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「答え」より「問題」が大切

「1+1=2」
この数式は、聞かれたら、すぐに答えることができるだろう。ここでは「2」以外のトンチや例外はなく、単なる「四則演算」としての答えと限定しておく。
世の中には、どうも「答え」を出したがる人が多いようだ。でも、そんな世界は、「見えている」世界だけで、最先端や最前線では、ずっと「答え」がでないまま、立ち向かっているのが現実である。

1、社会は「答え」だけでできていない

義務教育において、算数の時間にドリル学習をしたことがあるだろう。漢字ドリルで、問題を解いたことがあるだろう。その時大切なのは「聞かれたら、答える」というもの。

問題が決まったら、答えは必然的に導かれる世界。だから1+1だって、2という答えが出てくるのであり、「たいよう」と聞かれたら「太陽」という漢字が出てくる。問題と答えが一意に紐づくものが出題される。

これは、「問題」を通して「答え」を出すというプロセスがあることを学ぶために設定されたものであり、必ずしも社会や最難関の課題に立ち向かうときには、そんなスムーズに答えは出ない。

例えば、「今年のさんま漁は、全然獲れない」というのは「答え」であって、何が「問題」かはわかっていない。さらには、社会は一つの「答え」に対して、複数の問題が複雑に絡まっており、「景気が悪化する」という答えには、雇用や投資や金利や為替など様々な問題が影響しあって起こるものである。

だから、社会の中では、「答え」が出ているけれど、「問題」がわからないことばかりなのだ。

2、「問題」を設定することが最も難しい

では、社会の中で、最も難しいことはなにか。それは「問題」がなにか設定することである。言語化することである。あるいは定義することである。

なにか世の中を渦巻いている不安や孤独、あるいは「地球温暖化」のようななにかが起きているけれど、それがなんの問題かさえよくわかっていないようなもの。

ここに、様々な事象や事実、あるいはデータや数字を積み上げた上で「何が問題か」ということを設定できること。それが、学問的にも最高峰であり、専門家としても最先端に向き合っている人達が成し遂げる仕事である。

いくつかの現象を都合よくピックアップしたり、自分たちが賛同できるものだけを並べて、あたかも「法則や原理」を勝手につくったり、もしくは「メソッドや手法」とするのは、学問への冒涜と言っても過言ではない。

分野には、それぞれ過去の知の蓄積があり、それらが得てきた知恵があり、そしてその先にまた新たな問題が現れる。だからこそ、幅広く、そして失敗成功限らず、これまでの先駆者の行ってきた功績や結果を知るべきであり、それなりの時間と労力が求められることによって、意見や考え方の真実や裏付けが得られるものである。

だから、社会人になって、中学生の自由研究のように、テーマと課題を簡単にかいつまんだぐらいで、社会に何かを問いかけることは、自らの浅はかな知を露呈し、議論さえ成立することが難しいだろう。

そして、最後には、ファシズムと揶揄して、自分自身の地位を保持することしかできなくなる。

「独裁や強制という言葉は、強く辛抱する信念や共同体の中にいる人ほど発するものである。」

3,「分かりあえない」という人が一番わかりあおうとしない

幾度となく現れる宗教法人や新興宗教、あるいは共産主義的国家では、同じことが繰り返される。そして集団で陶酔する。扇動されていることさえ無自覚になる。そして、外部を分断し、内向きの同一性、同質性、求心性を強く求める。

その時の風や流れに身を任せ、渦中の中で、判断することを放棄する。生きることがとても楽になる。安らかになる。何かを達観したようになる。これは、いつの時代も変わらない。歴史は繰り返してきたもの。

そうならぬために、科学という普遍的な価値観と客観性によって、「再現可能な」尺度を設けたのが、私達人類にとっての知恵であり、異なる立場や考えをも「つなぐ」ことのできるプラットフォームではなかったのか。

科学を否定するものは、宗教に走る。なぜなら、そこには、科学を超えた「真理」があるから。でも、その真理とは、科学の上に立脚しているのに、そのことには目を背ける。

インテリが馬脚を現すのは、まさにここである。


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