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(掌編)それは彼女のもの

離れに住む「何か」に牛乳瓶を届ける役目を負わされた少年が、青年になった。家を出ていく彼が、離れに牛乳瓶を届けるのは、今朝で最後。

1800字位の掌編小説です。

「ドリサカ研究所」の企画により、宮本ゴーゴンさんに朗読していただきました。


 離れに牛乳瓶を持っていく。何も言わずに彼女は瓶を受け取る。

 いや、彼女なのかどうか実は知らない。彼なのかもしれない。そもそも、彼とか彼女とかそういった区別のあるものなのかも知らない。ただ、その人、人と呼んでいいのかも知らないが、その生きものは、多分、僕が持っていく牛乳を毎日飲んで、生きているのだ。

 それも推測なので、牛乳を飲んでいない可能性もある。飲む以外に何に使うのか想像は膨らまないが。牛乳の他に何かを飲食しているとも思えないので、毎日、牛乳1瓶を飲んで、それは生きている、と考えるのが妥当だと思う。

 いくつの時だろう。これは僕の一番古い記憶だ。近寄ってはならないと言われていた離れに、牛乳瓶を持っていくように言われた。庭と、我が家の所有地である森の裾との、境目辺りに離れの小屋はあった。古くてこじんまりとしているけれど、それでも何部屋かあるような大きさだった。
「行っちゃだめって言ってた」
「これからは行ってもいい」
 父から手渡された牛乳瓶を両手で持って、見慣れた瓶に描かれた、牛乳屋のマークを眺めていた。青色で描かれた牛の親子。
「牛乳を持って行って、渡すだけだ。それ以外のことはしてはいけない」
 不思議なことを言いだした父の顔を見る。いつもの笑顔ではなかった。何か重要なことを言いつけられているのだと、幼い僕にも感じ取れた。

 彼女、その人のように見える生きものは、僕には女性のように見えるため、彼女と呼ぶ、には、早朝に牛乳を持っていくことになっている。きっちりこの時間、と決められているわけではないと思う。一度、寝坊した僕が彼女に牛乳を届けないまま学校に行ってしまった時だ。学校から帰ってきた僕に、急いで牛乳を届けにいくようにと父が言った。持っていくのは僕でなくてはいけないらしい。
 慌てて離れに向かい、恐る恐る玄関の木の扉を叩いた。いつだって扉に鍵はかかっていない。でも彼女が外に出ているところを、僕は見たことがない。扉は横に少しだけ開き、隙間から白く細い腕が伸ばされた。
「あ、あの、遅くなって、ごめんな」
 さい、と言い切る前に、彼女の手が牛乳瓶を掴んだ。そしてさっと扉の向こうへ入った。何か聞こえるような気がした。彼女がしゃべっているのだろうか。でもなんて言っているのか言葉にすることができない。ぼんやりと頭の中に響くような、そんな曖昧な音だった。
「何か言った? あ! しゃべっちゃだめなんだった!」
 僕の言葉の後に、彼女から何かは聞こえてこなかった。白い手によって、ゆっくりと扉が閉められた。

 県外への大学進学を反対された僕は、仕方なく地元の大学に入学した。就職も県内にしなさいと言われていたが、僕は東京の企業への就職を内定させてしまった。親のみならず親戚たちからも驚くほど怒られたのだが、僕は譲らなかった。引っ越し先のアパートは契約済みだ。明日、引っ越し業者が来て、僕の荷物を運び出す。そして僕も上京する。

 朝は5時に目が覚めた。下に降りて、台所に入り、冷蔵庫から牛乳瓶を1本、取り出す。玄関を出て庭のほうへ周り、ゆっくり、離れへと歩く。
 この配達の仕事があるから、泊まりがけの旅行に出られなかったんだよな、僕は。修学旅行にすら行けないとは思わなかった。でも、別に僕は怒っていない。これは習慣なのだ。多分、しなかったら気持ちが悪くなると思う。
 離れの玄関の戸を叩く。彼女が近づいてくる気配がする。扉がわずかに開く。隙間から彼女の細い腕が伸びてくる。
「しゃべるのは二度目かな。これで僕からの配達は最後です。ごめんな」
 さい、と言い切る前に、彼女の手が僕の手首を掴んだ。細い腕からは信じられないくらいの、強い力があった。頭の中に音が広がっていく。彼女の声だ。なんと言っているのかはわからない。でも、怒っているわけではないような、そんな気がした。手首にさらにぎゅっと力がかかった。そう感じたのは一瞬だった。ふっと彼女の手が消えた。慌てて扉を大きく開いた。そこには何の姿もなかった。朝の光も差し込まない、薄暗い部屋が見えるだけだった。僕は右手に持ったままの牛乳瓶を見た。ずっと彼女に届けてきた牛乳。昔から変わらない、透明なガラス瓶に紙の蓋。
 蓋を外して、牛乳を口にした。音を立てて飲む。冷たさが喉を流れて、体内に落ちていく。牛乳は、彼女に届けるためのものだった。僕自身は一口も飲んだことがなかったのだと、その時、気が付いた。

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