見出し画像

義時、北条の悪行を認める(比企能員の変後日談)

2022年8月21日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第32話「災いの種」が放送されました。

比企能員の変の後のスッタモンダを描いていますが、比企能員の変が北条氏によるクーデターである以上、カシラに据えるのは北条にとって都合の良い存在である千幡君(演:峯岸煌桜)でした。

しかし、歴史というのは残酷なもので、危篤で瀕死状態だった源頼家(演:金子大地)が復活してしまいます。

死ぬ予定だった頼家が復活されると北条としては嘘で塗り固めた自らのクーデターが水泡に帰するので、頼家をどのように(合法的に)排除するのかに苦慮することになります。

それではいってみましょう。

鎌倉殿の代替わり

冒頭、尼御台(政子/演:小池栄子)を中心として北条一門と大江広元(演:栗原英雄)で頼家を今後どうするのかの議論が繰り広げられます。大江広元は言いました。

広元「よろしいですかな?」

政子「大江殿……」

広元「千幡様を征夷大将軍に任じて頂くための使者はすでに京(みやこ)にたちました。止めるなら今ですが……ご決断を」

『鎌倉殿の13人』第32話「災いの種」1:30頃から

この議論は頼家が復活した時ですので、1203年(建仁三年)9月5日以後ののことだと思われます。

しかし藤原定家が書いた日記『明月記』には9月7日にこのような記載があります。

左衛門督頼家卿が亡くなった。その跡目の権力(鎌倉殿の座)を争っている。その子(一幡)は外祖父である遠江守(北条時政)の為に討たれた。その家来(比企一族?)らは潰されたと。金吾弟童(千幡)が家を継ぐとして(征夷大将軍の)宣旨を申請してきた。

『明月記』

この記述から7日の時点では京に鎌倉からの使者が到着していることがわかります。しかも「頼家は死んだ」という内容で。

鎌倉と京の間は当時は早馬で3日から5日程度はかかったと思われます。

計算が合いません(笑)。

これが私が「使者は比企能員(演:佐藤二朗)を討つ前にすでに鎌倉を出発していた」と主張している理由です。でないと道理に合わないので

政子の悲しいまでのプレゼン能力のなさ

ドラマでは義時(演:小栗旬)が頼家に比企能員討伐の一件を話に行こうとすると、政子がそれを止め「私が話します」「これは私の役目です」と啖呵をきられました。

すべてを話されるのではないかと懸念する義時でしたが、政子は「私だって心得てます」と言い切りました。

その模様が下記です。

頼家「比企が滅んだというのですか……」

政子「……ええ」

頼家「…..ということは……せつはもうこの世にはいないということですか。一幡も」

(政子 目を伏せる)

頼家「……信じられません……なぜだ……」

政子「誰もあなたが助かるとは思ってなかった。二度と目を覚ますことはないと悟った比企の一族は…….館に火を放ち……命を絶ちました」

頼家「……なぜ死なねばならんのですか……まやかしに決まっている」

政子「あなた1人を死なせることはできなかったのでしょう」

頼家「……本当は何があったのですか?教えてください」

政子「本当のことです」

『鎌倉殿の13人』第32話「災いの種」9:38頃から

政子さん……あなた、何を心得てたんでしょうか?(汗)

こんな説明で頼家が納得するとでも?

