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ACT.95『歌に沿る序章』

雨天の中を

 外は降り頻る雨の中であった。
 そうした中で、我が家を準備した荷物を確認し、JRは太秦駅に向かう為に我が家を発つ。既に妹は新年度を迎える寸前に上京し、我が家には自分1人が母と暮らしているから少し切ない時間が流れる。
「あんた、傘。折角やし要らんかったら置いてきぃな。」
母の気遣いを受けて京都を後にする。
「行ってくるわ!!」
陽も上がらず、雨で冷えた道を。水たまりのできたアスファルトを駅に向かって。車通りのある三条通へ向かって歩き出した。
 嵐電北野線との並走。
 しかし北野線は列車が全て終了した状態になっており、まだまだJRと交差する撮影所前の駅周辺は真っ暗だった。
 坂を上って、山陰本線を跨ぐ踏切を行く。
 駅に到着した。
 列車はまだ来ない。
 太秦駅の待合室、多くの乗客が待ち受けている。その中で傘を畳んで水気を切り、乗車前の準備を整えた。
 青春18きっぷの居所を確認する。あった。
 これまではずっとインターホンに頼っていたが、インターホンの待機時間を憂鬱に思ってしまい今回は入場券を買って一旦入場する事に決めた。後は青春18をかざして自分がこの切符で電車に乗車している事を申告すれば良い。
 そうした中で、金曜とはいえ平日真っ只中の太秦駅を改札に入る。
 既に始発だというのに、駅構内は少しまばらに人が居る。
 接近放送が鳴動し、白い角度を付けた山陰本線京都口の主役、221系が鈍く重い音を立てて入線してきた。
 しかしその前、少し重みのある片山氏の男声放送。
「まもなく、2番乗り場に。京都ゆきの列車が…」
の放送こそが本格的に自分を遠くへ誘うテープカットのような時間のように感じる。
 平日の早朝という事で、車内は通勤・通学の乗客で座席は窓側が大半埋まっている状態だ。太秦でこの状態…の始発電車は園部を4時台に発車している。多くの乗客で座席が埋まるのも無理はない話だ。
 背負っている荷物、提げている荷物を少し窮屈に座席の下に収めて腕を枕代わりにしている男性乗客の横に腰掛ける。
 電車が動いた。
 クゥゥゥンっ…と引くような重たさを感じる221系の加速。既にアラサー以上となったこの電車の加速は、現代の電車と比較すると少しまた重たさを感じてしまうものだ。
「なんか変だなぁ…そういや改正前はこの始発、223系だったのに逆戻りか?」
変なヵ所に気がついた。改正前と比較して車両が劣化しているなんて想像もしない。
 とはいえ。更新と延命はしている電車だけど。

※写真は2年前の過去写真を代用。313系による豊橋行きは米原からの乗車なので着席は100%確保できる。(改札外で過ごすなどは別にして)

東海道征く

 まだ早朝でもあるのに、京都駅は工事中の中盛り上がりを見せていた。
 遠方への通勤客と思しき人に混ざり、乗り継ぎまで短い中を早足で階段登って移動する。
 そして5時48分発。米原行きの普通電車に乗車した。乗車した車両は225系電車…という事で車内LCDを着席しながら見る形になったが、しかし眠っていない分の眠気を解放し、この先の体力と耐久に備えそのまま眠ってしまった。
 乗車中に、分岐器を移動する音や少しづつ唸り逢坂山トンネルに向かうサウンドを耳にしつつ、車掌の声で眠りについた。
 そして米原に到着。
 気がついた時には米原の風洞実験センター付近であった。3台の試験新幹線が出迎えてくれる。
 米原に到着後は、JR東海の管轄区へと入る。
 乗車するのは、313系電車。JR東海在来線の標準形式として平成11年に誕生して以来多くの人々を東海圏で支える車両だ。自分と同世代の電車が今なお主役を張っているのは嬉しい事である。
 この先313系電車には、今回の旅の大半までである甲府まで世話になる事に。かつてはこの米原での乗り換えに、バブル期というのかJR東海近代化の象徴として投入されたバリバリの近郊形電車である311系が投入されていたのだが、313系になって久しくなる。
 として、この電車も頭をピヨピヨと気絶の輪っかのように回転する睡魔の影響で撮影しておらず。
 乗車した車両は313系の0番台。少し年季を感じるような車内が特徴的だが、エースとしての風格は衰えない。
 そのまま着席し、再び眠りに入る。そのまま豊橋…付近まで熟睡し、隣の席に乗客が入る以外は目を覚ます事もなく快適に移動した。
 しばらくして、豊橋に到着する。
 この豊橋で入鋏し、本格的な青春18きっぷの旅を開始する。東海道はここからだ。

