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ところで、愛ってなんですか? [第3回]

デビュー歌集『夜にあやまってくれ』から現在にいたるまで一貫して「愛」を詠みつづけてきた歌人・鈴木晴香さんが、愛の悩みに対してさまざまな短歌を紹介します。月一回更新予定です。バックナンバーはこちら

暗闇に包まれていると、自分の躰がどこまであるのか、その輪郭がわからなくなる。どうしてもそれを確かめたくて、誰かを、何かを抱きしめたくなったりする。今はベッドに潜り込んだまま猫のぬいぐるみを抱いて、私と夜の位置を確かめていた。台風みたいに時々じゃない。夜は毎日訪れる。そのことを恐れているわけではなかった。ただ、かならず繰り返す夜の律儀さに打ちのめされて、その生真面目さにちょっと呆れてしまうのだ。いつだって気まぐれの愛や恋に、慣れっこになっていたから。
胸に抱いている猫のぬいぐるみ。耳を引っ張っても、目を触っても嫌がらない。この猫にプラスチックの黒い目を縫い付けた誰かが、いまこの星のどこかで小さな息をしている。細い糸で繋がっている誰か。名前も声も背の高さも知らないその誰かは、もちろん私を知らない。互いの存在の確かさと静けさ。愛はこんなふうに息を潜めて目覚めるのを待っているものかもしれない。目覚めないまま消えてしまう無数の愛の向こう側で。

今夜、BARを訪れたあのスーツの男。彼に「愛するのが怖いの?」って言っていたら、この夜はどんな夜になっていただろう。そのことをベッドの中で想像し続けた。想像と現実の境目は、もうどうでもいいというくらい曖昧になる。躰と夜との境界が溶け合うのと同じように。

愛するのが怖い。それはなにより、愛を受け入れてもらえないかもしれないという、どうしようもなく大きな不安だ。

花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった

吉川宏志『青蟬』(砂子屋書房)

今日こそは好きだと言おう。今日こそは。そう思いながら、思いを寄せる人と歩いた花水木の並木道。もしも、あの道があと少しでも長かったら、せっかくの決意が揺らいで先延ばしにしてしまっていたかもしれない。反対にあの並木道がもっと短かったら、勇気が出ないままで終わってしまっただろう。ためらいと勇気の天秤がちょうどぴったり釣り合ったあの長さだったから、告白することができたんだ。
世界はただそこに横たわっているだけではない。並木道が、いまだ、ここだ、と教えてくれる。そんなふうに、私たちが世界に触れるとき、私たちは世界に触れられているのだと思う。
愛を告げることはいつだって怖い。答えが「はい」だったとしても、やっぱり怖い。これまでのふたりの関係にはもう戻れなくなってしまうから。その未来を自分は受け止められるのだろうか。
それでも人類は、ずっと愛を告げてきた。それぞれの花水木の道で。

たとえ一度でも愛を失ったことがあれば、なおのこと愛することは怖いだろう。

心から愛を信じていたなんて思いだしても夢のようです

枡野浩一『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである
 枡野浩一全短歌集』(左右社)

愛は人を夢中にさせる。私とあなたの愛は永遠で、地球は愛の球体みたいだ。生まれ変わってもまた会おう。愛し合っているあいだ、交わされる言葉はすべて疑うべくもない真実だった。
それなのにどういうことだろう。ある日唐突に、愛は失われる。あのとき確かに形を持っていた愛は、そんなものははじめからなかったんだというように、すっからかんになっている。風がびゅうびゅう吹いて、冷たく頬を殴る。存在していないものを信じていたなんて、お前はどうかしちゃってたんだ。かつての愛を思い出している今、私は愛を知らなかったときよりもひとりぼっちだ。心の内側に「夢」を持ってしまった人間として。

愛することを怖いと思う理由には、もうひとつある。愛しすぎてしまうことへの恐怖だ。自分を見失ってしまうんじゃないか。自分で自分の感情を制御できなくなってしまうんじゃないか。そういう恐怖。

