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事実でさえ合意できない人間の思考のメカニズムを解剖する。『私たちを分断するバイアス マイサイド思考の科学と政治』訳者あとがき公開

事実でさえ合意できない人間の思考のメカニズムを解剖し、マイサイドバイアスという観点から現代の分断社会を読み解いた書

正しい知識と情報を得て、熟慮をすれば同じ結論に至るはず……。
残念ながら、実際にはそのようになっていない。

この理由をマイサイドバイアスという観点から紐解いたのが本書である。
人々は自分が持つ信念に合致するようにエビデンスを評価し、自分は常に正しいと考えてしまう。熟慮をしても逃れられないこの傾向は、既知のバイアスとは違って非常に厄介だ。
本書はこのバイアスの特徴、影響、食い止める方法などを解説し、分断をもたらす人々の思考を明らかにする。

原書名:The bias that divides us: The science and politics of myside thinking

▷書籍詳細

訳者あとがき

 この本は,Keith E. Stanovich著のThe Bias That Divides Us: The Science and Politics of Myside Thinking(The MIT Press,2021年)の翻訳である。

 スタノヴィッチ博士は,米国生まれのカナダの研究者で,合理性,推論,読みなどの認知科学,教育心理学分野で活躍してきた。邦訳書においてもこれまで合理性のテーマを扱ってきた。そのなかで氏は,批判的思考や分析的思考を重視してきた。本書はこれらの視点を社会の実情,社会のなかにある個人が物事をとりわけ党派的に捉えてしまう仕方に目を向けたものである。

 時代が進めば,世の中は社会運営スキルが熟達し,民主主義が浸透し,より平和で合理的な話し合いに基づく争いの少ない社会に移行,進展するものと,多くの人が20世紀終わりには考え,期待していたであろう。しかし,21世紀となり,分断という言葉が登場するようになり,発達したインターネット上の世界にも近年「ポスト真実」という言葉が現れ,フェイクニュースや陰謀論に溢れるようになり,人々の知恵を補充し,支援になるだろうと期待されたインターネットが社会に対してさまざまな悪影響をも及ぼしうることがあからさまになってきた。

 特に社会が進展してよくなっていくことを期待していたリベラル派の人々は,そうした揺り戻しに,自分と異なる考えを持つ人たちが,事態をよく理解せず,真実や事実を取り違え,誤った結論を導き出しているからに違いないと批判するようになった。言ってみれば,考えの足りない者たちが,自分たちと同じ知識や情報を取り入れ,正確に思考すれば,同じ結論に至るはずだという見方である。

 しかし,社会や人々はそのようなものではなかった。
 本書は,これを説明する,社会的認知の立場からのこれまでの指摘や提案とは一線を画したスタノヴィッチ独自の視点からスタートした鋭い分析と実証的知見の集積から,この世の「バイアス」というものの整理を試みた1つの意欲的な作品である。

 本書のなかで述べられているスタノヴィッチ個人の意見や見方について,同意できない部分もところどころにあるが,同じ情報に接しても,そしてそれをよく熟慮しても,異なる結論が得られることもあり,しかもそれによって,意見が分極化しさえもするという指摘は非常に重要なものである。

 考えが異なるのは相手が愚かだからではない。これまで多くのバイアスと相関を示してきた認知変数─認知欲求,認知的熟慮性,曖昧さへの耐性,完結欲求などがことごとく分極化の局面において無相関である事実。確証バイアスや後知恵バイアス,自己奉仕バイアスなどのこれまでのバイアスとは異なった特異な性質を持つバイアス,これをスタノヴィッチは,「マイサイドバイアス」と名づけた。

 マイサイドバイアスには直感信念が関わるが,必ずしも二重過程モデルで言うところのシステム1で結論が出されているわけではない。直感信念の形成過程において,システム1が多く関与しているかもしれないが,いったん形成された直感信念に基づいて,新たな事態(データ)に対して,エビデンスに基づいて熟慮的に思考しても,マイサイドバイアスが発生するのである。熟慮の末に示されるバイアスでもあるマイサイドバイアス。これをこれまで多くの研究によって示されてきたバイアス群と区別して慎重に取り扱わなければならないとスタノヴィッチは強調する。

