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権力がもたらすメカニズム

相手をいたわる気持ちが弱まった、
運転が荒くなった、
以前より嘘をつくようになった、
相手に対して礼節を欠くようになった、
相手の気持ちを理解しようとしなくなった、
性的な振る舞いが酷くなった、

どんな出来事が人をこのように変えていくのか。社会心理学や脳科学の研究によると、人は権力を握るとこのような傾向に陥りやすくなるのだそうだ。

周囲の人々より自分に力があることが明らかになると、人は相手の言い分を聴くより自ら話そうとし、相手の立場で物事を理解しなくなり、さらには、相手の表情を読み取ることも下手になるのだそうだ。このような特徴はさまざまな研究や実験から、実際に明らかになっている。

権力のパラドックスとは、人々のために状況を改善しようとして得るものなのに、いざそれを手にすると濫用(らんよう)してしまうということだ。

"The Power Paradox" Dacher Keltner

バークレー大学の社会心理学教授、ダッチャー・ケルトナーはこう語っている。

これは、政治家や会社の上層部といったわかりやすく権力を握っている立場の人々だけのことではない。上司と部下、親子、学校や職場の先輩・後輩の関係においても言えるのだという。相手がだれであっても礼節を欠かさず、真摯に対応する人間がいないわけではないが、ケルトナーによれば、そのような人間性を持つ者(例えばガンジーやマンデラなど)は非常に稀であり、権力は人を、簡単に言い切ってしまうと、失礼で傲慢な人間にしてしまう傾向があるのだそうだ。

デンマークの牧師教育機関で起こったこと

レベッカは30代の既婚女性でPTSDを患っていた。彼女はデンマークのキリスト教教会で牧師になるための(デンマークでは58%の牧師が女性である)教育を受けていた。

学校に入学したとき、自身がPTSDを患っていること、それでもきちんと卒業して牧師の資格を得たいということを、レベッカはある教員(A)に相談した。Aは親身になって話を聴き、クラスメートにもPTSDを患っていることを話した方が良いと提案した。

教員Aの提案に従い、レベッカはクラスメートの前で自身の抱えている困難について説明した。しかしその後、クラスメートたちとの距離の取り方がわからなくなり、孤立することが多くなったという。他の教員からは、PTSDを抱えたままで牧師として将来やっていく自信があるのかと尋ねられることもあった。レベッカはそんな状況に不安を感じ始めた。そして、そんなレベッカが唯一頼れるのは、いつも親身になって話を聴いてくれた教員Aだけになっていった。

そんなある日、レベッカは個人的な問題を相談したいとAのもとを訪ねる。しばらく親身に話を聴いた後、Aは部屋の奥から寝袋を取り出し、それを床に広げて、不安になっているレベッカに寝袋の上に横になるようにと言った。レベッカはAの指示に従い寝袋に横になると、Aはレベッカの背中をさすりはじめた。次第に気持ちが落ち着き、息が整ってくると、Aは静かにレベッカの服の中に手を入れて、身体をまさぐりはじめた。

この日から、教員Aはレベッカとの性的な関係を求めはじめた。レベッカには夫もおり、Aを教員として、また牧師として尊敬していたが、性的な相手としては考えられなかった。むしろ、神との神聖な対話を学ぶための場所でこのようなことが続くことが信じられなかった。それでも、学校で孤立し、他の教員からも自分が卒業できるのかを疑問視されていたなかで、レベッカが唯一頼れたのは教員Aだけだった。狭い世界であるデンマークの教会関係者の中でAに嫌われないようにしなければ、卒業もその後の就職もできないかもしれないという不安が強くなり、レべッカははっきりとAを拒絶できないまま、関係が続いていったのだという。

この事件はレベッカが卒業後しばらくして公のものとなった。2021年、レベッカが牧師として就職したあと、ある日突然、職場で不安定になりパニックをおこしたことがきっかけで、親しくしていた教会の同僚にレベッカはAとの関係を暴露した。のちに彼女は学校に対しAの行為を訴えた。しかしデンマークでは、牧師がたとえ教員であっても教会の信徒や学生と性的関係を持つことを規則として明確に禁じていないこと、また2人は大人であり、教員Aは自分たちは同意の上での関係だと認識していたことから、Aの行為は罰せられることなく終わってしまった。Aはその後この学校を離れ、ある街の教会で牧師として再就職した。

権力は人を変える

ここまで読んだ読者は、教員Aが男性だと思ったのではないか。セクシャルハラスメントは往々にして男性から女性に対して行われる。だがAは女性だった。つまり性的ハラスメントとは、性別を超えて起こりうる普遍的な権力濫用の問題のひとつとして考える必要がある。

Aは弁護士を通じて、レベッカとの関係は互いに好意を感じ合っており、合意の上での行為だと思っていると主張していた。しかし、オーフス大学で神学を専門とするウラ・シュミットは、Aの行為を「立場を利用し相手を操作する典型的なグルーミング行為だ」と批判している。指導者と学生という不均衡な権力関係においては、指導者側に常に問題の責任があると彼女は指摘している。

Aはレベッカとの関係において、レベッカが発していたサインを読み取れていなかったのではないか。レベッカは一貫して、Aとの関係に問題が起これば学校を卒業できなくなるかもしれない、また就職にも影響するかもしれないと語っていることからも、Aとの関係を対等なものとして認識していない。Aが合意の上だと感じていたとしても、それはAがレベッカの感じていたことを読み取っておらずに、無意識に自らの権力を行使し、圧力をかけていたとも考えられる。

構造的な問題として

ケルトナーは「社会における不平等が大きければ、権力を濫用するメカニズムも拡大する」と語っている。つまり、不平等が蔓延する社会では、権力者は自身が握っている権力をより悪用するということだ。日本で起こっている政治や教育現場などの不祥事も、もしかするとこの論理に当てはまるのではないか。権力とはこういった側面を私たちにもたらす。これを一人ひとりの人間性や人徳の有無で判断し、個人の問題として処理していては、いくら人を入れ替えても同じことが起こる可能性は消えない。個人の資質の問題ではなく、権力のもたらすメカニズムとしてこのような現象が起こると想定し、いかにその可能性を防いでいくかという視点で対策を立てていくべきではないだろうか。

最後にケルトナーからの提案を紹介したい。権力を握っている状態とはどのような状態であるのかを自覚しておくことが重要なのだそうだ。その上で、

1.謙虚でいるよう努めること、
2.他者に視線を向け、寛容でいること、
3.他者に対し敬意を持って接すること、
4.無力だと感じている人々を助けること
が重要だとしている。

蛇足ながら、同性婚の問題について、首相をはじめ自民党議員や関係者らの昨今の発言を聞いていても、かれらがいかに当事者の視点で問題の所在を理解できていないかがわかる。これも権力を持つ立場であるかれらが、他者へのエンパシーに欠けていることの典型的な例だといえるのではないか。同性愛者が婚姻するための権利は、政治家が「認め」たり「与え」たりするものではなく、ましてや自身の考えや信条と異なっているからと「許可しない」ことを選べるものでもない。だれもが持っている当然の権利を保障するというだけのことだ。かれらは自分たちの傲慢さを自覚する必要がある。ケルトナーの提案に加えて、政治に携わる人々が自身のもつ権力に自覚的、批判的に向き合うためのシステム構築が必要だ。

参考記事:

https://www.zetland.dk/historie/s8DPyrMy-me6E9Dpl-a777a


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