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敬う心をひろげ、次世代につなぐ-2024年ver



日本全国の寺院の課題発見・解決事業を展開している弊社、せいざん株式会社の事業指針について先日、社内共有をした。自分の想いも含めてここに残しておく。


せいざん株式会社 2024年度事業指針

 

  • 理念ファーストであること

    • 理念「敬う心をひろげ、次世代につなぐ」とまっすぐつながった事業を開発・運営する

    • 理念に共感してくださる寺院のお手伝いを行う

  • 価値提供を持続できる体制であること

    • 敬う心をひろげ、次世代につなぐに違えることがないよう事業継承=人の雇用・育成は大事。※企業が大きくなることを目的としていないので不要な採用はしない。

    • 社会に提供したい価値を生み出し続ける権利=黒字・自社で判断権利がある資本政策維持※外部資本は入れない

  • 働くメンバーがやりがいをもって長く働ける会社であること

    • 寺院の時間軸は100年単位。100年・200年と京都の老舗会社のように寺院に対して誠実に細く長く価値提供できる企業を目指す

    • 寄付で成り立つ寺院からの対価を売上にする生業であることを自覚すること。エンジニアチームにAI化・自動化を依頼して業務効率化を図り、人が人にしかできないやりがいある誠実な仕事をして価値を提供し、対価をいただく誠意を大事にする。

    • おたがいさま・おかげさまで無理なく働きつつプライベートや大切にしたいものを大切にしつつ、給与・賞与還元できる体制を築く。

以上、役員会で話たうえで示した指針。

仕事やお金の前にあるもの

私達はなんのために働くのか。何のために生きるのか。その価値観や温度感がほぼ同じメンバーで働けていることが弊社の強みだと思っている。

仕事は人生をよく生きるための1つの手段でしかない。その手段でしかない仕事にふりまわされてお金を稼ぐことがゴール。というような働き方は私達はしたくないしできない。

せっかく働くのであれば仕事を介して、今と次の世代にとってそれぞれの幸福を大切に生きることができる社会に貢献していたい。

私達は心がある生き物なんだから、仕事やお金の前に感性がある。

感性は考える前にあるもの。

「幸福だ」と感じる瞬間が多い人生を増やすために、感性に響く事業をやっていたい。

幸福にもいろいろあるけれど感性の深いところに響く幸福は、「人の役に立てること」なのではないかと思う。

電車の席をゆずった人からの「ありがとう」。
何気ないことをして家族・友人からの「ありがとう」。
仕事を手伝った同僚からの「ありがとう」。
尊敬する人の頼みに応えた時の「ありがとう」。

人から感謝されたときの満足感や充実感は、モノを買ったり、食事をしたりといった消費行動にはない深みがある。

人の役に立てている、人に助けられている。

その循環が人の感性に響き、心を豊かにする。

人の感性は人間性を決定づけるOSだ。

感性の質が高く、利他的行為ができる人間性を持つ人が多い社会であればその社会は豊かで寛容になる。

感性の質が低く、利己的行為ばかりの人間性を持つ人が多い社会であればその社会はさもしく不寛容になる。

私達は感性の質が高い人間性を持つ人が増やしたい。

そして、全ての人に平等に与えられている感性が高まる機会は死だ。自分の死、大切な人の死に出会う時、いままでの人生で感じたことがないような感情に見舞われる。その時に何を思うのか、何を感じるのかが大切。

死別を介して感性が震える場面を通して、弔いという感性を直撃できる手段をもった寺院を通して感性が高まる機会創出がしたくて事業を行っている。

徳か才か

司馬光が書いた『資治通鑑』によると、人の本質は2つに分けられる。

人間の能力は「才」、人間性を「徳」。

才も徳もある人を「聖人」。
徳が才に勝る人は「君子」。
才が徳に勝る人は「小人」。
才も徳もない人は「愚人」。

聖人や君子がいれば、その人を軸に家庭も会社も社会も組み立てればいい。

でも残念ながら政治家しかり日本にはそうした人が少ない。多くの場面で、小人がリーダーになる。

今の社会に不正や理不尽が多いのはこれが原因ではないかと私は思う。

どれだけ立派な才があっても徳のない人は利己的な思想で組織・社会を危うい方向に持って行く危険性がある。政治家、立派な企業、家庭でも「まさか」と思うような不正や犯罪行為が珍しくないのはその証拠のように思う。

