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特急・古代への旅  8

出雲から、西へ!

 
日本の古代は謎に満ちている。
私たちの日本の成り立ちと始まりはどのようなものだったのか。
その謎を解き明かす旅へ出発する。
東京駅9番線21時50分発、最後の寝台特急「サンライズ出雲・瀬戸」で、
私たちは出雲へ向かった。
その地で古代の謎のいくつかの答えを探した私たちは、
さらに深い真実を発見するために、西へ向かった。
その第8話である。

西へ
 
出雲から、山陰本線を西へ進もう。
新幹線中心の鉄道体系になって以来、非電化、単線の「本線」は、この山陰本線をはじめ、数えるほどになった。
山陰本線も出雲市までは複線高架となり、どこの都会とも変わりがなくなった。
鉄路の風情を味わえるのは、そこから西側である。
日本海と山の狭間を、時々現れる集落の潮焼けした甍をかすめて走る、山陰本線。
忘れていた、魅力的な旅路だ。
 
五十猛(いたける)駅
古事記には、スサノオが子の五十猛と新羅へ渡り、こんな所は嫌だと言って木の種を持ち帰って国中に播き、木々や森をを育てた、という記述がある。
日本書紀の一書には、スサノオの子孫が樹種を植え、畜産につとめるなど、国土経営につとめたという話もある(岩波書店版「日本書紀上巻」頭注)。
スサノオの子で、新羅から持ち帰った木の種を、国中に播いて歩いたという五十猛(イタケル)。木の国(紀の国)に鎮まって、紀氏の祖となったとされる。
紀氏は、太安万侶ら大氏とともに日本書紀の編纂に深く関わった氏族だ。それぞれの伝承を結び合わせたのかもしれない。
その五十猛神社が駅裏の丘にあり、西北に向いている。その方角に新羅はある。
スサノオは、なにかと新羅にかかわりが多い神格である。
 
 
大田
物部神社

大田は石見で最大の町、本線の基幹駅の風格がある。
ここからバスで1時間ほど山へ向かうと、物部神社がある。石見の国一ノ宮である。
行ってみると、まず目に飛び込んでくるのが、神社から望む三瓶山である。
一年の半分ほど、白い雪を頂き、ボリュームのある山容に圧倒される。
石見の人々は、幼い頃からその姿を心に焼き付けて育っていくに違いない。
印象強いランドマーク、三瓶山。国引きの三本の杭の一つである。
さらに山に進むと、邑智(おち)という村がある。伊予を支配し、瀬戸内海の水軍を率いた越智氏は、物部氏の流れをくむ。
石見銀山も近い。貴重な鉱物資源を掌握していたのだろうか。それは富と武力を生む。
物部氏は石見の出自だという説もある。あるいは出雲に対する牽制のため、物部氏が石見に措かれたという説もある。古代日本の有力氏族・物部氏の淵源は、こうしたところにあったのだろうか。
 
物部氏は謎の氏族である。
後の大和政権では押しも押されぬ有力氏族となるが、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を始祖とし、神武天皇の大和入り以前から大和に君臨していた勢力、として日本書紀に書かれている物部氏。
東遷する神武天皇が浪速から大和へ向かおうとした時、生駒の孔舎衛坂(くさえのさか)で土着の長髄彦(ナガスネヒコ)に阻まれる。、迂回して熊野へ向かう途中、戦で傷ついた神武の兄・五瀬命が亡くなり、和歌山の日前に葬られる。熊野から高倉下やヤタガラスの先導で熊野山中を越え大和に入った神武一行は、先住の饒速日(ニギハヤヒ)が天孫であることを知る。ニギハヤヒは同族のナガスネヒコを殺して神武に恭順を誓った、と日本書紀は書く。
ニギハヤヒが神武に大和の覇権を譲るくだりは、出雲の国譲りと重なり連想させる。
物部氏とは、神武以前の先住の覇者であったのではないか、と推測する物部説も魅力的だ。
しかし、「物部」とは軍事や祭祀を司る職掌であり、物部連とは別の「幻の物部氏」というべき勢力はなかった、という説も有力である。とすれば、夢もロマンもない残念な話ではある。
平安時代に著された「先代旧辞本紀(せんだいくじほんき)」は、日本書紀の向こうを張る物部氏の氏族史誌であるといわれる。そこには、「正史」とは違う日本の歴史が綿々と書かれている。だが、こちらも偽書説が多い。
いずれにせよ、古代史に度々現れる物部氏の実体は、多くの研究者の書を読み重ねても、いまだにわからない、謎(不明)である。
その謎を解くのもまた、古代探索の魅力だ。
 
