南洋諸島ー忘れられた日本領
「南の島」と聞いて、どのあたりを連想するだろうか?
第一次世界大戦開始後の日本にとっての「日本の島」は、赤道以北の南洋諸島であった。ここは現在のミクロネシアを中心とする海域であり、もともとはドイツの植民地であったところだ。
第一次世界大戦後に委任統治領として日本が統治をまかされると、政府は1922年にパラオに南洋庁を設置して、多くの日本人を移住させた。同年にはさっそく、サイパン~沖縄間を直行船が就航している。
その後、南洋諸島は南方進出と資源確保のかなめとして、1944年にアメリカ軍の占領するまでは日本海軍の拠点となった。
企業の進出ー「海の生命線」
南洋諸島の主要産業は漁業のほか、タピオカや果物、サトウキビ栽培と製糖業、硝石の採掘業、さらには羽毛用アホウドリの捕獲や、海鳥の糞が長期にわたり堆積してできたグアノの採掘業などであった。
移住した人々ー沖縄出身者
そんな「南洋」諸島の産業における働き手となったのは、沖縄の人々だった。
「南洋」へのまなざし ー冒険ダン吉と教育
沖縄の人々を中心とした日本人移民の向かった南洋諸島には、もともとチャモロ人などの人々が住んでいた。彼らは「島民」とされ、その言葉は「島語」と呼ばれた。
国籍は与えられず、南洋庁により、約8割の土地が日本人や日本企業の所有となった。
この南洋諸島を舞台とした作品がある。1933~39年に雑誌『少年倶楽部』に掲載された、『冒険ダン吉』(島田啓三作)という漫画だ。
この作品において、「島民」(「土人」)は、日本人の少年ダン吉と比較し、どのような人々として描かれているだろうか?
資料 『冒険ダン吉』
Q. 作品のなかでダン吉と島民の間には、どのような違いがあるものとして描かれているだろうか?
また、こんな歌謡曲もつくられている。
***
南洋群島の日本支配に対する批判的なまなざし
(追記:2022/07/24)
こうした支配に対し、批判的な目を向けた者もいた。
石川達三『赤虫島日記』
第一回芥川賞受賞作家。1941年5〜7月にサイパン、テニアン、ヤップ、パラオを訪問したときの日記より。
中島敦
『山月記』で知られる小説家・中島敦は、実は1941年6月から10か月、現地の国語教科書編纂のために南洋庁内務部地方課国語編修書記として各島に滞在した経験をもつ。以下はその間につづられた書簡だ(なお『山月記』は1942年の作品。同年、持病の喘息の悪化で亡くなっている)。
だが、このような眼差しを南洋諸島に向けた日本人はごく少数であった。
***
『冒険ダン吉』にみる日本の開発観
ダン吉は原住民を支配するだけでなく、彼らを苦しめていた敵をたおし、文明を授けようとした。
ダン吉の姿勢に、佐藤仁氏は、「「援助者としての日本」の原型」を見て取る。
このように、北海道や沖縄、そして台湾、朝鮮、樺太の立ち位置を、南洋の国々と比較しながら検証してみると、「開発」の持つ二面性に気づかされる。
日本は敗戦とともに、これまでの「開発」の事実を、すっかり忘却してしまった。
南洋もその過程ですっかり忘れられていったのである。
我が国における開発の理念から、日本国外を「開化させる」という視点が欠落しやすいのも、そこに原因があるのではないか。
かつて日本を中心とする宇内を、異民族にまで拡張し、普遍的な文明として日本の国威を広めようとした過ちを想起せぬよう、戦後の開発はあくまで「経済協力」という形で推し進められていった。
道徳的なキャッチフレーズを推進する際にも、あくまで国連と足並みをそろえる形をとる。1990年代に提唱された「人間の安全保障」もその一つだろう。SDGs(持続可能な開発目標)の眼目が、世界からの貧困の撲滅と地球規模の持続可能性であるにもかかわらず、一国的な社会問題解決(すなわち景気の好転)へと矮小化されてしまうことにも、もしかすると、他国の開発につきまとう植民地主義の影を振り払う無意識がはたらいているのかもしれない。