静岡手前に

 いつの時代の鉄道旅でも、この駅から先は少し不安になるものだ。
 駿州、遠州として語られる静岡県への序章がここから始まり、青春18きっぷでの旅路はまさにこの場所で静岡を感じる。
 この駅から浜松行きに乗り換えると、
「あぁ、静岡に行くのだな」
と感じるのは自分だけではないはずだ。
 さて、ここでようやくの記念撮影。
 豊橋を舞台にした作品…ライトノベルのようで、通称・マケインと呼ばれる作品だ。
 JR東海では『推し旅』キャンペーンとして豊橋でこの作品を盛り上げており、豊橋市内で多くのイベントを開催している。
 葛西氏がJR東海を退いてから…とよく言うが、JR東海の最近のアニメタイアップ、推し旅のブランド強化は非常に強く刺さる。
 昔ほどのファンではないので、最近の感想として
「同じようにしか…見えんなぁ」
という気持ちになるが、この作品。イラストのテイストが
「本屋で眺めたリコリコの帯に似ているなぁ」
と思ったら、どうやら同じイラストレーターの作画のようだ。そりゃあそうか。
 いみぎむる氏のイラストからは、手書きの安心感を感じるので非常に暖かい。
 ちなみにこの『マケイン』は令和6年にアニメ化が決定している。

 二川を発車し、列車は新所原に差し掛かった。
 東海道本線を神戸方から数えるとこの駅が初の静岡県の駅である。
 偶々、掛川方面に戻ろうとする天竜浜名湖鉄道の車両が待機していた。国鉄時代の負債ローカル線、二俣線を第三セクターに転換した路線であり、現在は地域に貢献する非電化路線として静岡県に貢献している。
 写真の車両・TH2100形に関しては後継車両への置換えが計画されており、この車両に出迎えられて静岡に入る経験もあと何回となるだろうか。
 かつて、蒸気機関車に国鉄時代のキハたちが走行していた路線は、新潟トランシスからの気動車が走行する近代的な路線に変化した。
 そのまま、東海道を浜松に向かってゆく。
 列車は朝の通勤時間帯がひと段落したのか、少しの空席が残る程度の状態で東海道を上っていく。

 静岡は長い。
 新所原なんてまだまだ序の口で、東海道は静岡を貫くようにして直線に続いている。
 列車は浜名湖の上を走行している。
 東海道線、豊橋〜浜松ではこの車窓がお気に入りであり、どれだけ疲労に困憊していても。朝の気怠い時でも必ずこの車窓に関しては眺めてしまう。
 この浜名湖の橋の上は、西浜松へ役目を終えたJR東海の退役車両を廃車回送する際。また、在来線の浜松工場に車両を入場させる…
 ないしは東海道を走る名列車や花形列車たちの走行の際には多くの鉄道ファンで賑わう有名な橋だ。
 自分は幼少期からこの橋を渡る数々の列車を鉄道誌で見ており、そのページを捲って育ってきた。
 この橋はそんな自分を支えた幼少期よりも昔の話。
 明治期に鉄道の旅を新橋から神戸まで歌った鉄道唱歌の中でも
『煙を水に横たえて 渡る浜名の橋の上』
『たもと涼しく吹く風に 夏も残らずなりにけり』
と歌われている非常に有名な場所だ。
 明治の時から、鉄道の旅の中で乗客に旅人を魅了したその車窓は、現代の人々も変わらず愛する場所である。
 新居町〜弁天島でこの橋を渡っていくのだが、その先にも舞坂・高塚と駅が続く。
 この区間では新幹線とも並走し、さながらのデッドヒートも車窓の見ものだ。