視点を変えると、小人よりも愚人のほうが社会にとっては大切なように思う。

小人は「社名・学歴・収入・家名」といった人の本質ではない装飾物によって自分に価値があるように思い込んでいることが多く、それらが通用しない感性に関わる本質的な課題に直面すると話題をすり替え、素直に課題に向き合わない。その足掻きが社会の改善・進化の足を引っ張る。

人間らしいこと、つまり徳を重視した判断をする。という考え方が軽んじられている中で愚人はなにもできないからこそ素直に聞き入れ、努力を惜しまなければ君子になれる。

受験勉強や就職といったもので得られる才がなくとも徳を重視して人間性を育てる風潮が社会や組織や家庭にあれば世の中はよくなるのに。と思う。

徳とはなにか。本来、倫理観や歴史・文化から学ぶことだ。しかし、日本人には学ぶ場がない。なぜならそれらはこれまで地域コミュニティの中の習慣や宗教によって育まれてきたから。

人の感性を高める素養である精神文化は地域や宗教に委ねられてきた。

都市化・核家族化などによる精神文化・宗教の断絶は日本人に「徳」の積み方を忘れさせてしまった。

人として必要な部分が欠けているまま才の鍛え方だけを学ぶ。

その結果、日本は観光先としてリーズナブルな観光先全世界で4位になり、30年実質の給料はあがらず、物価高と手取り減で社会は貧困化している。心の豊かさどころか物質的な豊かさも危うくなってる。

その意味で、生まれた場所を問わず社会的に徳を学ぶ機会は寺社仏閣などの宗教領域が最適だと思うが学ぶ前に寺社仏閣の必要性が生活者に届かず、むしろ敬遠されている。

私たちは徳が高いと感じる寺院とつながり、彼らの課題を発見・解決することで既存会員である檀信徒はもちろん地域社会にその価値を広く届け、感性を高める支援がしたい。

そうして才に惑わされず、徳、つまり人間性を重視する感性を備える社会になってほしいと願って「敬う心をひろげ、次世代につなぐ」を理念としている。

敬うにも無条件に敬うことはなかなか難しい。敬うには才ではない人間性が必要だろう。どんなに仕事ができても、どんなに年収があっても、経歴や学歴が立派でも人として尊敬できない人間ばかりの社会では敬いは生まれない。

敬える人、敬いあえる関係性が増えるように、寺院を介して社会に貢献していたい。

これを軸にして事業として成立させるには私達自身が人間性を磨き、高いレベルの技術・知能・戦略が必要。それらは一朝一夕にはいかない。

それでも、自分たちを磨けば目的に叶う仕事ができるならそれでいい。そういうストイックさを持っている企業だと思う。

心豊かになる社会を

弔いの業界にいると、徳を磨く必要性を社会に伝えることができる尊い業界なのにそのプレイヤーである業者や宗教者に徳が見つけられず才だけを立派に見せあっていることがよくある。

道徳なき経済は犯罪というが、道徳なき弔いは犯罪よりもたちが悪いと思う。社会の感性や徳が育つ機会を収奪するのだから罪深い。

徳が高くてあるべき宗教者が一般常識もなく、自分がヒエラルキーのてっぺんにいるような言動をする人もいる。

それは自分の寺院や神社の立派さ、伝統といった自分で培ったものではないものに下駄を履かされているだけなのだが、気付きもせずに周囲にえばりちらしている様を見ると誰にも叱られず、そのまま裸の王様で生きていくのかと思うといっそ不憫に思う。

