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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(107)「中先代の乱」か、それとも「諏訪頼重の乱」か? 諏訪頼重が乱を起こした真意をまるで見誤っている足利尊氏こそが「残念です」

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2023年4月30日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 「鎌倉郊外 辻堂つじどうの戦い

 鈴木由美氏の『中先代の乱』によれば、相模川の戦いの翌日の八月十九日に「辻堂(神奈川県藤沢市)・片瀬原(同)で合戦があったが、ここも時行方は防ぎきれず、足利尊氏は鎌倉を取り戻した」とあります。ただし、「三浦氏の一族葦名盛員・高盛父子、美濃源氏の土岐貞頼らが討死、近江の名門、宇多源氏の佐々木時綱、足利氏の執事を務める高一族の大高重成らが負傷している。結果として足利方の勝利となったが、いずれの場合も激戦であったことがわかる。」と書き加えられています。また、最後に残ったのは「諏訪頼重をはじめ時行方の主だった大名四十三名」ともあります。
 『逃げ上手の若君』第107話が描く、「頼重自身が指揮をとった最後の戦いは 再び時行軍が足利の将兵を数多く討ち取り 少年の乱に華を添えた」というページの頼重と神党は、まさに挙兵した最初のように「火出づる程そ闘ひける」(『太平記』)のがわかりますし、「大半の兵は信濃へと帰らせました」という解釈からもまた、松井先生の思いが私にはひしひしと伝わってきました。

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 「遥か古の恵美押勝の乱のように」「この乱は諏訪頼重の乱と呼ばれるでしょう 貴方の名をそんな形で残したくなかった

足利尊氏の物言いは穏やかですが、頼重の挙兵を愚行として蔑んでいる印象を受けます。

 最初、足利尊氏のこの発言の真意が私にはまったく不明でした。ーーしかし、怒りを抑えて考えをめぐらすに、尊氏は時行のことを「意志弱き傀儡」と断じています(このコマの時行の顔がショボい…)。要するに、尊氏は頼重に対して、〝貴方は、時行を意のままに操って諏訪氏が政権のトップに立とう(天下を取る)と目論んだのでしょうが、そんな愚かな考えを持つ方だとは思いませんでした〟と言いたいのかもしれませんね。実際、小笠原貞宗はいち早く北条氏を見限り、信濃守護になっています。利の無い弱者は切る捨てる、あるいは、人とは自らの欲のために利用できるものは利用するものだという考えしか頭にない尊氏こそ、頼重の戦う真意がわからないのだと推察されます。
 同様に、私は今までこの戦いの名称が、本郷和人先生の言うように「諏訪合戦」である可能性(今週号の『解説上手の若君』「戦の名称について」参照)や、「諏訪頼重の乱」であるはずだなどということは、考えたこともありませんでした。
 ここで、「中先代」の名称について確認しておきたいと思います。
 鈴木由美氏は、「「中先代」とは、北条氏を「先代」、足利氏を「当御代とうみだい」(「当代」に「御」の敬称がついたものであろう)と呼び、その中間にあたる時行を「中先代」と称したと考えられる」と、『中先代の乱』で述べています。
 また、「時行方が鎌倉を占領していた期間は二十日あまりのため、「廿日先代」ともいわれた」との事実も示していました。しかしながら、「」が「同じカテゴリで括られる三つのもののうち真ん中のものを指す言葉である」ことから、時行が「鎌倉幕府の執権「先代」北条氏と室町幕府を開いた「御当代」足利氏と同列に置かれた」のであり、それというのは「時行が短期間であっても源頼朝以来、武家政権が置かれていた鎌倉の地を占領することができたからであろう」と結論付けています。
 一方、鎌倉北条氏の研究の大御所ともいうべき存在である細川重男氏によれば、北条得宗家の御内人の中でも、諏訪氏は長崎氏に次ぐ二番目に位置していたということを聞いたことがあります。ナンバーツーというのが微妙とはいえそれでもナンバ―ツーですし、現人神でもあったのに、なんだか地味なんですよね、諏訪氏って。諏訪氏自体がまるで『逃げ上手の若君』の諏訪時継のような印象を抱いています(時継と言えば、父・頼重よりも先に尊氏に……ただただ悲しいです)。私個人の感覚では、合戦や乱の名称にだってならないであろう地味さだと思っています。大体もって、尊氏が引き合いに出している恵美押勝って、かなり派手ですよ…。

恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)
 天平宝字八年(七六四)九月、恵美押勝(藤原仲麻呂)が道鏡を除くために起した反乱。仲麻呂は孝謙上皇の寵を得て同二年太保(右大臣)に任じ、恵美姓を賜わり、四年太師(太政大臣)に任ぜられ権勢を極めたが、同年六月七日、彼の支持者である叔母の光明皇太后が崩じたことが失権の端緒となった。上皇は五年十月近江の保良宮に行幸、翌年五月まで滞在したが、その間に病み、道鏡が看病して治癒したので、彼を寵するようになった。押勝が擁立した淳仁天皇が、上皇の道鏡寵愛を批判したので、上皇は怒り、国家の大事と賞罰を行う大権とを手中におさめ、天皇に小事のみを委ねた。したがって押勝の権勢は次第に衰退した。翌七年押勝の専権をかねてから憎んでいた藤原良継・佐伯今毛人・大伴家持らの貴族は反押勝のクーデターを計画したが、事前に洩れ、良継が罪を一身に負うた。押勝は権勢回復を企て、六年十二月息三人を参議とし、その一人真光には大宰帥を兼ねさせていたが、八年正月、一族を右虎賁率(右兵衛督)、美濃・越前などの守に任じ、九月二日にはみずから都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、各国の兵を集めて反乱態勢を固めたが、十一日逆謀が洩れ、上皇は先手をうち淳仁天皇の手もとの中宮院鈴印を収めた。押勝は息訓儒麻呂(くずまろ)に鈴印を奪わせたが、上皇は坂上苅田麻呂を遣わしてこれを射殺させた。押勝は宇治を経て近江国高島郡に逃げ、塩焼王を立てて天皇とした。愛発(あらち)関より越前へ脱出しようとして、官軍にはばまれて果たさず、高島郡三尾崎で官軍と戦ったが藤原蔵下麻呂(くらじまろ)の援軍に敗られ、勝野鬼江で石村石楯(いわれのいわたて)に斬られ、一族ら三十四人も滅んだ。時に九月十八日。淳仁天皇は十月九日に廃位させられ、淡路の一院に幽閉されたが、天平神護元年(七六五)十月脱走を企てて捕えられ、翌日怪死した。押勝に代わり道鏡が権勢を得た。
〔国史大辞典〕

 藤原仲麻呂が淳仁天皇から賜ったのが「恵美押勝」という名だそうですが、〝恵美押勝なんて(中国風の?)キザな名前ですね〟という、私が高校生の時に日本史を教えてくださった先生の言葉をいまだ覚えています(三十年以上前)。里中満智子先生の『女帝の手記―孝謙・称徳天皇物語』では、仲麻呂は光明皇后と孝謙天皇の母子どちらとも関係があって、マジで女の敵だと思いました。それに比して、頼重はどう考えてもそれとはまったく系統が違うでしょうが…と、ひとりで尊氏にツッコミを入れました。

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 「そなたとは郎党の縁も切る 今よりこの戦は私の戦だ
 
 これは、第106話の最後の頼重の一言です。「郎党の縁も切る」とは、期せずして出た言葉なのでしょうか。もしそうであるならば、「」というのは、「郎党の縁」だけでなく「父子」の縁「」ということであり、この発言が時行を逃げ延びさせるための方便ではないことを意味します。つまり、「今の貴方様は主君である前に我が子同然!」というのが、『逃げ上手の若君』の頼重にとって本心も本心だったということになります。
 また、泰家も大事なことを時行に言って聞かせてますね。

 「敗北した以上 諏訪家全体に乱の責任を負わせぬために 首謀者の死を明確に示すのは絶対条件なのだ」「奴はそれを覚悟の上で 我ら北条への忠義のために立ってくれた

 時行は頼重の傀儡であったのか? ーーそれは、歴史の友人、こと『逃げ上手の若君』の好きな友人たちの間では、折に触れて話題となります。
 最近の私は、この時代が〝自力救済の社会〟であったことを前提として、時行の意思はあったという意見を肯定しています。なぜならば、為政者の一族に生まれ、そうした環境に置かれ、そうなるための教育も早くから受けていたはずの時行が、自分を庇護して政権を取り戻そうという意図を持つ家臣の意向にのらないことはないであろうと考えるからです。そこまで考えが至らなかったとしても、自分が生き延びるためには、たとえ幼子であっても、自らの生を他人任せにしてはならないことは理解できるはずだと私は考えるのです。
 一方の頼重と諏訪氏が、南北朝時代ではごくごく常識的な行動規範とされる損得で動いたのかといえば、少なくとも松井先生の『逃げ上手の若君』は、それにはNOを突き付けているわけです。科学としての歴史学ではありえない、あるいは考慮しないとされる部分を問いたいと思っているに違いないでしょう。
 文学や創作作品は、ありえないことを表現してもいいのです。理想を語ってなんぼの世界です。ありえたかもしれない真実を描き、当たり前とされる物事を拒絶していい世界なのです。
 「諏訪義重の乱」か「中先代の乱」か? ーー時行は宣言しています。

 「この戦の主が この戦に決まりを定める

 時行はこの戦いを、頼重個人の戦になんかさせる気はないのです。「」は「」を思い、「」はその「」と共に立ち上がった証である「中先代の乱」が、『逃げ上手の若君』では描かれようとしているのではないでしょうか。

〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、『太平記』(岩波文庫)、鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)を参照しています。〕

 


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