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2022年夏 所感|試論:死の回避

もしいま自分が死んだとして、葬式で使われる遺影はどの写真になるのだろうか。そもそも葬式は行われるのだろうか。

あの真夏の重厚な入道雲を突き抜けた先の、おそらく真っ青であろう無音の空間で引き金を引かれた銃は、太陽に向かって、どんな音を出すのだろうか。

自分に子供ができたとして、そしてその子にひらがなのルールを教えたとして、彼/彼女が「ば」を「ba」と発音することに難色を示した時、それがどんなに嬉しいことだろうか。



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僕は死ぬことが途轍もなく怖い。急に何を幼稚なことを、と思うかもしれないが、至って本気だ。「死」こそが際限のない恐ろしさを孕んだものだと大真面目に思う。

僕にとって死ぬこととは、別に身体を失うことではない。もちろん生きている以上、その物理的、あるいは医学的な死にも多少は怯えているわけだけれども、そんなものは僕にとって死ではない。誰しもが身体と魂の離別を経験するという事実を受け入れるくらいには、僕は大人だ。たぶん。

ではもっと本質的な死、つまり「他者に忘却されること」についてはどうだろう。ディズニーの『リメンバー・ミー』でもそうであったように、人にとっての本当の死は、身体の有無には左右されず、他者に委ねられる。

自分の人生の意味なんてものは、多面的で、むしろ他者の中にこそ存在するのだと思う。自分から見た自分の人生すら、結局は外部から認識された一つの仮象にすぎない。生涯が持った意味など死んでみないと分からないし、死んでしまったらもっと分からない。

だからこそ僕らは葬式を行うのかもしれない。身体的な死を経てもなお、他者に忘却されない限りはその存在を奪われないのだということを、僕達はあの儀式を通して、死者のためではなくむしろ残された者同士で確認し合い、信じる。祈り、また日常に戻っていく。それが葬式という文化が持つ、本質的な意味なのではないか。少なくとも今までの僕の目にはそう映っていた。

ところがこの夏、弔いを重ねることも結局、死を回避することにおいて有効性を持ち得ないではないかと思った。生きている人間Aに思い出されたBという死者が、主体的に誰かを思い出すことはない。Cという人間に関する記憶を、仮にBが死ぬまで保持し続けたとしても、Cはもう思い出されることはなく、絶対的な死を迎えることになる。

もっと諦観した見方を示すのであれば、僕らが期待できるほど、人の記憶など信頼できない。間違える。人は簡単に忘れる。であれば僕らは簡単に死ぬ。呆気ないほど単純だ。

とするならば、別の手段で死を回避しなければならない。つまり世界のルールを変えるという手段によって──────


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僕らは産み落とされた以上、この世界のルールに従って生きなくてはならない。ルールとはなにも、日常的な使われ方をする語としての次元のルールを言っているのではない。そうではなくて、僕らはもっと根源的な、言語のような所与の文化に規定されていると言いたいのだ。そして社会はそれを通じて、ソリッドな人間関係のネットワークを、一つの構造の中に閉じ込めようとする。

けれども構造、つまりルールは、あくまで僕らの側が要請して生み出されたものに過ぎない。それにも関わらず僕には、そのルールの中で「うまく生きようとする人」があまりにも多いように感じる。そしてあえて嫌悪感を包み隠さずに表現するなら、反吐が出る。そんな生き方は、中途半端に賢いだけだ。USBや数本のコードを差し込めば、サルにだってできる。

何もかも左脳で、論理で処理して生きることが正解だと信じてやまないひろゆき信者、エントリーシートの作成に精を出して意識高い系ぶっている学生、投資だ何だと言って、効率よく蓄えを増やすことに喜びを覚える大人たち。。。

いつから「うまく生きる」ことに快感を覚え、「まともに生きる」ことを諦めてしまったのだろうか。大人は僕に、「大学1年生の君なんかにはまだ分からないよ」と言って苦笑するだろうか。なら僕は、徹底的に彼らを嘲笑う。


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どういうことか。

僕は先に、世界のルールを変えることによって死を回避することができると書いた。それについてもう少し噛み砕いて説明しよう。

人の記憶に頼って自己の存在を残そうとする試みが、不安定で持続性を持たないことはすでに示した。だから僕は、次に死後を託すものを、個人そのものではなく、社会の側に見てとろうとする。

社会は死なない。人間がいなくなっても人類が存在する以上、社会は継続する。そして社会はルールを保持する。

そうであれば、その社会のルールを改変すること、そしてその改変を抱えたまま社会が進行し続けること、ここに僕の死を間接的に回避する手立てが潜んでいるのではないだろうか。賭けてみる価値はあると思う。

