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昔見た一本の映画の記憶が戦争のニュースのたびに私の夢に取り憑いてくること

ずいぶん以前にもnoteで紹介した、アンドレイ・タルコフスキー監督の『サクリファイス』のことをまた思い出しています。

なんてこった、前回、私がこの映画のことをnoteに書いたのはウクライナ戦争が始まった時でしたね。そして今は、、、あ、いや、今日は映画の話だけをしましょう。

ご存知ない方のために、どんな映画かを簡単に述べると、

・スウェーデンの田舎で初老の男が家族とのんびり暮らしている

・そこへ「核戦争が始まった」というラジオのニュースが流れる

・家族が絶望に打ちひしがれる中、初老の男は「核戦争が起こる前に時間を戻してください。そして戦争を止めてください。そうしてくれるなら私は私自身の人生を犠牲にしましょう」と祈る

・すると、気がつくと、核戦争が起きる前の時間に戻っている。あれは夢だったのか?

・だが男は「私は約束したのだから」と家や車に火をつけて自分の財産をすべて破壊し、愛していた家族からも「お父さんは気が狂ったんだ」と恐れ慄かれ、精神病院に連れて行かれて、おしまい

↑あらすじを整理すればこうなりますが、なにせ、極端にセリフも少なく、情報も少なく、すべてが象徴的にのみ語られているので、はっきりとした筋立ては、実は、よくわからない

上記のあらすじも、「私、ヤシロには、そういうストーリーに見えた」というだけです。

そのうえ、タルコフスキー師の持ち味といえば持ち味なのですが、ありえないほどにテンポが遅いし。家の中で男が何も言わずにじーっと座っているところを長々と映しているだけ、というシーンもばんばん入る。もちろん、映画好きな人(特に自分で撮影するほうに興味ある人)はこの贅沢なまでの長回しは絶大インパクトなのですが、残念ながら現代の映像コンテンツのスピード感に慣れている人には耐えられないのではないでしょうか?

※まあそもそも、タルコフスキーの映画は、「今日は重い映画を観るぞ」と気合いを入れた紳士淑女の観客達が、映画館に集まってじっくり観ることを想定しているので、家のテレビやましてやスマホで見てる人の鑑賞方法が合ってないだけではありますが、、、そうは言っても現代の主流の映画鑑賞スタイルにはもう合っていない点は痛恨である

何を隠そう、私とて、さすがに途中で「早送りしたいな、、、」と感じたパートがあったことは告白しておきます。

でも、他のタルコフスキー映画についても、起こる現象なのですが、

このスローモーな映画を頑張って最後まで見ると、

その後、一生レベルで、映画の印象的なシーンが頭にこびりついて、離れなくなります。あるときには、夢の中に、タルコフスキー映画で見たような風景(木と、土と、そして鏡のような水たまりが広がっている、あの感じ!)が出てきてしまうくらいに。

そして、ことさら『サクリファイス』に関しては、私の場合、世界の戦争のニュースにうなされた後に、強烈にあの映画のことが思い出される傾向がある、と言っておきましょう。

自分自身が金も家も、愛する家族も捨てて不幸になることで世界を救う、しかも誰からも賞賛されない方法で、などというのは、キリスト教的といえば、そういえるかもしれません。

ですが私は、この『サクリファイス』には、「◯◯教」と名のつくような宗教を越えた、率直な祈り、というものを感じて、感銘を受けたし、

信仰というものは、その名のもとに人の殺したり傷つけたりするものではなく、この映画に描かれているみたいに超絶に個人的で孤独なものではなかろうか、とも思うのでした。

、、、↑というのは、今日時点で『サクリファイス』を思い出したときに、私が考えたことであって、数年後にこの映画のことを思い出したときには、また、新しい見方が自分の中に生まれているかもしれません。観てしまってから、何年か後に思い出し、そのまた何年か後にまた思い出しては、そのつど、新しい見方が生まれている。そういう映画も、世界には、あるのです。

そしてこんな記事を書いてしまった以上、きっと今宵も私の夢の中に、木と、土と、そして鏡のような水たまりが広がっている、あの感じ、が出てきてしまうことは必定かな、と。


子供の時の私を夜な夜な悩ませてくれた、、、しかし、今は大事な「自分の精神世界の仲間達」となった、夢日記の登場キャラクター達と一緒に、日々、文章の腕、イラストの腕を磨いていきます!ちょっと特異な気質を持ってるらしい私の人生経験が、誰かの人生の励みや参考になれば嬉しいです!