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官邸デモを敷衍する政治(2012)

官邸デモを敷衍する政治
Saven Satow
Nov. 25, 2012

「僕らはね、もう折れてしまったんです。何だ、本土の人はみんな一緒じゃないの、と。沖縄の声と合わせるように、鳩山さんが『県外』と言っても一顧だにしない。沖縄で自民党とか民主党とか言っている場合じゃないなという区切りが、鳩山内閣でつきました」。
翁長雄志

第1章 異議申し立てとしての官邸デモ
 2008年の政権交代の最大の意義は官邸デモである。これは、3代目の首相への異議申し立てであるから、皮肉な話だ。しかし、民主党連立政権の誕生によって覚醒した政治意識がそこに認められる。政権交代なくしてあの広がりはあり得ない。政権交代によって目覚めた意識は、たとえ時計の針を戻そうとしても、それに対抗する理論・実践を得ていることを意味する。

 発生直後から、フクシマをめぐって市民の政官財学報への不信感が高まる。事は生命にかかわる。官邸デモ以前からインターネットを通じて自主的に集まった市民が脱原発への抗議活動を行っている。それは思想信条の違いを超えている。生命の問題の前では右翼も左翼もノンポリもない。脱原発運動は生命からの抗議である。

 脱原発に積極的だった菅直人に代わって野田佳彦が首相に就任すると、政官財学報の間にフクシマがなかったかのような原発容認の動きが表面化する。こうした生命軽視の方針への異議申し立てとして始まったのが官邸デモである。基地問題ですでにこうしたタイプのデモが展開されている沖縄から見れば、今頃かという印象もあるだろう。参加者は老若男女に亘り、有名無名を問わない。生命を危うくする動向への抗議である。その際、生命をないがしろにする暴力に訴えることはしない。デモはつねに平和裏に実行される。現場に駆けつけられない市民はネットを視聴することで後方支援する。官邸デモは3・11を象徴的に敷衍した社会運動である。

 市民の不信感には、明らかに政府を始めとする関係者が欠如モデルによって対応したことで増幅されたと認められる。「欠如モデル(Deficit Model)」とは、専門家と違って市民が科学に不安を抱くのは、正確な情報が欠如しているからだとする考えである。これに基づく科学コミュニケーション実践が「科学の公衆理解(PIS: Public Understanding of Science)」である。正確な情報を与えれば、市民も専門家と同じ理解に達するはずだ。こうした関数的思考はあくまで期待であって、そこには暗黙の前提がある。一つにはその知識が今後も妥当すること、もう一つは情報の送り手が受け手に信頼されていることである。暗黙の前提に無自覚な欠如モデルはナイーブ・リアリズムにすぎない。

 市民と共に考え、生きることを選んだ専門家も少なからずいる。専門家でも、自分の領域を離れれば一市民だ。市民から学ぶことも多い。彼らは、よりよい社会を協創するために、自らの知識・経験・技能を生かそうとする。児玉龍彦東大先端科学技術研究センター教授はその一人だ。そこにウォーム・ハートを持ったクール・ヘッドがいる。

 この不信感は依然として続いている。時事通信による11月24日17時15分配信記事によると、公益財団法人の新聞通信調査会は、08年から続けている全国世論調査において、メディアへの信頼度が開始以降でいずれも最低を記録したと公表している。担当者は「政府や電力会社の発表に対する検証が不十分という声があり、信頼度に影響したのではないか」としている。8~9月、全国の18歳以上の男女5000人を対象に調査し、3404人から回答を得ている。各種メディアへの信頼度を100点満点で評価すると、トップはNHKの70.1点、新聞68.9点、民放テレビ60.3点であるが、昨年より3.1~4.2点下がっている。インターネットも53.3点で3点下落している。 

 ただ、同様の内容を12年11月25日付『読売新聞』は「『判断の参考』は新聞が首位…メディア世論調査」と次のように伝えている。

 調査は今回で5回目。全国の18歳以上の男女3404人から回答を得た。原発報道で「自分の意見を持ったり、判断したりする時に参考になったメディア」は、〈1〉新聞42.1%〈2〉NHKテレビ41.9%〈3〉民放テレビ41.4%――だった。一方、情報の信頼度を100点満点で採点した場合、新聞は68.9点(昨年72.0点)。テレビでは、NHKが70.1点(同74.3点)、民放が60.3点(同63.8点)で、主要メディアの信頼度は2008年の調査開始以来、最も低かった。

 編集がいかに読者の印象を左右する機能を持つかよく示している。この記事はメディア・リテラシーを考える際の貴重な資料となろう。なるほど信頼性が下落するわけだ。

 原発は市民への信頼感をあまり考慮していない。概して、政府が率先して行う事業は、初期投資が莫大だったり、規制が厳しかったりと民間が手を出すには負担が大きいと推測できる。そうすると、国営企業や半官半民の企業、さもなければ政府が成長を期待するような企業が携わるほかない。原発はこうした事業の典型である。いかに政府が支援しても、参入できる企業は少数であり、競争が乏しく、コスト意識も生まれ難い。費用対効果に問題があってもインセンティブがないので改善するよりも、人事や予算などを握る監督官庁との関係を強めて、納得してもらうようにする。