ゲートを行くように

 浜松に到着した。
 この駅で最初の下車印を頂くべく、改札を出札して外に向かう。
 写真は、駅構内にあるガチャガチャスペース。
 自分の中で少しだけ気持ちが揺らいだのだが、その先があるという事でここでは留まった。JR東海の主要な駅ではこうしたスペースが増え、そしてその場所には関西であまり確認しない掘り出し物が混ざっている印象を受ける。

 浜松といえば。毎回この看板を眺めて、来るJR東海と日本中を近代化させる国家的なプロジェクトの推察を拡げているところだ。
 リニアが開業すると、将来的には静岡の経済が東海道新幹線の拡充によって各駅系の『こだま』・準優等の『ひかり』増加に繋がって地域の活性化に繋がりますというもの。
 そしてその中には当然、リニアに最も大きく課せられた使命である都市間の移動時間短縮も記されている。
 何かこうしてこのプロジェクトの行き先を見ていると、何処か未来の扉の隙間を見ているようで。
 そして何処か自分が大きなものに立ち会えるようで。毎回気分が上がる。
 ちなみに。
 この時は偶然にもJR東海が辞職を表明し追い込まれている知事が原因だろうか令和9年のリニア新幹線開通の断念を発表した日であり、奇しくもSNS投稿と同時にその発表に接した。
 そしてあの退陣に追われる姿を知り、京都に戻って本格的な顛末を知る事になった。
 なんという偶然だったのだろうか…
 こうもタイムリーになるとは。
 『静岡県』という巨大な敷地のゲートを潜るような浜松駅で、少しだけ食料などの物色をする。しかし、その先の事情を考えてこの場では飛ばした。
 胃の中に入れるには早いだろうか。

天国からの墜落

 浜松から乗車して、ここから先は富士に向かう。富士まで向かえば、身延線に乗車して甲府まで…となるのだが、ここが本当に鬼門だ。
 快速列車に相当する列車は日中走行していない、また列車の両数を超えての乗客が青春期間中は乗車…とここから熱海までは相当に苦心を強いられる。
 雨の降り頻る浜松。
 多くの乗客が待ち構える中、悲報が告げられる。
 降り頻る雨…雨量が列車の安全な運行に支障をきたしているようで、列車に10分程度の遅延が発生、また規制によって通過できない区間が存在しているという。
 そうした中で、地元客と青春18の横断客に混ざって列車を待機する。果たしてこの列車は無事に熱海まで行けるのだろうか?乗らないけど
 そして、合成音声がようやく熱海行きの到着を告げた。
 やってきたのは…少しだけ変わった車両だ。
 自分でもこの車両が入線してきた時、我が目を疑った。
 何かスズメバチのような顔をしている電車である。

 やって来たのは、313系8000番台。
 かつては中央本線で活躍し、登場時からしばらくは着席制の快速列車『セントラルライナー』にも充当されていた。
 セントラル廃止後もそのまま中央線で中津川から名古屋までの間を『当たり車両』として活躍し、料金不要で乗車できる乗り得な列車として活躍したが中央本線に新型電車である315系が投入され異動、転属。そのまま次に配置されたのは『静岡』となり、『トイレなし・通勤型主体』であった静岡のJR車両事情を大きく変貌させた革命の車両だ。
 この車両が転属した際。静岡に異動が決まったと知った時の鉄道ファン・青春18リピーターは大いに歓喜したが言わせてくれ。
『今来るべきではない。』
なぜかというと…