頼家が危篤で助からない命であったとして、なぜ比企一族が館に火をかけて滅びなければならないのかサッパリ理解不能です。

比企一族の命運を悲観して?あり得ないでしょう。

頼家の疑問は当然です。
昨今の政治家でももう少しマシな嘘をつきます。

もしこの場に義時がいたら、頭を垂れて左右に振っていたでしょう。

このプレゼン能力のなさは、後の承久の乱の時の名演説のフラグなのでしょうか。

頼家は説明している政子の様子がおかしいこと、涙ひとつ流していないことに疑問を持ちます。そしてある1つの推論に到達することになります。

頼家「北条のやつらだ……あいつらが比企の舅殿を、せつを、一幡を」

政子「あの人たちは自ら命を絶ったのです」

頼家「そんなわけがないではないか……」

(政子、頼家のそばによって手をかける)

頼家「やめてください……」

政子「忘れるのです……」

頼家「……できません……」

政子「断ち切るのです……」

頼家「できません!……」

政子「なんのために生きながらえたのか考えて」

頼家「……善哉は……」

政子「あの子は無事です。三浦が守っています。つつじも。安心して……だから……」

『鎌倉殿の13人』第32話「災いの種」11:14頃から

もう政子のプレゼン能力のなさがますますドツボにはまっています。
比企が守っていたせつと一幡が死んで、三浦が守っている善哉とつつじは生きている。これが「北条による比企潰し」という頼家の推論を補完してしまいました。

「北条をワシは絶対に許さん!お前もだ!!!」

これは頼家じゃなくても怒って当然です。

三浦義村のフラグ

政子の言葉通り、善哉(演:長尾 翼)つつじ(演:山谷花純)三浦義村(演:山本耕史)に保護されていました。
義村はつつじにこう言います。

義村「事は良い方に動いています。一幡様の身に何かあれば、次の鎌倉殿は間違いなく善哉様。時をお待ちください

『鎌倉殿の13人』第32話「災いの種」13:49頃から

これも後々のフラグですね(謎)。

中原親能の再登場

後鳥羽上皇(演:尾上松也)が双六の駒を積み上げていくシーンで文を持ってきた1人の坊主が出てきます。これに気づいた方はいらっしゃるでしょうか?

後鳥羽「おう、親能どうした?」

親能「鎌倉より文が届きました」

後鳥羽「そこへ」

『鎌倉殿の13人』第32話「災いの種」14:17頃から

法体なので分かりにくいと思いますが、これ、かつて鎌倉の文官トリオおよび『13人』の1人で、頼朝の次女・三幡の傅役だった中原親能です。

中原親能(演:川島潤哉)
Copyright NHK (Japan Broadcasting Corporation). All rights reserved.

文には

・頼家が危篤であること
・弟・千幡に後を継がせたいこと
・征夷大将軍に任じてほしいこと
・同時に元服させたいこと


が書かれてありました。
将軍任官について後鳥羽は慈円(演:山寺宏一)に意見を求め、慈円は夢の話と前置きした上で「壇ノ浦で失った三種の神器の宝剣の代わりが武家の棟梁」とし「新将軍を大事になさいませ」と助言します。

慈円(演:山寺宏一)
Copyright NHK (Japan Broadcasting Corporation). All rights reserved.

この慈円が『愚管抄』の作者です。その『愚管抄』には9月7日に下記の記載があります。

このようにして京へ使者を遣わして、千幡君を元服させて、「実朝」と云う名も京より給わりて、やがて将軍宣旨が下されて、祖父の北条の世に関東はなってしまった。

『愚管抄』

後鳥羽は千幡に「実朝(さねとも)」という名前を与えます。

後鳥羽「必ずや、京と鎌倉をつなぐ『さね』となってもらおう」

鎌倉殿の13人』第32話「災いの種」16:18頃から

平賀朝雅

今回のニューキャラクターは先ほどの慈円と共にあと2人おります。
そのうちの1人が平賀朝雅(ひらがともまさ)です。

平賀朝雅(演:山中 崇)
Copyright NHK (Japan Broadcasting Corporation). All rights reserved.

