良いと言われるモノだらけ、洗練されゆくなんとなく。
大学卒業というのは、例えば「ダイエットしなきゃ」って言ってる人のダイエットみたいなもので、絶対手に届かない何かかと思ってた。
案外そうでもなくて、唐突にやってきて跡形もなく何かをさらっていった。
僕は身を晒すのが怖くて、みんなが薦める就活をしてこなかった。
「大卒みんなでやる就活っていうイベント」という違和感のせいにして遠ざけていた。
そんなことに気がついていながら蓋をして、
でもそれが心のどこかで重荷になっていて、
ヨーロッパを回る友達に、
アジアを旅する友人に、
多くの友達とお酒を楽しむ友達らに、
卒業証書を頭に掲げる知り合い達に、
ヘソを曲げ、自らが「選び取らない」を連続させてきたその将来を憂うばかり。
隣の家のベランダの洗濯物とか、
幸せそうなみんなの投稿とか、対向車線の運転手が鼻をほってるとか、見たくもないことはよく見える。けれども明日というものが僕には少しだって見えない。
ただ漫然と今日を繰り返している気がした。
今日が昨日でも、昨日が今日でも、どっちでも成り立つ日々。繋がりのない独立事象の日々。
けれどもそんな僕のちっぽい生活の中にも、
今日が今日でなきゃ成り立たないことが、
ひとつあった。
僕は、パンの人。
まだお金を稼ぐ程ではないけど、きっとこれからもパンのことを通して世界とかかわる人だ。
卒業前も、後も、パンを実家のパン屋の工場が空いてる時間に、だからまぁ、すごく夜、23時〜27時で使って焼いている。
パンの製造方法は、まぁまぁたくさんあるのだけど、僕はその中から、
長時間冷蔵発酵法で、パン生地を作るようにしている。
ちょっとのイーストで、長い時間かけて発酵させる方法論。
僕は今日の夜、ライ麦と小麦を半々、
塩、酵母、水をミキシングする。
タッパーに詰めた我が子のようなパン生地を
また明日の夜、
均一に成形し、窯に入れ、まるで分娩室で見分けるかのように焼き上がりを待つ。
バイトをして一日をやり過ごす僕が、
唯一、日々を日々として過ごす繋がりある時間。
今日の仕込みが明日のパンになる。
僕にはすんなりと受け入れられないことが多くあって、そういう、選び取らない自分を、愛せたらいいなって思う。自分に正直に。
例えばヨーイドンで始める就活をしないから、
代わりにパンを頑張る。
きっと多分、僕は、世間の尺度で見るところの、実に弱くて脆い存在だと思う。取るに足らないかと思う。
そうは言っても、違和感の壁は、美味しく食べれないガリガリに硬いフランスパンの表皮くらいには厚い。
美味しく感じるものを美味しく食べることが出来たらいいなって思うのと同じで、
なんだか好きだなってことを僕は、好きなままいたいのだ。
きっと今、なにが美味しいかを自分の味覚に頼れる人は、意外と少ない気がする。
記号的価値が大事だったりするからかな。
他者の尺度が幅を利かせているからかな。
分からないけど、そんな気がしている。
いいと思うものをいいと言う姿勢が、僕はいいと思う。それは、生産して売る人がやることであるよりまず、本来、消費者側に求められていることのようにも思う。
みんなが「いいものはいい。」と言いながら売るのだから、「良いものだらけ」になるはずの世界で、僕たちは「選び取らない」こととも付き合っていくべきなんじゃないか。
「選び取らない」を続けた結果が、
実は、生活のカタチになってたりするのかもしれない。
ドラッグストアでパンを売ってる世の中が、
僕にはずっと、少し、腹立たしく思えていた。
誰かが買うから売られていると、思うのだけどね。
わざわざパン屋でパンを買わなくてもいいという人もいれば、わざわざみんなして就活しなくてもいいじゃないという僕もいる。
みんながみんな、
何かをすんなり受け入れない。
これからどうなるかは分からないけど、
選択肢を増やす人より、
きっと、選び取る人が試されるだろう。
選択肢を増やすのは、案外カンタンに出来る時代になった気がする平成。
誰かがどこかで良いと言うモノを、
選び取らない自分に、素直でいたいなと。
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