ピクニックは、没入感だ。

映画が好きで、定期的にTOHOシネマに足を運ぶ。パソコン、スマホの画面とはまるで違うスクリーンに引き込めれる瞬間は、人生と言う特殊な時間においても、なお特殊な時間を体感できる。

時に、映画を評するにあたって、「引き込まれる」と言う場合があるが、私が思う、映画を褒める最上級フレーズがコレにあたるのだ。

映画において、最も重要なことは、感動ではなくて「没入感」であり、没入感に付随したスリルと、感動があるから映画は良いのだ、とあくまでも私が主張する。

ミュージカル映画にハズレがないことは、多分ではあるけれど、「没入感」が関係している。

ダンスと音楽はヒトの遺伝子的な部分に染み付いてる最強のグローバリズムであって、無意識のうちに私たちは、映画から感じるヒトの動き(ダンス)と音楽に没入しているのだ。

映画『グレイテストショーマン』を観た次の日が、今日である。もう、3月の半ばともなれば気温と気候が抜群ゆえ、気の早いお花見と、ピクニックの最盛期と言えるだろう。

映画同様に、お花見、ピクニックと言うものが、私は好きである。

去年のこの時期、いや、4月のあたまだったか、山梨の「ふるさと公園」でピクニックをした思い出がある。

昔の写真を見返すと、照れくささから、私の頬もほのかに桜色になるのだが、それはさておきである。

去年のピクニックと言えば、
横浜の「カップヌードルミュージアム」で作ったオリジナルカップめんと、お湯を持参してのピクニックであった。

古墳広場を正面に、公園の端にあたるベンチに腰掛け、お湯を注ぎ、3分待つ。

オリジナルカップめんを口にするわくわくと、隣に座る大切な人と、春らしい景色に広場を駆け回るちびっ子らは、言語化の余地すらない多幸感に満ち満ちていた。

おそらく、春の公園のベンチに腰掛ける私たちも、また別のアングルから見たら、
春の景色の一部であったのだろう。

ピクニックが楽しい要因は、
現実に内在する非日常性である。

普段、適当に赴き、散歩する程度の公園で、腰を下ろし、ご飯を食べるという、なんら特殊ではない動作は、日常と非日常の垣根を緩やかに破壊し、自身すらも景色へと変えてゆく。

そして私は思うのだ、「あぁ、ピクニックに没入しているな。」と。

自分らを含めた春の景色に入り浸り、何てこと無い食事をいつもよりぎこちなくこなしつつも、誰とも分からない人たちの春が、遠くにも広がっている。

こと人生における、没入感。

映画同様に、ピクニック、お花見においても没入感は、最重要項目だな、なんて思うのだ。

「没入しよう。」そう、思えたなら、もう、後は感動するだけなのだ。

こんな夜でさえ、フォルダに収めた春の景色にどことなく、「はよはよ。」と、
呼ばれている気がする。

「さて、また明日も、外へ行こうかな。」

人生に感じる淡さもまた、没入するが故の機微なのだ。

春になる頃、不審者増えるのは、こういう流れなんかな、なんて憶測しなくて大丈夫…。

私は、晴れた春の日が好きなだけだから。

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久保田真司

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