平賀氏は源義家(八幡太郎)の弟・源頼光(新羅三郎)の三男・平賀盛義から始まります。したがって河内源氏庶流/源氏の一族です。

平賀氏は信濃国佐久郡平賀郷(長野県佐久市岩村田あたり)を本拠としました。

朝雅の父・平賀義信の時代に、信濃で旗揚げした木曾義仲(演:青木崇高)に味方する事なく、源頼朝(演:大泉洋)に味方して、義仲と頼朝の和睦仲介の役割を務め、以後、頼朝に加勢します。

この平賀義信と比企尼の三女との間に生まれた義信四男が、この平賀朝雅です。つまりこの人も比企の血を引いています。

この人が歴史の表舞台に出てくるのは、比企能員の変で『吾妻鏡』で描かれた比企家の討手の中の武将に名前が入っているのが最初です。

この方が京都守護(在京御家人の統率と朝廷との連絡役)に任じられたのは、将軍代替わりによって騒動が発生した場合、幕府として迅速に対応するためです。(頼朝死後に京で三左衛門事件が勃発したという事実もあります)

この人も公家なりしていますが、武士ですから!

北条政範

ニューキャラクラー3人目は北条政範(ほうじょう まさのり)です。
北条時政(演:坂東彌十郎)りく(演:宮沢りえ)の間に生まれた男子です。

北条政範(演:中川 翼)
Copyright NHK (Japan Broadcasting Corporation). All rights reserved.

時政とりくの間の子なので、見え方としては北条家の嫡男(現時点での正室の子)になります。

時政の長男・宗時は討死し、次男・義時は江間の地を拝領して江間を苗字とし、その子・泰時も江間太郎を名乗っているので、別家を興していると考えて良いかと思います。

記録によれば、どこかの時点で従五位下の位階を持っていることになります。これは父・時政と同じ位階です。しかしこの頃の義時はまだ無位無官でした。これが政範が北条家の嫡子だったのではないかという説の元になっています。

三代目鎌倉殿固まる

大江広元が京都より千幡が後継者になることを認める書状が届いたと言っています。

広元「京より、千幡様を征夷大将軍に任ずると知らせが届きました」

康信「まずは日を選び、元服の儀から執り行いたいと思っております」

義時「よろしくお願いします」

広元「平賀殿には京都守護として早速京に向かっていただきます」

(朝雅、軽く頷く)

広元「上皇様へのお礼の品々を届けていただくことになっております」

義時「これより、京と鎌倉の橋渡し、頼みます」

朝雅「承知した」

行政「もう1つ、上皇様より千幡様にお名前を頂戴しました」

義時「ほう…..」

(広元が書状を広げる)

義時「……実朝」

朝雅「実に……良い名でござるな……」 

『鎌倉殿の13人』第32話「災いの種」23:56頃から

これは『吾妻鏡』の下記の内容ですね。

建仁三年九月十日乙亥。千幡君を推挙して征夷大将軍に任じぜられる沙汰がありました。そこで千幡君は今日、尼御台(政子)のもとから、遠江守(北条時政)の屋敷へ移動しました。江間泰時と三浦義村が警護しました。

今日、時政は、諸国の御家人に対し、領地を前の通り認めるとの承認文書を「将軍の命により」として発行しました。これは、将軍交代劇で世情が不穏にならないようにするための配慮でした。

『吾妻鏡』建仁三年九月十日

頼家、自ら真相を探る

頼家は自ら比企の屋敷を検分し、御所に戻ると和田義盛(演:横田栄司)仁田忠常(演:高岸宏行)を呼び出しました。

義盛は侍所別当として御家人を統率する立場ですので、将軍の相談役としては適任です。

一方で忠常は『吾妻鏡』によれば頼家側近の中でもっとも剛の者であったと言われています。

頼家「本当のところを聞かせてくれ。比企の舅殿がそうやすやすと討たれるとは思えんのだ。どうやって殺された?」

(義盛、忠常、顔を見合わす)

