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社会の中の文学(3)(2012)

第5章 図解の文学
 円城塔の作品は多様な対象を扱い、饒舌な記述に溢れているが、多機能化家電の機能同様、大した意味はない。それにとらわれなければ、主にフロー・チャートの図解にするのが容易である。トマス・ピンチョンを含めてすべからく作品は図解にできるので、それを批判しているわけではない。図解は、図形や矢印を用いて、システムや概念の分類・関係を示すものである。コンテクストを切り離すので、それを共有しない人の間でも共通理解しやすい。この作者の場合、表に出していないように、図解を読者との間の理解の共有に使うつもりはない。自分の創作目的に限定される。図解はコンテクストに依存しないため、普遍性を持てる。反面、図解による創作はコンテクストの希薄さが継承されかねない。現代社会のコンテクストを欠いた作品が出来上る可能性がある。

 この図解は情報処理の考えを作品に導入するために利用される。今日、情報処理アプローチがさまざまな領域で応用されている。中には、論理構造として採用されているため、表面的にはそれとわからないものまである。問題解決する際の情報処理的方法は問題の分割化、逆行法、丘登法、手段・目的法、特殊化・一般化法、エキスパート法などが挙げられる。文学にもこのアプローチを応用すれば、知性領域であるなら、多種多様な対象を扱うことができる。ただし、それはあくまで手段であって、目的ではない。

 情報処理アプローチが円城塔で象徴的に表われているのが機械翻訳や恋愛小説の変換ソフトウェアなどである。これは入力をコンピュータで計算して出力する情報処理システムの一種である。入力と出力が一対一対応するプログラムを完全情報システムとする。その期待効用は対応の確実性、すなわち確率によって判断される。彼の作品では、この不確実性が話の中心となっている。出力を決定する際に重要なのは入力ではなく、プログラムの精度である。

 プログラムはアルゴリズムとデータ構造から成り立っている。そのアルゴリズムはコマンド、すなわち具体的な命令によって構成されている。プログラムを直接コーディングせず、まずアルゴリズムを考える。言葉で書くと曖昧なので、アルゴリズムはフロー・チャートで記す。これにより自分がコンピュータになったつもりで手順を一つずつ確認できる。おじが翻訳機だという設定もここから援用できる。図解はこのように使われる。

 入力が暗黙知である場合、定義が明確でないため、出力との対応に不確実性が高まる。プログラムを向上させるには、人間の行為を解析し、暗黙知を計算可能に定義する必要がある。それを組みこんで、学習型にプログラムを作成すると、入出力の対応の確実性が高まる。

 情報処理システムを導入する際に、この暗黙知の問題は非常に大きい。暗黙知はコンテクストに依存し、運動記憶や言語習得を始め、広い領域で見られる。企業戦略に対する「企業文化」も含まれる。暗黙知を解析して計算可能なものにする。これを十分にできないと実用的なシステム開発につながらない。機械翻訳の原理は、この解析作業を不可欠とする以上、記憶・適用である。一方、人間翻訳は暗黙知の処理を最大の強みとしており、その原理は理解・思考である。機械翻訳はドナルド・キーンにはなれない。「白足袋」という入力を”white gloves”と出力することを描く方がはるかに文学的だ。

 入出力の不確実性を扱いながらも、円城塔は暗黙知の問題には触れない。それは入れ替えの面白さにとどまる。彼の作品にはこの差し替えが非常に多く見られ、関心事がそれだと推測できる。暗黙知を問い始めると、現実世界に作品を開かざるを得なくなる。プログラム作成は社会の抽象化ではない。ニーズの具体化だ。実際の作成では、主な使用場面やハードウェアの環境、納期、コスト、安全性、法的規制、権利関係などの制約を受ける。しかし、作品上ではそうした縛りはない。作者はオールマイティとしてふるまえる。時間計算量も空間計算量もお構いなしだ。ただ、それは、通常、手段である。導入されたら、社会がどのように変わるか、人の考え方や生き方がいかに変容するかを描くことで、現実を相対化し、認識を拡張する。

 各対象のコンテクストを取り外し、その入れ替えを自家薬籠のものとすることを展開してみせる。これが円城塔の文学である。社会の中の文学という意識に欠けている。こうした自己充足な彼が起点となって新たな文学の系譜が生まれることは期待できない。彼の作品にはイノベーションがない。今の文学に必要なのは前衛ではない。イノベーターだ。

第6章 3・11を自覚せよ
学の価値はそれが規範として後継者を生み出したかどうかや裾野をどれだけ拡充したかによって評価される。同時代の作品を評することの難しさはそこにある。まだ見ぬ後継ぎを思い浮かべるよりも、既存の価値観を尺度にするのが常である。しかし、理解の共通基盤が社会だと思い出すならば、それをどれだけ深くまたは広く認識しているかが判断基準となる。

 作家は今を生きているのだから、書いた小説は同時代性を具現しているはずだという信念は素朴である。社会は複雑化・専門化・細分化・相対化しており、その実態は実感と往々にしてずれている。現代社会には「グローバル化」や「持続可能性」、「少子高齢化」、「9・11」などの長期的なスパンのキーワードがある。2011年、ここに「3・11」や「フクシマ」が加わる。前景に出ている必要はないが、表現はこれを踏まえていなければならない。3・11以降、コンテクストを無視し、現実に対して自意識の優越を確保しようとする文学は、3・11の風化に加担しているのであって、言語道断である。3・11に向き合い、寄り添い、それを踏まえた社会を建設することが今の文学のやるべきことだ。文学者は社会の中の文学を再確認した方がよい。
〈了〉
参照文献
東千秋他、『問題解決の発想と表現』、放送大学教育振興会、2004年
海野弘他、『現代美術』、新曜社、1988年
円城塔、『Self-Reference ENGINE』、早川書房、2007年
同、『オブ・ザ・ベースボール』、文芸春秋、2008年
同、『烏有此譚』、講談社、2009年
同、『後藤さんのこと』、早川書房、2010年
同、『Boy’s Surface』、ハヤカワ文庫、2010年
同、『これはペンです』、新潮社、2011年
同、『道化師の蝶』、講談社、2012年
久恒啓一他、『図解VS文章』、プレジデント社、2008年
ノースロップ・フライ、『批評の解剖』、海老根宏他訳、法政大学出版局、1980年
ロジャー・パルバース、「『龍之介先生、芥川賞は難しいです』文学の国? 文学賞の国?」、『朝日新聞夕刊』、上杉隼人訳、2006年2月6日

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