僕が生まれ、生きたことによって社会に、この単一の世界線に少しでもねじれを引き起こすことができたのなら、まだ有効性は残っている。しかもそれは僕の死後にも起きうるという点で、先のものより遥かに大きな射程を持った企てであることも付け足しておく。

自分、あるいは自分が関わった人間によって少しでも社会のルールに逸脱をもたらすことができたとき、この世界の一部に穴が開き、破壊され、機能不全が起こる。

このほつれを孕んだ社会が死後も進行するという確信を持つことができたなら、僕は僕の存在の蒸発を案じることはない。今夏、葬式が持つ意味は少し変わった。

他者に忘却されることがないことを確かめているのではない。それよりももっと根底の部分、自分の死後も世界が進行するという事実(だと思いたいもの)を、僕達は肩を寄せ合って確認しているのではないだろうか。いわば進行に対する信仰を。


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僕がルールから逸脱しないことを徳とするような生き方に抵抗を示す理由は、まさにここにある。

もうお分かりかと思うが、彼らはルールを変えようとしない。僕にとってそれは、死の回避を放棄したことを意味する。

彼らが宗教や形而上学的な物語の付与によって死を免れる方法を持ち合わせているのだとしたら、結局のところ、僕も彼らも「祈り」という行為に帰着する点において相違はない。しかしいったい彼らのうちどれほどの人が、自己の生に本気で向き合っているだろう。


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ルールから逸脱すると言っても、それは社会に徹底的に歯向かうことを意味しない。もとより闇雲に犯罪を犯すことなどを意味しない。そんなことをすれば、僕の、文字通りの透明な命綱は断ち切られる。むしろルールを少しずつ改変し、編み続ける社会にこそ、僕は一縷の望みを託しているのだから。

一人で生まれて一人で死んでいくその間、僕らは他者と繋がり、託す。人に夢を見る。だから人は、歴史の大きな波から見れば極小の、この刹那的な行為に「儚さ」を読み取るのかもしれない。


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ところで先ほどから社会、社会と言っているが、それはもちろん「資本主義的な」社会に他ならない。この「資本主義的」社会が、しかし厄介だ。

僕らがこの社会に抵抗するとき、この巨大な虚構の存在者は、その抵抗運動すらも飲み込んでしまうような力を持つ。浅田彰によって日本に輸入された、ドゥルーズの「リゾーム」的なるものの代表例としてSNSが挙げられるけれど、あれも結局は一時的にノマド的なふらつきをもたらしたものの、最終的には相互監視社会をもたらしたではないか。あるいはSDGsは、行き過ぎた資本の暴走に立ち向かったように見えたけれども、すぐにやつらのファッションに成り下がり、いまや消費社会の免罪符にまで落ちぶれた。

記号的社会と言い換えてもいいかもしれない。ブランドもののバッグに代表されるような、誰かが作り上げた欲望を満たすために振る舞う社会。

生産する側の視点も同じだ。先に挙げた就活生は、それまでの人生で力を入れてきたことを面接官に評価され、採用されたと思うかもしれない。でも彼らを待っているのは、「結局は誰かしらがやることになっていた仕事」だ。極めて匿名的で流動的で、代替可能な社会。


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ただ僕らは現状、この社会で生きていく以外に方法はない。だとすればこのシステムの逆手を取ろう。

記号的なるものの極地、固有名へ。他に同一の記号を持ち得ない記号を持つことで、逆説的に、匿名的な社会の中で記名性を奪還できるのではないだろうか。浅はかだろうか。いまの僕の中にある粗雑な構想はこの域を出で得ないけれど、方向性としてはそんなところだと思っている。

僕が僕であることによって飯を食いたい。父親が自営業者だからこんな思いが強いのだろうか。真偽の程は分からない。いずれにせよ僕は、うまく生きようなんて気はさらさらない。まともに生きれば、もっと言ってしまえば、まともに生きたと自分が思えれば、それでいいのだ。


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社会に飼い慣らされるな。ルールに従うな。第一に、原理的にそんなことは不可能なはずだ。質を剥奪し、量のみで世界を記述しようとする中で、効率よく振る舞うことなど人間には出来得ない。人はミスを犯す。間違いを犯す可能性を否定し得ない以上、ルールの中で完璧に戦うことなどはなから無理なのだ。


怒れ。このゲームの支配者に。

叫べ。瞬間的な逸脱を勝ち取るために。

そして祈れ。死なないために。


金欠学生です 生活費に当てさせて頂きます お慈悲を🙏