 日本の場合、公務員数が少なく、また政府による研究開発投資も小さいので、監督官庁と言えども、専門的な技術・知識に通じている人材が少数である。日本の研究開発投資はGDP比4%弱と世界トップクラスであるが、8割が民間である。また、霞が関はアップ・オア・アウトを組織の新陳代謝の制度として採用している。これが昇進のインセンティブとなっている反面、レースの敗者は中途退職も余儀なくされる。企業が退職後のポストを高給で用意すれば、それがインセンティブとなり、官僚はその事業を擁護する。

 関連企業は世論も政府の力で誘導することを期待する。一旦こうした制度が出来上ると、それを前提にして生計を営む人たちが生じ、彼らが存続させようと動く。中央・地方議会に人とカネを使って自分たちの要求を実現しようとする。社会のための事業ではなく、事業のための社会と認識が逆転し、失敗に向かっていく。

第2章 自己批判としての官邸デモ
 官邸デモは政策の意思決定への参加意欲を根底に持っている。政治家からバラ色の夢物語を聞きたいわけじゃない。財政が厳しいのなら、それを公開して欲しい。責任追及を恐れてはいけない。市民と行政や立法も情報と意識を共有した上で、知恵を出し合おう。判断する際には基準が必要だから、生命の重視を共通認識にしよう。

 確かに、参加型民主主義を始めても、最初は経験がないので、上手くいかないだろう。けれども、情報と意識を共有して参加する限り、自分のこととして決定に責任を持つ。阪神・淡路大震災以来、市民の政治参加への意識が高まり、その流れの中に官邸デモがある。もう政治を誰かにお任せなどしない。

 細川護煕政権の誕生以降、自民党以外の政党にも統治の経験がシェアされている。民主党を中心とした連立政権紋の登場もその流れの中にある。まるほど既得権の所有者の抵抗に対する交渉と調整の経験不足が目立ち、立案途中で立ち往生したり、政策が骨抜きにされたりしてもいる。

 けれども、こうした批判は歴史を忘れている。74年、ロッキード事件で世論の非難にさらされた自民党は保守傍流の三木武夫を首相に選出している。まだ石油ショックから立ち直っておらず、政治・経済共に日本は苦しい状況に置かれている。党内最左派の三木を首班とする内閣は、坂田道太防衛長官や稲葉修法相など優れた閣僚がいたものの、統治の経験不足が目立ち、国会対策で苦労している。加えて、田中角栄の逮捕を容認したとして党内の三木おろしの動きは激化している。おまけに、76年9月にミグ25事件が起きている。しかし、「バルカン政治家」と呼ばれた三木はしたたかさとしなやかさを見せ、任期を満了している。80年代、中曽根康弘は、三木の経験を踏まえて、政権運営を行い、戦後有数の在職期間を全うする。70年代、激しい派閥抗争のために、政治が停滞することもままあったが、その不安定さが自民党内における統治経験のシェアをもたらしている。

 むしろ、民主党連立政権で目についたのは有望株の政治家のハートのなさである。首相就任直後に野田佳彦が国連本部を訪れた際、付近で展開された脱原発デモに参加するフクシマの被災者を無視している。また、翁長雄志那覇市長は、12年11月24日付『朝日新聞』において、野中広務と比較しつつ、岡田克也と前原誠司の心のなさを指摘している。

 ウォーム・ハートのない政治家は何も民主党議員に限らない。自民党を始め他党のみならず、無所属の議員や首長にも少なからず見られる。中でも、3・11の際に「津波は天罰」と発言した石原慎太郎は論外である。しかし、こうした政治家をはびこらせた責任は市民の側にもある。

 学生運動の挫折以降、政治は胡散臭いから、関わるべきではないといった空気が若い世代を中心に広がる。政治には無関心でいるか、非難や揶揄をするかいずれかだけでいい。政治の実践は自分がしなくてもやりたい人がやればいい。どうせ誰でも同じだ。投票しない、もしくは批判する権利として1票は投じるという行動を示す。政治は奇特な人に任せて、ただ乗りをするのが合理的である。村上春樹はこうした時代の気分を作品化し、既存の文学者たちを驚かせて、デビューを果たしている。

 しかし、こういった空気は政治から優秀な人材を遠ざける。かつての政治家や官僚は戦争体験といった状況を動機にしている。「なぜあんな戦争をしてしまったのか。二度と繰り返してはならない」。この廃墟から立ち直って見せるという強い思いで政治の世界に飛びこむ。

 ところが、政治への失望が広がる状況では、動機を自分の内部に見出す人物が関わり始める。彼らにとって政治家や官僚は職業選択の一つである。野田佳彦や前原誠司を始め松下政経塾出身の政治家たちは、勝負どころの演説や討論伸において、『青年の主張』よろしく、自分の半生に触れる。選択的動機による政治家だからだ。

