『学歴コンプレックス』なんて無い。
私は、高校中退→通信制高校卒業が最終学歴だが、卒業から10年以上の月日を経たこれまでに、『学歴コンプレックス』というものを感じたことが全くと言っていいほど無い。
学歴の差をどこかしらで匂わせてくるような人物には数多と出会ってきたが、正直そういった人物は、私の方からも「あ、コイツこの分野に関しては俺よりもバカだな」と容易に見下せてしまうような、致命的『隙』や『欠点』を抱えている場合がその殆どだった。
一方、私が「この人頭良いな」と純粋に思えた人物というのは、私のような人間が「コイツバカだな」と思う隙など一切見せないので、そんな人にはただ尊敬の念を抱くことしかなかった。そして、『良いな』と思える行動は全て真似、というよりも「トレース」に近い感覚でコピーをさせてもらってきた。
そんな感じで、これまでの私は『学歴コンプレックス』を感じることなど、皆無に等しかったわけである。
もっとぶっちゃけて言ってしまえば、そもそも私のような人間が身を置ける環境で時間を共に過ごしている時点で、「コイツと俺の差はそこまで大きくないな」と、どんな人物に対してでも短絡的に考えることが殆どだった。
しかし、そんな私でも、他人に『コンプレックス』を抱かざるを得ないケースが存在することに、本日、ハッキリと思い至った。
「そんなコンプレックスあるのか」と、冷静にツッコまれてしまうかもしれないが、私が抱えているコンプレックスについて説明すると。
まず、
コンプレックス=劣等感
と考えたときに、唯一浮かんできたのがコレだった。
コレは、
中流家庭の末っ子長男として育てられた『お坊ちゃん』傾向のある私が、幼少期から潜在的に抱えてきて、未だに満たされていない部分でもある。
それは『目的コンプレックス』である。
これまでの私の人生には、具体的な『目的』というものがなかった。
『なかった』というよりも、具体性を持って物事に取り組むことに全く関心が持てなかったのだ。
そんな思考回路の私でも、周りの人間に流されることは多かったので『頑張って』目的や目標を定めてみたことは幾度となくある。
だが、それら全ては一定期間が経過すると、所謂『三日坊主』となり継続できなくなってしまったパターンと、いつしか目的が『抽象化』されてしまい「別に焦る必要なんてないや」と楽観的に考える思考へと落ち着いてしまったパターン、の2パターンで全て分別できてしまった。
過保護でもあり且つ放任主義で、大体の進路決定を私の意志に全て委ねてくれた両親に対し、「俺がこうなったのはアンタらのせいや」と、唯一責任転嫁してしまいそうになるのは、全てこの『目的コンプレックス』が発端となっていると思う。
小学生の段階で、既に何の目的も持たずに、ただ毎日をその日その日の気分次第で生きていた。
とはいえ、正直言って私達ゆとり世代の大多数が私と同様だったのかもしれない。
なので結局は、私個人の未来や将来を見通す能力が著しく鈍かったのが原因だろう。そんな自身の致命的な鈍さに対して危機管理センサーが一切反応しなかった、ただそれだけである。
三十歳を迎える近年まで気がつけなかったようなことを、誰か他人の責任にするなど、しても虚しいだけである。
結局、私の自己責任だと自覚しているので、三十代になってからの私は、自身が抱えている『目的コンプレックス』と只ひたすらに向き合い続けるのみの、そんな毎日を過ごしている訳である。
なので、具体的に目標を持って日々行動を継続できている人の事は、心の底から尊敬すると共に、あまりに眩しく見えてしまって嫉妬の念を抱いてしまう、そんな表と裏の感情が私の腸では沸々と蠢いている。
これがサトー佐藤という人間の未熟さだ。
『学歴コンプレックス』だったらほぼ100%スルー出来るのに。
ほんと困ったものである。
2022.10.2 サトー佐藤
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