才に引っ張られて徳を積むはずの宗教者が業者の中にいる小人の食い物にされていることも多々ある。

宗教者が徳と才の見極めができないのも問題だが、人として信じられない倫理観のない人が残念ながら弔いの業界に数多くいることも問題だと思う。

実際に私も15年近くこの業界にいるがセクハラやパワハラまがいな行為や発言を受けてきた。ただでさえ男性優位業界なので21歳の新卒でこの業界に飛び込んだ私への洗礼だったと今になれば思えるけれど当時は悔しくて駅のホームで泣いていた。

つい先日も社会的には立派な企業の方に信じられないセクハラまがいの発言をされて怒りを通り越して呆れた。「そんなだからこの業界はよくならないし、外の業界からも侮蔑されるのだ」と。

若いから、女性だからであんな扱いをされることは今のご時世、あり得ないことがだと思うが、若い方の話を聞くと残念ながら未だに女性差別は0ではない。人の死を介して老若男女と関わる業界の品性が疑われるのだから淘汰されることを願う。

また、社会の死・弔いへの無関心さ、無知さを嘆き、他業界へのコンプレックスからか無理に死・弔いを明るく見せて消費しやすくさせるのも私は違うと思う。

トレンドをちりばめて若者に寿司のネタだけ与えてシャリは捨てさせるようないいとこ取りというかきれいでユニークな部分だけ見せたってその人達の人生観や死生観は豊かにならない。死もコンテンツの塵芥となって消費されるだけではないか。

そういう意味で人の死をよく知らない現場感のない小人たちがもっともらしくキャッチーなイベントや本やメディアで物知り顔で語るのもできればやめてほしいといつも思う。

ああいったものに宗教者や業界の人が協力しているのも残念に思う。業界のためになっているようではっきりいってなっていない。現場からすると迷惑ですらある。

社会にうまく死の文化が継承されていないのに粉飾物が交じると現場で喪主や死に行く人との対話でノイズになっている。粉飾された知識をもった人が妄想の死や弔いに固執すると体験できるはずの感性が高まる機会を阻害する。

それを体験するにつけ、「遺骨が手元にある」「今、亡くなりました」「もう長くない」そんな相談を日々受けている現場にいる身として、社会的損失だとすら思う。

死は恐ろしく、理不尽で、人のコントロールの外にあるものだ。遺体は腐るし、精神は削られる。どうやってもエンタメにはならないし、映えもしない。

それでも死は私たちの人間性の育成に必要な要素が詰まっていると思う。その深淵を覗かないままに、死の本質を曲げてあれこれ粉飾してリアリティなく語っても結局は何も変わらないし、人の感性には届かない。

消費者が成熟していないのに消費者に合わせた業界の末路は衰退だ。だから消費者を育てる緻密な戦略が必要。こんなことはビジネス界では知れていることだが、その発想がこの業界にはない。ただウケるから、売れるからで量産されるものに人の死が飲み込まれていく。

そんな本質からずれた事業やコンテンツに生活者が触れるのははっきり言って時間の無駄だし、自分の中にある弔いへの感性を育てきれないままに遺体処理・遺骨処理のレールに乗ってしまうのは悲しいことだと思う。

私は弔いに関わる人間は人々の徳を高め、感性に響く仕事を介して心豊かになる社会に貢献できると確信している。

だからこそこういった業界の状況が悲しい。

それでも、供養業界のレジェンド碑文谷創さんはじめ見識人のみなさんや業界の先輩、同志のような宗教者のみなさん、手前味噌ながら弊社の代表や創業者、それから師匠。

縁ある人々に徳の高さ、人としての温かさを感じるから、理想論ではないと思える。

徳が高い人達は少ないけれど確かに存在する。そしてその人たちといると私自身の心が救われたり、勇気をもらったり、たくさんの幸せをもらっていて幸福な人生だと思えている。

その実感があるから信ずるところを核として理念にまっすぐに、本気で事業を育て、メンバーおよび関わりあるみなさまに恩返しをしながら、その可能性を開花させたい。

そんな想いで2024年もご縁を大切に、地味に地道に寺院の支援を通して自分たちがなすべきことを積み上げるのみ。

20240420 池邊文香



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