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星に願いを・小暑(7月7日)

 踵の吐き潰した上履きを脱ぐと、白い靴下に穴が空いていた。またやってしまった。下駄箱のスチール扉を開きながら、芋虫のように飛び出た小指を見下ろす。部活終わりで火照っているせいだろうか、薄暗くなった昇降口の床はやけにひんやりとしていて、触れたそこだけ気持ちよかった。

「あのさ、依子」

 すぐ横で液体の跳ねる音がした。顔を上げると、モカの胸元があった。小学校、いや中学生まではあたしの方が大きかったのに、最近になってさらに身長が伸びた気がする。きっちりと第一ボタンまで留められたブラウスからはレースであしらったチョーカーが覗いていた。真面目なのか、不良なのか、よく分からない。

 脱いだ上履きを下駄箱の上段にしまい、ローファーを手に取る。どうしたの、と愛想なく顎を上げるとモカに笑顔が広がった。

「今日ね、天の川を見たいの」

 扉を閉める掌に思わず力が入ってしまった。持っていたものを灰色のタイルに放り投げる。乾いた音が薄暗い空間に響いた。

「天の川?」

「うん。織姫と彦星って、年にたった一度の今日だけ会えるんだって」

「はぁ」

 投げ捨てたローファーを揃えて履き替える。靴下から飛び出た小指は見えなくなった。

下校チャイムはとうに鳴り、遠くで教員が「早く帰りなさーい」と叫んでいるのが聞こえる。いずれここにも見回りに来るだろう。もうすぐ期末テストもある。早く、帰らなきゃ。

「――でね、その天の川を見ると、願い事が叶うんだってさ」

 ゆったりと靴を履きながら、モカは喋り続けていた。こういうところだよ。心の中で毒づく。聞こえないように小さくため息を吐いて、昇降口の扉へ足早に向かった。後からモカが追いかけてくる。よく持ち歩いているカルピスウォーターがペットボトルの中でぽちゃぽちゃと跳ねた。

 昼が長くなったとはいえ、空はもう濃紺を帯びて西の方だけがオレンジがかっている。教員に指導を受けないよう、昇降口裏の壊れかけたフェンスをくぐり出た。

身体を大きく折り曲げたモカは苦労しているようだったが、抜けると何事もなかったかのように「あぶなかったねぇ」と楽しそうに笑った。紅潮した頬から微かに汗とデオドラントスプレーの混ざった香りがする。青春の匂いだ、と言ったのは誰だったっけ。雲がかかった夜空を見上げて先へ歩いていく真っ直ぐな背を眺めた。

 モカは、あたしにとって特別な女の子だ。幼馴染みだからかと聞かれれば、そうだと頷かざるを得ないが、決してそれだけではない気がする。運動なんてからっきしできないのにテニス部に入ろうと言ったり、誕生日にチョーカーをくれた軽音部の男子と即日付き合うことになったり、モカの言動は理解不能だ。ことごとくイラつかせられる。けれど、どうしたて嫌いにはなれなかった。

「カルピスって、いつ作られたと思う?」

街灯の少ない住宅街を歩きながら、モカはまた話しかけてくる。青白い肌に大きな瞳はどこかの国のお姫様みたいだ。首に巻かれた白いレースだけは包帯のようで痛々しい。

「……分かんないよ」

目の端に映っているペットボトルの中で液体が振り子のように大きく波打っている。あたしの返事にモカは満足げな吐息を漏らした。

「正解はねー、今日の約100年前だよ!」

 ふぅん。力なく相槌を打つと、「ひどーい!」と甲高い声をあげた。面倒くさいから取り合わない。生ぬるい風が吹き、短くしたスカートから膝小僧が見え隠れした。

「モカさ」

「うん」

「どうして、織姫と彦星だったのかな」

「うーん……分かんないけど、そういう運命だったんじゃない?」

「そっか」

 そうかもね。モカのズレた答えに妙に納得した。空を仰いでみる。頭上の遠くでは雲と雲の間に白いゴミのような一点がちらちらと舞っていた。

「モカさ」

「うん」

「……何でもない」

 少しだけ口角を上げ、モカを見る。モカは長い睫毛を瞬かせ、無言で肩に抱き着いてきた。汗ばんだ手の熱を制服越しに感じる。あたしたちは、あとどれくらい続くのだろう。織姫と彦星はずっと会えなければ良い。そう、星に願った。

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