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大極殿の変遷について②【温故知新PJ②】

前回は、「大極殿」の初出時期と、場所の変遷について書きました。

今回は、大極殿の「中身」に注目していきます。

大極殿は政務と儀式が行われる場所、とされていますが、政務と儀式の場所も時代によって変わっていきました。

ここで、押さえておきたいのが、大極殿・朝堂院・内裏の違いです。

・大極殿→天皇が儀式を行う場所。
・朝堂院→八省院とも。太政官などが集まって政治を行う場所。
・内裏→天皇が住む場所。

そして、この3つの並び方も、宮によって違っていたのです。

もともと、難波宮~平城宮では内裏・大極殿・朝堂院は直線状に並ぶプランであったが、長岡宮・平安宮では、内裏と朝堂院は分離するプランとなった。
→天皇の日常政務の場と国家的儀式の場とが明確に分離したのである。

つまり、天皇の日常政務の場が大極殿から内裏にうつり、内裏が独自に機能するようになったのです。

なぜ、政務と儀式が分離したかというと、律令制が浸透して官僚機構が機構として運営されるようになり、天皇が政治をおこなう必要性が下がったからです。

これは天皇の権力と権威の問題にもつながるので、機会があればそのことも書きたいと思います。


官僚機構の確立により、儀式と政務が分化したため、儀式の体系化が必要になった。
→そのような背景のもと成立した、儀式書の代表的存在は『内裏式』である。

儀式は儀式、と位置づけられると、いかに儀式を細かく受け継いでいくかに意識が向けられます。

貴族の間で伝統を受け継ぐ意味で確立した、「有職故実」も同様な文脈なのかもしれません。


その『内裏式』は、いつ作られたのかというと。

弘仁 12 (821) 年嵯峨天皇の命を受けて藤原冬嗣,良岑安世 よしみねのやすよ らが編集し,その後の変更した部分を,天長 10 (833) 年淳和天皇の命を受け,清原夏野らが修正した。
           コトバンク「内裏式」から引用

平安時代初期ですね。

嵯峨天皇は、父が桓武天皇で、兄が平城天皇です。
また空海、橘逸勢とともに三筆に数えられるほど、書に堪能でした。

平城上皇と争った薬子の変や、没後に起こった承和の変といった、平安初期の重要な政変のまっただ中にいました。

そして、子だくさんで、賜姓源氏の元になった天皇でもあります。
(もともと源氏というのは、臣籍降下した皇子のことです)

こうした動乱の中で、儀式は天皇の正当性を示すものでもあったのです。

だから『内裏式』が嵯峨天皇の時期に書かれたのも、不思議ではありません。


このように、大極殿は場所だけではなく、担う役割も変わっていきました。

古代日本の中心とも言えるところなので、書き切れなかった部分や、知識不足のところがありますが、ひとまずここで筆を置きたいと思います。


また歴史記事も更新していきますので、気が向きましたらのぞきに来てください!


〈参考文献〉
積山洋著『古代の都城と東アジア<大極殿と難波京>』清文堂 二〇一三年
笠山晴生編『古代を考える 平安の都』吉川弘文館 平成三年

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