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かくれんぼ的生活と創作。

自分の部屋で、天然酵母なんかを仕込んでいると気づくことがあって、「あ、そこに、菌ちゃんはいたんだね。」なんて思わず、広口ビンにルンとしちゃうような出会いがある。

「昨日までなんも無かったのに、今日見たらりんごからプシュプシュしてるじゃん」なんていって、目には見えない菌の存在を感じ取れるのだ。

なんで自室で天然酵母やねんという話なのだけど、発酵デザイナー書生をしながら、ゆくゆくはパン屋になるので、その前段階としてちょっと研究しているのだ。

花嫁修業で、卵焼きを焼きまくるのと少し似ている。

そういえば、最近でも花嫁修業なんてあるのかな。花嫁修業が必要なら、花婿修行も必要ではないか。

たとえば、勇ましく缶ビールのプルタブを引っこ抜くだとか、お風呂で歌う鼻歌の発声練習だとか、婿殿はなにか努力して結婚にいたるのだろうか。

なんて言うといかにも古臭くて、花嫁だけ修行して、婿のほうはまるで破戒増ではなか、なんていわれた仕舞いには、嫁ハラだ婿ハラだなんておきまりの「ハラ」一家のお出ましなのだろうなぁ。

主夫なんて言うと、「おもに、夫。」てな感じで、「その他成分は?」なんて聞いてみたくなる。主婦も主夫も、変な言葉である。

毎日エッセイ的なヨタ文を書いていると、「どこまで書こう。」かと、自身のプライベートの露出度を確認せねばならなくなる。

「私の全部を知って!」なんてなかなか言えない。というのも、見られたくないところもあって、誰しも「恥ずかしい、見ないで!」なんていう部分もあるだろうし、「恥ずかしいところを見せてみろ。」なんていう視線には耐えられんだろう。

私小説というようなものも、やはり、どこまで「自分」をだしていいのかわからなさそうだ。

毎日缶ビール飲んでるかといわれたら、毎日は飲んでいないけど、缶ビール飲む自分とその他事象を書きたい日は、案外、毎日やってくるのだから、創作を通して、「毎日、晒していた。」なんて思っていたのだけど、ことのほか、「毎日、隠し事が増えていく。」のかもしれない。

書けば書くだけ、隠し事も増えて、知る自分も合って、そういうことには、各人向き不向きがあって、ネットサービスを介して、発表しやすくなった今、必ずしも全人類が、断続的な創作と発表を繰り返す意義を、「個人」として考えたい。

溢れかえる作品群の中には、「各人の生」が宿っていて、それが、毎度毎度、埋没していては、ちっともったない気がする。

「誰が、何を言うかが大事」、なんて言われても困ってしまって、「誰かが、」何か言うのを待っていればいいのか、という話にもなって、「毎日何か、創作して、発表するとは、さて、なんであるか。」と、今、考えている。

見つけやすくないと、探してもらえないのだろうなぁ。

オニ1人に対して、隠れている人は、全人類だもんなぁ。

「探しきれないよ。」「だから、誰が何を言うか。がだいじなのかなぁ。」「じゃ、僕が言う、何かって意味が無いのかなぁ。」なんていうと、さー困ったとなるのだ。

かくれんぼは、「あぁ、見つかっちゃった~。」なんて、見つけてもらってこそだと思うし。隠れるのと、見向きもされないのは、明らかにちがうよなぁ。

役立たずなヨタ文が無くなったら、長風呂と読書も楽しく出来なくなっちゃいそうで、雑文駄文が大好きな私は、また明日も、ヨタ文を書く。いち読者として、創作する。

たくさんの作品が、隠れてるんだろうな。
うん、隠れてる。

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