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いつか振り返って

ぼくが生まれたその年は、ミレニアムを16年過ぎてもまだ20世紀だったらしい。両親が生まれた昭和(の終わりなんだといつも彼女は言う)、そしてぼくが生まれた平成(の、やはり終わりだけれど)という時代を引きずって、その国の中だけに流れる時間歴を使って世紀を越えることを拒否したのかもしれない。2000何年と言われれば2600年を超えた暦を持ち出す人もいるし、いつでもリセットして1年目から始めることもできる。権力者は時を司る、というわけだ。

母が全身全霊を使ってぼくを生み出したように、この国は一度全てを終わらせてでも何かを始めなければいけなかった。
20世紀生まれの母は、20世紀と21世紀を半分ずつ生きてなお20世紀的な世界の中でぼくを産んだ。古い世界を終わらせ、名前を捨て、体の形すら変えながら。

21世紀に生まれたぼくは、何としても21世紀を生きなければならなかったから、両親は21世紀を始めることにそれは苦労したらしい。どうやら世紀のはじめの20年くらいは、まだ前世紀なのだ。そのくせ、世紀末とか言って千年単位の世紀の終わりには50年くらい前から大騒ぎもしたらしい。

名前を持つこと。持ち続けること。
自分の生き方を自分で決めること。
想いを共有する人と共に生きること。その集まりが最適な形を持つこと。
時には国を超えた存在になること。
それすらも叶わなかったという20世紀という前戦争の世紀はぼくには生まれる前のことなのでよくわからない。でも、もしかしたらこれから向かう今世紀の終わりは、ぼくもまた21世紀生まれとか呼ばれながらギリギリまで引きずって生きてしまうのかもしれない。

2016年に生まれたぼくはおそらく22世紀に触れるだろうが、新世紀を生きることはできない。2130年くらいになれば、21世紀は終わり、22世紀が始まるのだろうか。
ただの暦に何を騒いでいたのだろうと思わないでもないが、いちおう有史以来積み重ねてきたらしいその数字の区切りが十進数でいくとなんらかの意味を持ってしまうのだ。

ぼくはまだぼくの人生の1周目だと思っているから、歴史とは全て過去を指す。ただ、社会や国や経済に先んじて新時代を生きるということは、まさしく歴史を作ることなのだろう。その証拠に、そのコミュニティは、ちょっと中途半端な2017や13という素敵な素数と共に歴史に刻まれている。

ぼくの人生のはじまりの場所は、確かに渋谷にあったのだ。これから先の遠い未来になんと呼ばれようと、ぼくの家族が21世紀をはじめたその家が。

コミュニティの名前はCift。その国は、日本。そして、ぼくの祖国。




日本という国がいつまでも戦後を守れるように。同時にいつでも戦前であるという緊張感を持って、6歳の目を借りて想像した。


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