おそらくは自分が何をしているかわからないまま蔦は巻きつく

鈴木美紀子『風のアンダースタディ』(書肆侃侃房)

蔦は、ぐるぐると手を伸ばして、手当たり次第に絡まってゆく。絡まった相手の命を奪ってしまうくらいにぎゅうと締め上げながら、縦横に進んでゆく。再生速度を上げたときのあの勢い。蔦の動きは、自分でも何をしているのか、何に突き動かされているのかわからない、取り憑かれてしまったような狂気を孕んでいる。それでも止めることができない。
人はそこに自分自身を見出してしまうから、蔦から目が離せなくなってしまうのだろう。私の内側にも、そんな激しい情動があるのではないか。次の手を考えたり、駆け引きしたりする、そんな冷静な心ではない。自分でもわからないまま求め続け、絡みついたら離さない。そんなふうに誰かを愛してしまっていいものか。

マフラーやネクタイ贈れば気のせいか怯えた目をするあなたと思う 

鈴木美紀子『風のアンダースタディ』(書肆侃侃房)

あなたは私の中にある蔦を、いまはっきりと見ている。そうだ。塚本邦雄はこう詠っていた。「馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人恋はば人殺むるこころ」。人を愛するなら徹底的に愛さなければならない。でもそれは、狂気や恐怖と表裏一体なのだ。

怖いかどうかなんて考える余地もなく動き始める心もあるかもしれない。たとえばこんなふうに。

ああ恋をしなくちゃならない君もまたそう思ったろう、ふと抱き合って

山口文子『その言葉は減価償却されました』(角川学芸出版)

友達だと思っていた。同僚だと思ってた。そんな人とちょっとしたきっかけで、抱き合ってしまった。その瞬間にすべてを悟ってしまう。ああ、私はこの人を好きだったんだ。これからもっと好きになってしまう。君もそう思っていることもまた、同時にわかる。それまで無邪気にはしゃいでいたのに、急に無口になったから。抱きしめたその腕の力が思うより強かったから。しなくちゃならない、という言葉に含まれる義務の意味に、逃れようのなさや否応のなさが込められている。恋愛の楽しさだけじゃない、苦しさも面倒くささも一切合切引き受けでやろうじゃないか。抱きしめあっている二人の躰のあいだで、時計は動き始めてしまったのだ。手巻き式の時計には、外すべき電池がない。私たちはその動く様を見続けるしかない。怖いかどうかは、後回しだ。

***

気づかないうちに眠り込んでしまっていたらしい。随分時間が経ったみたいに思ったけど、本当はほんの短い間の夢だったのかもしれない。
愛も、夜も、怖い。
どこまでも深く、周りがほとんど見えないから。みんながやけに楽しそうで、みんながやけに苦しそうだから。
それならば、ちゃんと愛を怖がればいい。
怖くないよ、なんて嘘っぱちの慰めはいらない。飛び込んでみればいい、なんて無責任な後押しもいらない。
どうして自分がこんなに怖がっているのか、それだけをちゃんと見ていればいい。夜でなければ見えないものがある。朝はすぐに来てしまう。確かにそこにあるはずの月が、見えなくなってしまう朝が。

「愛することが怖いの?」
あの時そう言っていたら、私はきっと、こう続けた。

「わたしだって、怖いよ」

鈴木晴香(すずき・はるか)
1982年東京都生まれ。歌人。慶應義塾大学文学部卒業。2011年、雑誌「ダ・ヴィンチ」『短歌ください』への投稿をきっかけに作歌を始める。歌集『夜にあやまってくれ』(書肆侃侃房)、『心がめあて』(左右社)、木下龍也との共著『荻窪メリーゴーランド』(太田出版)。2019年パリ短歌イベント短歌賞にて在フランス日本国大使館賞受賞。塔短歌会編集委員。京都大学芸術と科学リエゾンライトユニット、『西瓜』同人。現代歌人集会理事。


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