 マイサイドバイアスに含まれる知見は,スタノヴィッチに始まるわけではない。過去の多くの研究がある。しかし,以前は,それを確証バイアスなどといっしょくたに区別がつけられずに,その点,無自覚のまま研究者たちによって扱われていたのだった。マイサイドバイアスに及ぼす事前信念の影響を明瞭に見て取れるように,第2章でスタノヴィッチはベイズモデルの推論を引き合いに出し,そこに含まれる落とし穴や欠点も明示することで,なぜこうしたバイアスが生み出されるのか,そして驚くべきことに,バイアスを愚かなエラーとして扱いがちであった(進化的利点は認めるにしても)従来の社会的認知研究者と異なり,このエラーが推論の規範に従う,間違いではないものと許容されうる条件を明らかに示し,「規範的なバイアス」という一見,これまでの研究者にとっては語義矛盾に見えるような理解の仕方があることを示す。この一連の推論や議論に反論もなしうると思うが,スタノヴィッチの議論に従っていくと,確かにこうした整理もありうることに感心する。同時に,そもそも正しい推論とは何なのであろうかという問いにもそれぞれの読み手は向き合うことになるだろう。その手がかりとしてスタノヴィッチは道具的目的という概念を用いて整理を試みている。道具的目的も拡張していけば,手に負えない概念になりそうな気配もあるが,その峻別は意味のある視点であろう。

 なお,こうした重要な議論のなかに含まれるキーワードの訳語の決定にも苦労した点がこの書籍については難しい点であった。myside biasは,そのままマイサイドバイアスとした。自陣営に有利な見方としてバイアスをどうにか日本語にしえたかもしれないが,訳者の力不足で,正確なニュアンスはカタカナ表示が最も誤解なく伝わると考えた。

 一方で,distal beliefについては,適当な日本語を見つけることが非常に難しかった。この概念構成上,そもそも原語でなぜdistalであるかというニュアンスもいくぶん難しい点があり,根拠が地についていないで,空高く浮かび上がっているという様子も妄想できたが,それは本人にとっては,責任を感じない空々しい信念というのとは異なり,場合によっては自分に密着した「熱い信念」である。「自身の身を守るためには拳銃武装が必要である」という主観的には自分の命をかけた信念を何と呼べばよいのだろうか。「そう考えている人が多いはずだ」などという実証に基づかない信念を私たちは,distalという原語からは離れてしまうかもしれないが,「直感信念」と訳すことにした。対置される実証的に確証されうる検証可能な信念に対して,「検証できない信念」と訳す可能性も考えたが,そうすると,「検証できない信念は検証ができない」といった翻訳する上で意味が希薄で,疑問が持たれるような文章が多く生み出されてしまうことになる。この点,拙い訳であると感じられる方もおられるかもしれない直感信念と訳した意図をこのように,訳者あとがきで補足説明することによってご理解いただけたらと考える次第である。

 規範(norm)という語も文の流れによって,規範としたり,基準としたり,訳語が統一されていない部分があることもお断りしておく。思考心理学の伝統分野のなかで,規範的な推論というテーマはそれとヒューリスティックを対置させる形で,思考分野の社会的認知研究の先駆的考究という点で,トゥバスキーとカーネマンの「ヒューリスティックとバイアス」研究を出発的に見据えることも可能である。その視点における正確さという点もこの書で議論の俎上に載せられている。

 訳者(北村)が若い頃にキーワードなどの書籍のなかで,ヒューリスティックの説明を執筆していた頃からすると,「思えば遠くに来たものだ」との感も抱く。

 出版社からの要請を受けた後,翻訳作業を行うにあたって旧知の小林知博先生と着手したが,自分の力不足で,時間的に手に追えず,手練れの英語遣いである鳥山理恵先生に加わってもらって,精度を上げ,作業の円滑化を図った。訳語に苦しみ,メールや対面で知恵を出し合い,幾度も相談を行った。「直感信念」などは,実のところ,初校の校正を行っている最中に最終決断したものである。

