教育実習で見た教育観の変化

 時刻は午前3時。眠れないので、この下書きを書いている。21年ぽっちの人生を、noteに書き残したい。ただその一心で筆を執る。

 両親は昔から「早く大人になりなさい」が口癖だった。幼少の頃から大人と同じ水準で物事を考えるよう、耳にタコが出来るほどこの口癖を聞いたものである。

 自称・スパルタ教育を推し進める両親は、私が少しでも意に反する行為を取ると強烈な罰を与えた。それはお菓子抜きや、ゲーム機を隠されるなんてあるあるの甘いものではなく、暗い山奥に車で連れていかれ、1人で何時間も放置されたり、理髪店を営む祖母宅にある冷たい石床の散髪部屋に一晩中食事も水もなしに閉じ込められたりするなどの罰である。

 「バカになるな、賢くなれ」と夏休みの宿題は強制的に2週目をさせられたし、普段の課題も周囲の子達の倍以上に取り組むことになった。「親に認められるために賢くなる」という盲信で突き進んでいたが、その行為が「勉強」ではなく「親の言いなり」であるということに気づいたのはもっと後になってからである。

 刷り込まれたのは勉学だけではなかった。理不尽な罰や課題から、「世界はこんなにも悪意に満ちている」という前提で行動する方が楽であるという判断基準を手に入れた。昔付き合っていた女性に、「人を疑い100%で見るのが貴方だね」と言われたことがあるが、それはまさに、この経験から得た一種の学習性無力感によるものであろう。酷く私の心を雁字搦めに縛っているこの鎖は緩むことを知らず、年齢が進むに連れて、ただただ私の身に食い込んでいくだけである。


 自分が精神的なディスアドバンテージを抱えていることを知っている大学教授から戴いたメールに、こんな一文があった。

薬よりも、ゆっくり、自分を信じて解放してあげてね。

 「辛くて欠席するのに朝一番にメールを送ってきて、次の週の初めにもわざわざ頭を下げに来る学生なんて君くらいだ。」と話す教授。

 「完全じゃない方が人間味があって面白いじゃん。」と笑いながら仰られていたのが印象的だった。


 ミスが許されない世界というのは、どこの業界においても存在する。深刻な病気の手術や先日行われた即位礼正殿の儀の祝砲など、一回のミスが全てを台無しにしてしまう現場がある。世界のそのような側面には「人間味」が介在して良い余地はなく、ただ「完全性」だけが求められるのである。

 「教育」にも、子どものこれからを左右するという意味においては「人間味」が介在してはならない側面がある。むしろ、人間味が介在してはならない場面が子どもたちの人生を大きく変化させることの方が多い。

 極端な例を挙げると、入学試験の時、名前を書き忘れてしまうとか、大事な面接試験で噛んでしまい、少しもたついてしまうだとか。「仕方ないよね。」と言ってそれらに対しフォローを入れてしまうと、そこに不平等という不公平が生じてしまう。


 日常においても、「人間味」が完全性の歪みを生み出すことがある。

 例えば、支援学級に行く程ではないものの、少しフォローが必要な児童に行なっている慈善行為が保護者に伝われば、「〇〇さんのところのお子さんには××なさったのに、ウチの子にはしてくださらないんですね。」というクレームが生まれることがある。

 「〇〇さんのクラスでは△△しているのに、ウチのクラスではなさらないんですか?」など、クラス経営における担任の人間味が、保護者や子どもたちにとって不公平を生み出すものに見える要因になることもある。

 勿論、人である以上「完全性」を持って活動することは不可能である。しかし、それでいてなお「『教育』に人間味は必要か否か。」という問いに、明確な答えを持って臨むことは難しい。


 教員という仕事は、AIに取って代わられる可能性が限りなくゼロに近い職業なのだと言われている。

 それは「教育」という仕事内容にある特異性よるものであると専門家たちは提言する。

 一般的に「教育」は「学問を修める」という側面でクローズアップされることが多い。公的にそれは「学歴」となって表れ、多くの場所において人を価値づけるステイタスとして重視されるからだ。

 特に日本では、良い学校を出て優秀な成績を修め、名の知れた企業や公的機関に就職するのが「良い人生」なのであるという神話が人々の間にある。「学歴」という側面を重視するのも、このような現代社会の仕組みが影響していると言えよう。


 しかしその一方で、学校という環境においてはテストや入試で良い点を取ることを第一目的に行われる「詰め込み型教育」は悪だと見られがちである。学歴を高めるために知識や技術を習得することは必須であるはずなのに、それを第一目標に据えた「詰め込み型教育」が忌避されるのは疑問が残る話である。

 今となっては、ほぼ全ての児童が、学校と同じ「教育」を扱う学習塾に通っている。散々忌避してきた「詰め込み型教育」を専門に扱う施設に、わざわざ通わせているのである。


 私はここにこそ、「教育」の特異性があると考えている。


 「教育」という概念が「学歴」という側面だけなら、「詰め込み型教育」で全てを賄うことが出来る。学習塾で行われる詰め込みの教育はより高度な学びを必要とする子どもたちにとっても、基礎を学びたい子どもにとっても非常に合理的であるし、結果に即効性のある教育であると言えるからだ。このような側面は、Alによって最適化された学習法が効果的に作用するため、これからの時代では個人で学習する方が効率がいい場合も考えられるだろう。

 だが、「教育」にはもう一つ、「人間性を育てる」という側面がある。そして、「人間性を育てる」のに最適な方法こそ、「多くの人間の『人間味』に触れる」ことなのである。

 ある程度歳を重ねた人間は誰しも、自分哲学を持っている。子どもたちは自分たちより先を生きる大人の生き方や考え方、物の捉え方に影響を受け、自分の在り方の指針にしていく。色々な人と出会い、コミュニケーションするなかで、自分なりの「生きるとは何か」という課題に立ち向かっていくのである。このような影響をAIによって与えるのは不可能だと断言して良い。

 つまり、学校に求められる「教育」の形が、「知識を養う」という側面よりも、「人間性を育てる」という側面が色濃く出ている形に変化しているのだ。

 勿論、子どものしつけまで教員の仕事だといって聞かない保護者の存在はどうかと思う。だが、求められているものの変化には臨機応変に対応していくべきなのではないか。


 研究授業を2日後に控え、いよいよ教育実習が終わりを迎えようとしている。

 1か月間に渡る実習から学んだ知識や経験は、きっもこれからの活動にプラスのエネルギーをもたらしてくれるだろう。

初日には真っさらだった実習簿も、だいぶくたびれてきた。ページをめくると1日ごとの思い出や経験が克明に記録されている。

残り4日。精一杯の愛情と誠意で子どもたちと向き合いたいと思います。



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