 主観性の強さは外界に目を閉ざし、観念論へと陥りやすい。政治に関わろうとする若者は多くない。孤独さがヒロイズムを増長する。コミュニケーションも似通った者同士で行われ、独善的想念にもフィードバックによる修正がなされない。偏った思考習慣の人物が政界入りしていく。その典型例が安倍晋三である。

 政治家の育成には時間がかかる。こんなバカに政治を任せていたら危ないと気がついても、すぐに新たな人材が育つわけではない。政治に距離をとる気分の代償は非常に大きい。

 確かに、政治について知ろうとすると、コストがかかる。カバーする領域は広く、際限がない。勉強や仕事、育児、介護など市井の人々は日々の暮らしに追われて忙しい。そこまでしたところで、自分は1票の価値しかない。政治活動は投票行動だけではないが、政治家が最も怯えるのは落選の恐怖であり、それが使えないのなら、苦労も無駄だ。それなら、ただ乗りした方がいい。

 しかし、3・11直後からそうした政治的無関心さへの著名人による自己批判が相次ぐ。70年代に社会に背を向ける「内向の世代」としてデビューし、投票に行かないことを公言していた柄谷行人もその一人である。この元ブントは、いささか空想じみてはいたものの、共産主義的活動を続けてきた思想家であり、決して非政治的ではない。けれども、現実政治に背を向けることで逆にそれに依存していたと自己批判し、脱原発デモに加わっている。非政治的な態度を売り物にしてきた村上春樹は、一切の自己批判もせず、脱原発を口にしたのと大違いである。一夜にして戦後民主主義者に転向した元軍国主義者と同様のメンタリティだ。

 菅首相だから復旧・復興が進まないと与野党共に主張して彼をおろしたが、その後も特に進展していない。平時に政権を投げ出した安倍晋三が菅の手法をあの不明瞭な発音で非難する姿は最低としか言いようがない。新政権は3・11から目をそらすような政治課題を次々に提案する。

 被災地は霞が関や永田町に何とかしてくれなどと言っていない。自分たちのことは自分たちでする。アイデアやプランだってある。決めたことは責任を持つ。誰かのせいになどしない。ただ、少々規制や制限、資金などに融通をきかせて欲しい。そんな身の丈に合ったことを言っているだけだ。ところが、現政権の成立後、当事者意識の薄れた民自公は三党で合意してあのシロアリ予算を通し、被災地の要求をないがしろにしている。霞が関や永田町はナマズを接待しているんじゃないかと思うほどだ。

 阪神・淡路大震災の時と同じく、被災地でのボランティア活動や義援金・救援物資による支援、自己治癒力を高めるための表現が行われている。ただ、フクシマが新たな状況をもたらす。見えない放射線への不安が高まる。市民は口コミやマスコミ、ネットから得られる情報に積極的に臨むようになる。自分の思いを述べ、他者の話に耳を傾け、熟議を通じて認識を深め、実践にとり組み、自治体もそれに呼応する。過剰反応したり、誤った情報を鵜呑みにしたりする場面も多々見られる。けれども、その姿から愚民扱いするのは時代離れしたエリート主義である。自分が見えていない人物に限って、他人を見下すものだ。

 米倉弘昌経団連会長が何と言おうが、3・11以後、多くの企業は脱原発の世論を組み入れ始めている。厳しい国際競争が常態化する中、そこにビジネス・チャンスを見出している企業もあるだろう。新規産業やイノベーションに積極的にとり組み、フロントランナーとして市場開拓をすれば、生き残れる。ただ、孫正義を始め非サラリーマン社長にこうした姿勢が目立っているように、経団連がかねてより唱えてきた「企業の社会的責任(CSR)」の実践でもある。

 不況にあえぐ日本経済にとって、新たな産業による市場の創出はアリアドネの糸である。莫大な赤字を抱える中央・地方政府に財政出動は期待できない。人口減の状況で有効需要を増加させることは盛りを過ぎたベテランに高給を用意するようなものだ。金融政策にしても、国内に有望な投資先がなければ、低金利の資金が海外に流出するだけだ。政府のすることは方針を決め、取引コスト軽減などの制度整備を行って民間のインセンティブを高めるだけですむ。財政政策のような赤字の心配もしなくていいし、金融政策のような国際経済への影響も考慮しなくていい。

 3・11に際してその政治家がどのような発言をし、振る舞ったかは今回の総選挙における最重要の判断項目の一つである。恥知らずにも立候補している連中は末代まで祟られることも覚悟しておいた方がよい。もちろん、過去の姿勢だけではない。その経験を踏まえた上で、よりよい社会を協創していこうとしているかどうかも問われる。多数の政党が乱立しながらも、官邸デモの精神を組み入れようとする政党は少数である。自民党などそうした動きを無視し、既得権の保護・復活を目指している。維新は、3・11を踏まえた政策を修正して「改革」を主張している。両者は鎌倉幕府がだめだったからと建武の親政を訴えているようなものだ。3・11に向き合い、官邸デモを敷衍し、市民と共に政治の意思決定・実践にとり組む政党こそ望ましい。

 この1票は自分だけのものではない。3・11により無念に亡くなった人や投じられない人からも託された生命の1票だということを忘れてはならない。
〈了〉

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