頼家「教えてくれ、比企能員の最期を」

義盛「俺が聞いたところによりますと……和議の件で北条殿に呼ばれて、北条の館に1人で出向き、そこで殺された……なぁ?」

忠常「……はい」

頼家「時政が殺したのは相違ないのだな?」

義盛「実際手を下したのが誰かは知りませんが、命じたのは北条殿です……なぁ?」

忠常「……はい」

頼家「……許せん……和田に仁田!……時政の首を持ってここに持って参れ」

義盛「しか……!」

頼家「あいつがやったことは!……謀反と変わりがない。討伐するのだ」

『鎌倉殿の13人』第32話「災いの種」18:51頃から

頼家の言っている事は間違いなく正しいです。

北条がやったことは、頼家が死んだ後も幕府を牛耳ろうとする比企能員を謀殺し、一族を族滅させて、自らの権力の拠り所となる千幡を征夷大将軍に立てようとしました。

これは将軍職の簒奪に他なりません。
となった場合、北条にとっての当面の敵は頼家自身ということになります。
であれば、その首謀者である時政を討てというのは筋道としては正しいです。

ただ頼家はすべてが手遅れになっていることに気づいていませんでした。
すでに千幡擁立の工作が進められていることを知らなかったのです。

だから義盛は頼家の命令に従わず、時政に「時政追討」のことを伝えるのでした。しかし忠常はそうはいきませんでした。

忠常は頼朝の信頼が厚い御家人の一人で。だからこそ頼家の側近に選ばれました。その頼家からこれから幕府を動かす中心人物となる北条時政を討てと命じられた。北条には畠山、和田、三浦などの御家人が味方になるのは明白。では、仁田には誰がつくでしょう。

逆に頼家の命令に従わなかったら、忠常の源氏への忠誠心が崩れてしまいます。いずれにしても、忠常には滅びの道しか残っていませんでした。

だから忠常は自害の道を選んだのだと私は思います。

仁田忠常の最期

忠常の最後も『吾妻鏡』と『愚管抄』で全く違います。

建仁三年9月6日、夜、北条時政は、先日の比企能員討伐の褒美を与えると言って仁田忠常を自分の屋敷へ呼びました。

しかし、忠常が屋敷に入ったまま出てこないので。仁田家の下人が不審がって忠常の乗馬を引き連れて帰宅し、その様子を弟の五郎・六郎に報告しました。

「もしかすると、時政殿を討てという、頼家様の命令がバレて返り討ちになったのでは?」

と、彼らは推測し、その復讐のため、義時のところへ行こうと考えました。

義時殿はちょうど尼御所へ参っていました。従って五郎を始めとする仁田家の連中は、尼御所に矢を放ちました。しかし義時の家来たちによってこれは防がれました。

五郎は、波多野忠綱に殺され、六郎が台所に火をかけて自殺しました。この煙を見て御家人達が集まってきました。

その頃、忠常は時政の屋敷を出て、帰宅途中でこのことを聞き、

「これでは自害するしか方法がない」

と云って、御所へ行ったところ、加藤景廉に殺されました。

『吾妻鏡』建仁三年九月六日

日田の四郎(仁田忠常)は、頼家の近習中の近習の者であった。頼家がまだ死んでいないことも知らず、能員(比企能員)を差し殺した。このようになってしまった(頼家の復活?)ので、本体の頼家が御家人をよびつけ、義時と忠常が御所に向かったが、戦いとなって討たれた。

『愚管抄』

『吾妻鏡』の方は、兄の帰りが遅いのを弟たちが誤解して、義時がいた尼御所に矢を射かけたことが謀反となり、忠常もそれを悲観したところ殺害されたとなっています。

『愚管抄』の方は、比企能員を討った後、頼家が復活し、御家人が呼び出され、義時と忠常が御所に向かう途中、義時と戦って死んだとあります。

比企能員の変については『吾妻鏡』の記載よりも『愚管抄』の記載が本当なのではないかと前回書きました。

今回の『愚管抄』の内容は、おそらく忠常の口から頼家に比企能員殺害の件の正しいところを伝えられると北条のクーデターとバレるので、その口封じのために殺されたような書き方です。