 その他の訳語や言い回しもご批判の諸点をもたられるかもしれないが,訳者や出版社にご意見をお寄せいただけたら幸いである。今後の戒めとして勉強させていただきたいと切に願っている。

 この書籍が新たなバイアスの認識,集団間関係の認知的問題や分断,分極化,党派的態度などの理解の進展にいくらかでも寄与できることを願い,また,日本の大学院生や初学者,また,心理学に関心や期待を抱く一般の方々にとっても,今日の社会状況を理解する一筋を見いだしていただけたら幸いである。

 最後にこの興味深い書籍の翻訳をお勧めいただいた誠信書房の小林弘昌さん,また編集部の方々に感謝申し上げる。こうしたバイアスを理解する知識基盤に大きな影響をいただいた社会的認知系の勉強会を主催された村田光二先生,外山みどり先生をはじめ多くの先生方,ご参加の方々にも改めて感謝の意を込めてこの書籍の翻訳を世に出したいと願った。社会心理学,認知心理学にまた1つ,知識の進展が見られたら幸いである。
 
 2023年11月15日
 訳者を代表して 北村 英哉


●著者紹介

キース・E・スタノヴィッチ(Keith E. Stanovich)
カナダ・トロント大学応用心理学・人間発達部門名誉教授
邦訳書に,『心は遺伝子の論理で決まるのか:二重過程モデルでみるヒトの合理性』(みすず書房,2008年),『心理学をまじめに考える方法:真実を見抜く批判的思考』(誠信書房,2016年),『現代社会における意思決定と合理性』(太田出版,2017年)がある。2012年にAPAからソーンダイク・キャリア・アチーブメント・アワードを受賞。読字についても数多の受賞を得ている。「合理性指数」を提案した書籍も大きな評判を呼んだ。

●訳者紹介


北村 英哉(きたむら ひでや)[第1章,第2章,第6章(pp. 143─169)]
東洋大学社会学部社会心理学科教授,博士(社会心理学)
〔主要著訳書〕
『システム正当化理論』(2022,ちとせプレス,編訳)
『カルドゥッチのパーソナリティ心理学』(2021,福村出版,編訳)
『あなたにもある無意識の偏見:アンコンシャスバイアス』(2021,河出書房新社)
『社会的認知:現状と展望』(2020,ナカニシヤ出版,分担執筆)
『心理学から見た社会:実証研究の可能性と課題』(2020,誠信書房,共編著)

小林 知博(こばやし ちひろ)[序文,謝辞,第4章,第5章]
神戸女学院大学人間科学部心理・行動科学科教授,博士(人間科学)
〔主要著訳書〕
『システム正当化理論』(2022,ちとせプレス,分担訳)
『社会心理学・再入門:ブレークスルーを生んだ12の研究』(2017,新曜社,分担訳)
『対人社会心理学の研究レシピ』(2016,北大路書房,分担執筆)
『心の中のブラインド・スポット:善良な人々に潜む非意識のバイアス』(2015,北大路書房,共訳)
『パーソナリティ心理学ハンドブック』(2013,福村出版,分担執筆)

鳥山 理恵(とりやま りえ)[第3章,第6章(pp. 169─191)]
東京大学医学部附属病院精神神経科届出研究員,近畿大学・立正大学・慶應義塾大学等非常勤講師
〔主要著訳書〕
『不平等の進化的起源:性差と差別の進化ゲーム』(2021,大月書店,分担訳)

●書籍目次

序文
謝辞

第1章 マイサイドバイアスの多様な顔
第2章 マイサイド処理は、非合理なのか
第3章 マイサイドな考え方──例外的なバイアス
第4章 人々の確信はどこから来るのだろうか──マイサイドバイアスを理解することの意味
第5章 認知エリートたちのマイサイド・ブラインドネス
第6章 マイサイドバイアスをどうするか


引用文献
訳者あとがき
索引

▷本書の詳細はこちら

『私たちを分断するバイアス マイサイド思考の科学と政治』

出版年月日 2024/02/15
書店発売日 2024/02/25
ISBN9784414306392
判型 A5
ページ数 252ページ
定価 2,970円(税込)

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『心理学をまじめに考える方法 真実を見抜く批判的思考』



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