継将軍による協議)に随行していました。その際、梅宮大社(京都府京都市右京区にある橘氏の氏神)で行われた蹴鞠のイベントに参加し、上皇より蹴鞠の腕前を褒められ、気に入られていたようです。

また時房は政子、義時の弟であり、政所別当職の一人でもあったことから、幕府首脳陣の代表としての性格も併せ持っていました。

この人選を誰がしたのかは記録が残っていませんが、上皇にとって印象がよく、なおかつ幕府の代表としての意向を間違わずに伝えられる人物としては当時は時房をおいて他にはなかったでしょう。

しかも政子はこの時の上京時に従二位に叙せられており、その使者という大義名分であれば、門前払いされる可能性もないと読んでいたのではないでしょうか。

この時房の上京が上皇にどう映ったかは「吾妻鏡」が欠落(4月から7月中旬までの記載がない)しているため、はっきりとはわかりません。ですが、事実ベースで親王下向が行われなかったことを鑑みると、幕府が取った行動は一種の武力的示威行為であり、これにとって上皇の中で「保留」扱いだった親王下向は完全に立ち消えになったと考えていいでしょう。

なお「愚管抄」によれば

「親王下向はさせないけど、関白や摂政の子供なら下向させても良い」

的な記述があるので、親王ではなく摂家の子を下向させる形で上皇が妥協案を出したのではないかと思われます。

尼将軍誕生

この後、いかなる経緯で選ばれたかはわからない(尼御台・政子の願いとも言われます)のですが、最終的には左大臣・九条道家の三男である三寅(みとら)という幼な子が鎌倉に下向することで決着します。

三寅は、権中納言・一条能保源頼朝の妹・坊門姫の間に生まれた娘(全子)が西園寺公経に嫁ぎ、その間に生まれた子・掄子を母としています。
つまり血縁上、頼朝の妹の孫にあたるわけです。

6月3日に三寅下向の決定がなされ、同月9日に春日大社に参拝。17日に上皇に挨拶に出向き。26日には鎌倉より迎えの御家人が京に到着。そのまま出発し、7月19日正午ぐらいに鎌倉に到着。義時の屋敷に入った後、そのまま午後6時に「政務始」が執り行われ、ここで1つの重要な決定がなされます。

それは

「若君(三寅)が幼少の間は、尼御台が政務を御簾ごしに聞いて沙汰します」

とのことでした。
これは尼御台「尼将軍」となった瞬間であります。

これまでの鎌倉幕府は将軍が最高権力者であり、その権力を侍所別当、政所別当を兼ねた執権が補佐して幕政を執り仕切ってきました。

実朝が暗殺され、後継者として摂家より三寅が下向しましたが、幼少のため、将軍宣下を行うことができませんでした。よって表向きは三寅を立てながらも、「初代将軍の正室」という何者も対抗できない絶対的権威保持者である尼御台・政子が、三寅の後見役にポジショニングすることで、三寅の将来的な将軍権力を補完し、御家人を統率、管理していこうと考えたのだと思います

現時点では「ただのお飾り的な存在」の三寅ですが、源氏の血脈を受け継いだ存在であり、それが鎌倉幕府の将軍御所に座していること。年少というハンデは政子が補佐すること。そして政子のバックには実務部隊(執行部隊)としての北条義時、時房、泰時などの北条一門や大江広元がいること。これらが揃ったことで、実朝暗殺以来、一次的にグラついていた鎌倉幕府の体制はようやく一定の安定を見たのです。

ちなみに三寅は1225年(嘉禄元年)12月29日に元服して藤原頼経となり、その翌年の1226年(嘉禄二年)1月27日、正五位下に叙され、右近衛権少将に任官し、征夷大将軍宣下を受けます。これより7年後のことです。

そして1230年(寛喜二年)12月9日、鎌倉幕府二代将軍・源頼家の娘で16歳年上の鞠子(竹御所)を妻に迎えます。頼経は頼朝の女系子孫ではあるものの男系は藤原氏の血統でした。ここで源氏の血脈を受け継いだ妻を娶ったことで、源氏の血脈を強化し、鎌倉幕府四代将軍としての大義名分を得たのです。

話は戻って、一方の後鳥羽上皇も実朝暗殺のショックから立ち直りつつあり、親王下向をめぐっての朝廷と幕府のギクシャクした関係もようやく修復に向かって動き始めつつありました。

しかし、鎌倉幕府の体制が整いつつあった頃、京都では大事件がおきており、それが上皇の止めようのない怒りにつながっていくのです。

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