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向田邦子と味噌カツ

直木賞作家の向田邦子が台湾旅行中、飛行機事故で亡くなったのは1981(昭和56)年。当時、私は大学3年生だった。

向田邦子は51歳。1年前に直木賞をとったばかり。放送作家でエッセイストとしても絶頂期だったこともあり、しばらくはこのニュースで持ちきりだったような気がする。御巣鷹山に日航123便が墜落したのはこの事故の4年後である。

実は私は「だいこんの花」も「寺内貫太郎一家」も「時間ですよ」も「阿修羅のごとく」も見ていない。これらのテレビドラマはすべて向田邦子の脚本で大ヒットしたものばかりだ。なぜ見なかったのかははっきり覚えていないが、たぶん、子どもだったのでチャンネル権がなかったこと、大学時代はテレビなしの生活をしていたからかもしれなかった。だけど、話題の人として向田邦子の名前は知っていた。

それから彼女の写真を目にする機会が何度かあった。猫のようなやや吊り上がったクリッとした瞳が印象的な、たいそう美しい人だと思った。洋服のセンスもいいし、スタイルも抜群。本来なら黒子であるはずの放送作家がこれほど表に出るというのは、それだけ魅力的な女性だったからだろう。そして、たいへん恐縮だが、彼女は横浜に住んでいた私の叔母を思わせる雰囲気があったのだ。父の妹で一人暮らし。東京都の公務員だった。年に一度か二度、岐阜に帰ってくるたびに、おみやげと一緒に都会の香りを身にまとっていた。私はそんな叔母に強い憧れを抱いていた。

向田邦子のエッセイも読んだ。たしか最初は「字のないはがき」だったと思う。戦争で疎開した末の妹に、父は自分宛に名前を書いたはがきをたくさん渡した。まだ字が書けなかった妹に、元気なら〇を書いて毎日はがきを出しなさいと言い置いて。最初のうちはとても大きな〇が来たが、次第にその〇は小さくなり、とうとうはがきは途絶えてしまった。兄弟が迎えにいくと、妹は虱だらけの布団に寝かされていたという。これは実話らしかった。話の展開も面白いが、何よりこのエッセイを読んで戦争を大変強く意識したし、父が娘を思う姿に涙した。それに行間の含みが大きいというのか、余白が強く訴えかけてくる。向田邦子はほんとにすごいものを書く人だったんだと思った。

そして今、私はあらためて向田邦子に夢中になっている。本当は向田邦子と呼び捨てにするなんてとんでもない。向田邦子様なのだ。女性としても、一人の人間としても強く引き付けられている。何より料理上手で食いしん坊なところが良い。ああ、「ままや」に一度でいいから行ってみたかった!

そんなわけで彼女の本を何冊か購入している。いまにうちの本棚は向田邦子に席巻されてしまうかもしれない💦その中の一冊『向田邦子 暮しの愉しみ』(新潮社 とんぼの本)を読んで、向田邦子がなんと! わが岐阜に来ていることがわかった。行き先は揖斐の谷汲山華厳寺だ。雑誌『旅』の取材だったという。

華厳寺は地元では有名な古刹で、西国33番札所である。近くには❝美濃の正倉院❞と呼ばれる、紅葉と即身仏の寺・横蔵寺(よこくらじ)がある。

華厳寺はなんといっても春である。参道の両脇を埋め尽くす桜並木の美しさ、風に乗って花弁が舞う様子はたとえようもない。もっとも向田邦子が来たのは若葉の時期だったようだ。名鉄谷汲線の駅舎に降り立った彼女は、トレンチコードを羽織っていた。その男前な姿が凛々しくて実にカッコイイ。

グルメで知られる向田邦子がこの旅で出会った食は味噌カツだった。味噌カツとはカツに赤味噌ベースのタレをかけたもので、東海地方の名物だ。ルーツについては名古屋、三重といろいろあるようだが、私は岐阜が発祥と聞いた気がする。まあ、どこでもいい。

今では名古屋めしの一つとして有名になり、東京でも食べられるのかもしれないが、私が学生の頃は東京にはなかった。一度だけ、どこかのレストランに入った時、急に食べたくなって「味噌カツはありませんか」と尋ねた。すると、そこのシェフらしき人に「通だねえ」と言われた。通も何も、岐阜では当たり前のメニューだったので、東京でも当たり前にあるものだと思ったのだ。シェフの皮肉だったのかもしれないが、田舎者の私は「いわなきゃよかった」と思い、とても恥ずかしくなった。

彼女は味噌カツを気に入ったらしく、帰りの新幹線に乗る前に駅の食堂で食べ、それでは飽き足らなかったのか、後に岐阜市の「一楽」という店に食べに行っている。そして、「私は向田邦子といいまして、放送作家をしております」と名乗り、お店の人に味噌だれの作り方を尋ねたそうだ。もちろん、味噌カツは食べたのである。

「一楽」の味噌カツは岐阜でも有名だ。ここは❝元祖味噌カツ❞を名乗っている。

だがしかし、もし私に店のチョイスを任せていただけたなら、別の店に連れて行っただろう。それは大垣市内にある「宝亭(たからてい)」という大衆食堂である。ここは半世紀以上前から営業しており、味噌カツが名物だ。香ばしい油で揚げた味噌カツは独特の風味があり、味噌だれもまた一度食べたら忘れられない味なのだ。こくがあって、味噌だけでも嘗め回したいくらいだ。そして、ポテサラもジャガイモの形が残っていて、とてもおいしい。私の友達は、妊娠中に無性に宝亭のカツが食べたくなったという。妊婦をも夢中にさせる味なのだ。

もし向田邦子がこの味噌カツを食べたなら、きっと店主にレシピを乞うたにちがいないと、私は思う。一楽は名店だが、決して味で負けてはいないと思う。

彼女が岐阜を訪れたのは1980年。1年後に飛行機事故でこの世を去った。あまりにもあっけないというか潔い退場の仕方で、心の準備はもちろん、だれも何の準備もしていなかった。普通に出かけ、そのまま黄泉の国へと行ってしまった。

花ひらき はな香る
花こぼれ なほ薫る

俳優で親交の深かった森繁久彌が向田邦子の墓に捧げた墓碑銘である。

亡くなる前に岐阜に来ていたということで、よけいに向田邦子に対する思いを強くした。彼女は味噌カツを自分で作ったのだろうか…

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