これが本当だとした場合、『吾妻鏡』の記述における北条の利点は、『愚管抄』のいう「義時が忠常を討った」という事実を「兄弟たちの勇み足の結果のやむなく殺害」という全く違う結末に改竄するためだったのかなと考えました。

で、ドラマの忠常は板挟みの結果、先を悲観して時政の屋敷で自害を図ります。あくまでも推測ですが、彼はもう正直、こんな鎌倉が嫌になったんだと思います。

義時の諫言

忠常の自害を知った義時はそのまま頼家の元に行きます。

義時「頼家様の軽々しい一言が、忠義に厚い誠の坂東武者をこの世から消してしまわれたんです……」

頼家「ワシが悪いように言うな。元々は北条が……」

義時「もちろんそうでございます……しかし、よろしいですか?」

頼家「……」

義時「頼家様のお気持ちが変わらぬ限り、同じことがまた繰り返されるのです……おわかりいただきたい」

『鎌倉殿の13人』第32話「災いの種」35:20頃から

これは「頼家が北条を恨みに思い、北条征伐を諦めぬ限り、御家人の忠義の高ければ高いほど、その御家人は次々と死んでいく」ということを言外に含ませていると思います。

そして、ここで義時は比企一族の族滅を北条の仕業と認めました。

それはこの時点で、頼家を鎌倉から追放するつもりだったことの表れではないかと思います。鎌倉にいない人間に何を言われても痛くも痒くもないでしょうから。

この後、政子、義時、時政、時房(演:瀬戸康史)の4名は、頼家を伊豆の修善寺に追放することを決定します。

建仁三年九月七日。晴。亥の刻(午後10時)に、将軍頼家様は出家されました。病気の上、鎌倉殿として政務を行うこと自体が鎌倉を危なくしている可能性があるからです。尼御台(政子)が、頼家の状況を配慮をした上、判断されたので、頼家本人には不本意ながらこのようなことになりました。

『吾妻鏡』建仁三年九月七日

頼家、修善寺に追放

頼家「いやだ!ワシはここを動かん!北条の意のままにはならん!」

広元「御家人一同の総意でございます」

(広元が義村と義盛に目で合図をする。義村、義盛、頼家を取り押さえる)

頼家「わからないのか三浦!比企の次は三浦だぞ!和田だぞ!

義村「耳を貸すな!」

頼家「離せぇぇぇ!」

『鎌倉殿の13人』第32話「災いの種」38:16頃から

頼家の言っていることは正しいです。
北条は自らの権力の維持のためなら御家人の一族を族滅させることなど躊躇なくおこなう。その危険性を言っているに過ぎません。

実際、比企の次は畠山、その畠山の次は和田です。
そして義時が死んで孫の時頼の時代に三浦もその矛先を向けられることになります。

建仁三年(1203)九月二十九日。晴。頼家を伊豆国の修善寺へ行かせました。巳の刻(午前十時頃)に出発。前備えは百騎。次に女騎馬武者十五騎。次に神輿が三台。次に武装した小間使い一人。後備えは二百騎。

『吾妻鏡』建仁三年九月二十九日

総勢315騎の軍勢に守られて修善寺に送られましたが、おそらくこれは途中で頼家を奪還しようとする者に対する備えなのだろうと解釈しています。

謎の婆さん・比企尼

この回の最後は、善哉を訪ねた比企尼(演:草笛光子)が善哉に呪いの言葉をかけて終わります。

比企尼「北条を許してはなりませぬぞ。あなたの父を追いやり、あなたの兄を殺した北条を。あなたこそが次の鎌倉殿になるべきお方。それを阻んだのは北条時政、義時、そして政子。あの者たちを決して許してはなりませぬぞ。北条を許してはなりませぬ」

『鎌倉殿の13人』第32話「災いの種」41:10頃から

これもフラグですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?