 とにかく『人を収容する事』に向いていない車両なのである。
 先程も記したように、この313系8000番台は『着席制の快速列車』としての使用を前提に開発され、投入されたもの。
 そうした中で、大勢の乗客を乗せて走る通勤輸送・多客輸送に対して『絶対的に不利』な車両なのである。
 今回の移動は車両を見た瞬間、通常なら
「仏様がやってきた…!」
かのように冴え渡る歓喜の時間なのだが、あまりにも混雑が酷く立っての乗車となった。
 そして長い長い静岡県の移動だ。本当に寝起きの体には響き、途中は何回かスクワットするように屈んだり動いたり、とにかく落ち着けなかった。
 写真は乗客の映らないようにどうにか混雑の車内を撮影したものだが、実際の車内はもっと酷い。
 この中に静岡県内を利用する旅客もあるのだから筆舌に尽くしがたい状態となる。
 浜松を発車後、多くの着席乗客はそのまま熱海など主要な駅まで着席したままなので乗客の回転がない。
 これがあまりにもキツかった。
 乗客はデッキに押しつぶされ、身動きも取れない量になっていく。
 少しだけの遅延を拾って列車は進む。
 そうした中、かつては着席制の快速として活躍した313系8000番台…JR東海至福の通勤電車の座席に着席出来たのは富士も少し近くなった新幹線乗り換え駅の『静岡』であった。
 ここでようやく、地元の利用者の流れが動き出し座席の乗客が入れ替わる。
 しかし、着席できたとしても残りの時間は極度の少なさ。
 また次引けるのはいつになるものだろうか。

※混雑している車内の中では、思うような川の写真も撮影できなかった。なので代用に同じ『川』の写真を過去の記録から…

源平合戦の名残に

 東海道本線での乗車も、いよいよ佳境に入る。
 浜松から1時間以上乗車してきた今回の東海道本線の身延線乗り換えの駅、『富士』はかつて歴史的な戦いの名場面を我が国の歴史に残した場所である。
 鉄道唱歌・東海道編の中にこのような歌が残されている。
『鳥の羽音に驚きし 平家の話は昔にて』
『今は汽車行く富士川を 下るは身延の帰り船』
富士周辺を歌った歌詞である。
 鉄道唱歌・東海道編では静岡県が関東寄りの沼津に静岡・掛川・舞坂・浜松・島田…と多くの土地が歌になっており、さながら昔の旅人もこの地域の横断には苦労した、時間の長さを感じたといったところだろうか。
 …ま、各歌詞の解説はその土地の訪問の時までの楽しみにしておいて。
 この歌詞。
『鳥の羽音に〜』
以降を見てみる事にしよう。
 この歌詞で歌われているのは、平安時代後期にまで遡る出来事だ。
 治承4年の秋。駿河の国(現在の静岡県)は富士川で源氏と平氏の戦いが起きた。
 源頼朝・武田信義と平維盛がこの戦いで火花を散らし、富士川で相見えたのである。
 この以前、両軍の衝突には『石橋山の戦い』というものがあるのだが、その話に関しては詳細を割愛して記していく事にする。

※最早戦意を完全に喪失してしまった平家軍には冷静な判断など出来ない。水鳥の羽音を『源氏の挟み撃ち』と勘違いした平家軍は、そのまま逃走してしまう。

 平氏は源氏に対抗する為、軍を東軍へと進軍させていく。
 しかし、貴族生活にすっかり慣れきった平維盛は十分な戦力の準備が整わず士気も非常に低かった。加えて、そうした戦力の整備を怠った中で平維盛の軍に支えた兵は脱走し、兵力は数万あった戦力は減少。数千まで減ったという。
 戦意をそうした状況から完全に喪失してしまった平家軍。その時には小さな農民の灯りを源氏軍と勘違いするなど、平家軍の判断は鈍っていたのだった。
 そうして、この戦いで決定的な出来事が発生する。
 陣を構えた後方。水鳥が羽ばたく音を、平家軍は
『源氏の挟み撃ち攻め』
と勘違いし、一斉に平家軍は逃走してしまった。
 こうして源氏は一気に勝利を手繰り寄せ、『戦う事なく』して平家に勝利を収めたのである。
 これが、明治期に鉄道の旅を歌にした『鉄道唱歌』の中でも語られており、富士川を象徴する1つの出来事として現在も受け継がれているのだ。