山陰の侵されていない風景を走りぬくと、益田である。
ここもひなびた風情の駅である。周防灘から上がった海の幸を売る店も多い。
この益田から津和野へ山口線で行くのも良し、萩へ山陰本線を進むも良し。
 
長門
萩を通り、日本海、響灘沿いに進むと油谷。
ここには安禄山の乱で追われた楊貴妃が流れ着いたという、不思議な言い伝えがある。
川尻岬に向かう向津具(むかつく)に「楊貴妃の里」がある。
807年創建という二尊院の境内に「楊貴妃の墓」とされる五輪塔があり、そばには侍女の墓も。
由緒によると、安禄山の乱で楊一族が殺害され、756年、楊貴妃絞首処刑の際、玄宗皇帝のあまりの嘆きぶりに近衛隊長の陳元礼が同情し、空艪舟(うつろぶね)で逃がしたという伝説。皇帝から二尊仏が与えられたことに由来するのだという。
楊貴妃は向津具半島の唐渡口(とうどぐち)の入り江に漂着し、まもなく死去したという。
里人が境内に埋葬したと伝える。
青い響灘を見下ろす高台に、朱と白のあざやかな中国風建物が建つ、楊貴妃の里。
若いカップルたちが訪れていた。楊貴妃が到達したという足元の入り江は、素朴な漁港。
朝鮮半島、大陸を望む響灘は、たしかに現代でも難破漁船の漂着が多い。
棚田が美しいこの地、楊貴妃伝説のロマンが生まれたのもうなずける。
 
土井が浜遺跡
海岸沿いの国道191号線を進むと、旧豊北町に大変な遺跡が存在する。 
日本の国、日本人のあるルーツが見える衝撃的な遺跡である、土井が浜遺跡。
私はここで、ぼんやりと抱いていた日本の成り立ちの姿に、はっきりとしたイメージを得た‥そう言っても過言ではないほどの、重大な遺跡なのである。
海岸近くの丘に、300体もの弥生人の人骨が発見されたのだ。
しかも人骨は、ほぼ全員が西北を向いて眠っている。つまり中国大陸の方角に顔を向けている。
彼らは、顔が細長く彫りは浅く、背が高い。
現代人的であり、中国山東省人の特徴を持つことが、発掘研究の結果わかったという。 
つまり、弥生文化を日本にもたらした、大陸からの渡来弥生人であった。
ここはその墓所で、BC2世紀からAD3世紀、弥生前期・中期2段階に及ぶという。
土井が浜遺跡人類学ミュージアムの展示によると、山口県や北部九州人の骨格は渡来系、対して西北部九州人は縄文系、南部九州はさらに縄文系であるという。
とすると、弥生日本人のルーツは、北海道から沖縄までいた土着縄文人と、渡来弥生人との混血であろうか。
縄文時代の日本の人口は最大時で26万人。寒冷で激減した末期は8万人であったとされるから、弥生時代になって60万人から奈良時代の500万人へと爆発的に増えた(鬼頭宏「図説・人口で見る日本史」)その人々は、戦乱などに追われ農耕の技術を持って大挙渡来してきたことになる。 
つまり、私たち日本人の大部分は、渡来人の子孫となる。
戦前以来のアジア人差別は、自らの祖先を差別していたことになるのだ。
 
古代の旅は、思わぬ所でとんでもなく本質的な発見に出会う。
信じるか信じないか、ではなく、それぞれの土地で知ったことを、先学の文献や考古学と照らしてみた時、それを超えた想像力で見えてくるものがある。それがフィールドワークの強さだ。

西へ向かった我々の旅は、本州から「国のまほろば」、九州へ入る。


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