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今日が終わるときっと消えてしまうから、書いておきたいことがあります。


日が長くなってきました。

仕事を終えた家路、空に瞬き始めた星を見つけることが楽しみだった12月は、慌ただしく過ぎ去っていきました。いつもより暖かい冬の日、見上げると帰り道の空は、橙色と紺色が陣取り合戦を始めているところでした。

12月を終え、1月が始まり、私は昨日あったものが今日も同じようにあるとは限らないことを再び教えられました。誰かの犠牲の上で学ぶことは胸が苦しく、そして悲しいと感じます。それでも私は、今日が来ると手を合わさずにはいられません。

一歩前に足を出し振り返ると、側にいたはずの影が消えていることもあります。二歩、足を進めてみると、昨日はがらんどうだった両手にずしりとあたたかかいものが乗っていたりします。

空は毎日同じように朝を迎え、陽を照らし、雨を降らし、そして暮れていきます。お日様が今日を橙色のベールで包んでしまうと、いつの間にか空では今日が輝き始めます。楽しかったできごとを話すと、お月様は笑います。嬉しかった言葉を口にすると、空はきらきらと輝き始めます。悲しかったできごとは、音もなくもやになり、きらきらしていたはずの夜空を覆い隠してしまいます。あまりに悲しい夜は雨で流してしまおうと、どこかで誰かが涙を流します。

そこにいたはずの今日は、地球がでんぐり返しをする度に、夜がどこかへ連れ去っていくようです。そして私が目を開けると、世界は朝を迎え、また同じように一日を始めます。

けれど、新しく始まった一日は、通り過ぎてしまった一日と全く同じではないような気がする、そんなことを私は考えています。日々というものは、とてもよく似ていますが、一様ではないように感じるのです。今日は昨日となり、明日は今日となります。抱えているものも想いも、ひとつとして同じではなく、少しずつ姿を変えているような、まとう空気が違うような、そんな気がしています。あなたも私も、太陽も月も、すべてが違ってみえるのです。

私が言葉を持たなければ、きっとそうは考えなかったのかもしれません。今日も明日も明後日もおとといも、一年前も十年後も、同じような一日であると思いながら過ごしてしまっていたのではないかと思います。

記憶はいつも曖昧で、写真のように鮮明に残すことが私には難しいのです。どのような一日だったかを振り返るにはおぼろげなのです。記憶は次第に色褪せて、私は勝手にその上に新しい絵を描き、ありもしない記憶を捏造しているのではないかと不安になることもあります。けれど、今を切り取った写真さえあれば、そして、それを残すことができれば、いつだってそれは鮮明に過去を教えてくれます。記憶が本当であると私に教えてくれるのです。

それならば、こころはどう残しておけばいいのでしょうか。私はこころを記録するカメラを持っていません。こころは揺らぎます。動きます。息を吸うだけで、息を吐くだけで、こころは形を変えるような気がします。こころの今は、本当の意味での今、その只中にしかないのではないかと感じるのです。

私は考えました。こころを記録するためには、言葉を使うしかないと。ありがとうも、嬉しいも、悲しいも、楽しいも、幸せも、美味しいも。悔しいも、痛いも、寂しいも。風が気持ちいいことも、布団があたたかいことも、手を繋いで心が弾んだことも。大好きだって、愛してるだって、全部、全部、全部、ぜんぶ。こころを記録するためには、言葉しかないと考えています。

私は過去を生きようとは思いません。けれど、過去を知ることは、過去を大切にすることは、今を大切にし、明日を大切にすることだと思うのです。

この想いですら、明日になると消えて無くなってしまうような気がしています。
だから私は、今日も明日もその先も、ずっとずっと書いていこうと思います。


書くことは、こころを大切にすることだと思うのです。






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