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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(105)「馬筏」「馬鎧」の今川頼国が古典『太平記』ではやらかしている? チート過ぎる足利尊氏は同時代の人たちも評価に困った!?

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2023年4月15日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 「最も格好良く最も気持ち悪く、最も実像に近い足利尊氏像を目指しています。

 これは、週刊少年ジャンプの2023年第19号(『逃げ上手の若君』第105話)の作者コメントです。
 古典『太平記』を読んでいても、足利尊氏への評価だけがどうにも投げやりな印象を受けます。そこで私の出した結論は、尊氏という人は同時代の人間の価値観や評価の枠を外れていたのではないかということでした。

 今回は、もちろんそのあたり触れながら、相模川の戦いの始まりを見てみたいと思います。

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 「足利の騎馬が川を渡り始めたぞ!」「異常に密集してやがる!!
 「馬筏うまいかだ」だ ああすることで川の流れの影響を受けない
 「戦闘の牛面が隊の将だ! 奴を射殺し勢いを削ぐぞ!

 「牛面」は「うしづら」ではなく「うしめん」なのですね。吹雪も「あの獣の面」と言ってますし、今川範満で耐性がついただけかもしれませんが、四宮は相変わらず冷静だなと思いつつ、「馬筏」を辞書で引いてみました。

うま‐いかだ 【馬筏】
 流れの急な大河などを騎馬で渡るときにとる隊形を、いかだにたとえていった語。数頭の馬を横に並べて、川を渡る方法。強い馬を上流に、弱い馬を下流に配置する。馬の筏。
 [補注] 多数の馬で、河を渡るには、馬を紐で前後に結ぶ「一文字」と馬を横列にして、上流に力の強い馬を配して渡す「馬筏」とがある。馬筏は横列にするだけで、馬と馬とを結ぶことはなく、各人が片手で馬の手綱、片手で馬の尻尾をつかんで渡す。

 強い馬が配されている上流側から時行軍は筏で攻め込んで、一気に今川隊を切り崩し、頼国を孤立させもしたわけです。
 ちなみに「馬鎧」ですが、これまた少年漫画作品上の武具ではありません。

うま‐よろい【馬鎧】
 軍陣に際して乗馬につける防御用の武具。額から鼻面(はなづら)にかけておおう馬面(ばめん)と、胸から左右の平頸(ひらくび)にかけての胸甲(むなよろい)、背通りから左右の琵琶股(びわもも)にかけての尻甲(しりよろい)からなる。

 この頼国ですが、鈴木由美氏の『中先代の乱』では次のように記されていました。

 この時相模川は増水していて、足利方の今川頼国が川を渡っている途中で射殺され、今川三郎・「河ばたの人々」も同じ場所で討たれたという。
 ※「河ばたの人々」…今川氏の分家の入野氏。

 確かに、吹雪の放った矢でできた隙を亜也子が襲うという展開です。ところが、この場面を『太平記』で確認してみたところ、〝牛〟がやらかしてくれています。

 今川式部大夫頼国、先陣に進んで渡しけるが、荒き浪に押し落されて、水に溺れていたづらに失せ給ひけること、糸惜いとほしけれ。

 ーーなぜか彼だけ溺死して、語り手にも気の毒がられています。『逃げ上手の若君』では、高師直あたりに舌打ちでもされる唖然の展開となるかな?という期待があったのですが、素顔も明かされないまま変な形状の武器で殴り裂かれて終了ということで〝手打ち〟でした。

 しかしながら、正宗が打った「四方獣よものけだもの」の威力はすごいですね。これは、〝もしも〟の話として聞いてほしいのですが、もしこうした武器が実際に過去に存在していたとして、現代にそれが遺物として発見された時に、私たちはその物を正しく評価できるでしょうか。
 私は、第105話の足利尊氏に似たような思いを抱きました。

「庇番衆」と比して「格落ち」だと弧次郎に評される今川頼国
……この背後に控える足利尊氏の規格外の強さを際立たせる前座に過ぎなかった?

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 「三浦と名越の仇を討つぞ!」と意気込む泰家ですが、戦いの時の額の(自力な)「やるぞ」って初めてではないでしょうか。また、鎌倉奪還に涙して(第98話参照)いた北条一族の大仏、極楽寺、塩田の皆さんも奮闘しています。よく見たら、保科党の門番さんらしき方も、足利方の武将の首をたくさん腰にぶら下げていますね。
 鈴木氏の『中先代の乱』には、「足利方も十八日の相模川合戦では今川頼国以下、得宗被官でもあった甲斐源氏の小笠原七郎父子(信濃守護小笠原貞宗の同族)、のちに足利直義のもとで活躍する二階堂道本どうほん(法名。俗名は行周または行秀)の子息行脩・行登らが討死した。」とあります。
 そして、いよいよ足利尊氏に迫る……というのが、『逃げ上手の若君』の相模川の戦いのクライマックスです。

 「死なないなァ 仕方ない戦うか…

 105話は、何が起きたかわからなくて、尊氏の登場シーンを何度も読み直してしまいました。そして、佐々木道誉と高師直のリアクションを見て、何が起きているのか理解しました。道誉も師直も、尊氏がもはや〝人外〟であることを冷静に認識していて幻惑されていないのですね。道誉はニヤついていて面白がっている様子がありますし、尊氏を手当しようと包帯を取り出す師直も「急所に刺さった試しがない」なんて、本気かよ!?って思いました。
 かつて、南北朝時代を楽しむ会の会員の女性が〝尊氏のチートなところが好きです〟と言っていたので、私は〝チートなところが好きって、どういうこと!?〟と謎だったのですが、「不可解さがカリスマとなり 人々を異常に惹き寄せる」というこの説明に重なる気がします。道誉や師直に比べたら、尊氏のことを純粋に〝怖い〟と感じている足利直義はマトモだと思いました。

 『太平記』の相模川の戦いでは、〝取り乱す尊氏〟は描かれていません(むしろ、なぜか自信満々です…)。しかしこの、「うわあああぁぁ もう駄目だ 負けるぅうう」「無理だよぉ 直義ぃ 師直ぉぉお」「自害しか無いかなぁ? ねえ 自害しかないかなぁ?」については、〝またかよ…〟って思うくらい『太平記』を読んでいるとデジャヴが起きます。
 死ぬ死ぬ言うのを一緒に逃走する部下たちが必死でなだめたり、戦下手のはずの直義が先陣を切って兄・尊氏の「強運」を証明してみせたり、師直と一緒に死ぬ寸前だったところに待ったをかける使いが来たりーー『太平記』の語り手も(果ては、物語の登場人物までもが…)「強運」とただ一言でそれを評し、その理由というのは、計り知れない前世の徳によるものだとして、匙を投げてしまっているのです。
 尊氏の正体を見抜いていた護良親王の最期を思い出します。時行や頼重たちのこの先を歴史的な事実として知る私ですが、松井先生が中先代の乱の新しい解釈をされるのではないかという期待と、そしてそれは今記録に残されているものよりも、もっと残虐で過酷なものではないかいう不安と恐怖も抱いてしまうのです。

〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、『太平記』(岩波文庫)、鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)を参照しています。〕


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