 さて。話は現在の旅路に戻って。
 富士に到着した。
 今朝…昨夜だったろうか。長く降り続いた雨は、留まらない。東海道本線の他、身延線にもその影響は大きく響いており写真のように。西富士宮より先は完全に危機的な状況に追い込まれていた。
 甲府系統と富士系統で分離した運用でまかなわれており、かつ身延線の屋台骨的な列車として静岡の都市圏と甲府を繋ぐ特急列車『ふじかわ』も今日は雨量規制を受けた分は全て運休のようであった。
 圧倒的な青春18シーズンの大混雑から解放されても、この画面を見てしまってはどうにも出来ない。
 荷物を携え、画面を見て首を捻ってしまうばかりだ。
 そのまま改札を出て、なんとか運賃表と向き合い考えを思索する。
「これは西富士宮まで行って、その先戻って熱海経由のが良いか…?」
まだまだ不安は除けない。

障壁

 東海道本線・身延線は全体的に雨量規制で大きな足枷を強いられている状態であった。
 列車は動けど、走行している区間の状況によって臨機応変に対応しているといった状況だった。
 これでは先ゆきもわからず、足踏みをして待つしかない。案内を眺め、その先の運行状況を見ていると駅構内の放送が流れた。
 東海道本線の見合わせ区間の再開
 に関する案内放送であった。ようやく先の見通しが付きそうである。
 少なくとも、これだ八王子経由の甲府ルートは見通しが付いた事になる。しかし肝心の身延線に関しては行ってみないと分からない状況だ。身延線ホームに向かい、通常通りに列車を待機する。

 昼食は駅構内の『立ち食いそば』で済ます事にした。
 現代の鉄道において、ここまで渋い格好のお店が営業しているというのは中々に珍しい事のように思える。
 店を訪問して驚いた。
 昨今の人不足なのか、会社の業績の影響なのか…ではあったが、店の営業時間は10時〜14時までの営業であった。
「おぉ、珍しそうだしここで行っちゃお!!」
即決?というわけではないが、富士駅周辺の食事に思念している中では嬉しい誤算であった。

 お蕎麦、着弾。
 商品名をコールしてかなり早い段階で着丼し、鉄道と関わり続けてきた店の『ならでは?』といった早さを感じた。
 駅そばは日本の鉄道と共に成長したファストフードであり、手軽に胃に収まる事から昭和の国鉄全盛期には多くの主要駅に鎮座していたものだった。
 最近は食券制になるなど、時代に併せて進化を遂げているが国鉄時代を彷彿させる、商品名をコールして料金を払うスタイルはいつまでも残って欲しい伝統である。
 実際に食してみると、細麺の喉越し良いそばだった。変に粉っぽくなく、蕎麦らしさを主張する事もなく。程よいつゆとの絡み合いが素晴らしい。
 水を口に含んでから蕎麦つゆを啜ると、味は醤油を基調にした関東風のモノになっていた。
 早くも東日本にやってきた事を実感さす一瞬である。
「ごちそうさまでした〜!」
威勢の良い声で丼を返し、嬉しい誤算での食事を終了する。
 今回の昼食で世話になった富士駅・富陽軒。
 店の壁にはサイン色紙が飾られており、鉄道好きとしては『ダーリンハニー 吉川』氏のサインを発券し何か和かな気持ちになったのであった。

 蕎麦を食し終えてしばらく。
 身延線の列車が入線してきた。
 乗客の降車を済ませ、方向幕の回転を行う。既に荷物を車内に置いていた中であったが、このシーンに関してはどうしても見届けたい使命感のようなもので見届けた。
 多くの幕コマが巻き取られ、『富士』と表示していた行き先が身延線のそれぞれの行き先に変化する。
 このシーンはいつ、何処で。どんな車両で見ても楽しいものだ。

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