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世界史のまとめ×SDGs 目標④質の高い教育:1979年~現在

 SDGsとは「世界のあらゆる人々のかかえる問題を解するために、国連で採択された目標」のことです。
 言い換えれば「2019年になっても、人類が解決することができていない問題」を、2030年までにどの程度まで解決するべきか定めた目標です。
 17の目標の詳細はこちら。
 SDGsの前身であるMDGs(ミレニアム開発目標)が、「発展途上国」の課題解決に重点を置いていたのに対し、SDGsでは「先進国を含めた世界中の国々」をターゲットに据えています。
 一見「発展途上国」の問題にみえるものであっても、世界のあらゆる問題は複雑に絡み合っているからです。
 しかも、「経済」の発展ばかりを重視しても、「環境」や「社会」にとって良い結果をもたらすとはいえません。
 「世界史のまとめ×SDGs」では、われわれ人間がこれまでにこの課題にどう直面し、どのように対処してきたのか、SDGsの目標と関連づけながら振り返っていこうと思います。

「教育」って何だろう?

「質の高い教育」って何なんでしょう?

ーそもそも、「教育」って何のためにするんだろう?


うーん、受験とか就職のため? 

ー今、教育っていうと、「学校に通い、机の上で教科書を使って勉強すること」っていうイメージが強いよね。

Photo by Randy Fath on Unsplash



 人類の歴史の中で考えてみると、実はそれって普遍的な「教育」スタイルじゃない。


まあそんな気がしますね。

ー例えば、21世紀の子どもにとってだったら、社会に出たときのために必要なことを学んでおく必要があるよね。
 例えば、読み書き計算だけでなく、社会自然に関することや、生活技術感性道徳身体能力、コミュニケーション能力などなどが「必要なこと」とされているね。

 この「必要なこと」っていうのは時代の流れに従い変わることもある。
 最近じゃ、表計算ソフト、プログラミング教育や、プレゼン能力英語が重要だって話になってるでしょ。

やることがどんどん増えていってるんですね。

ーでは、14世紀の遊牧民の男の子ならどうだっただろう?

 
きっと、読み書き計算よりも、一人前になったときのために家畜の群れをいかに育て利用するか、馬に乗って勇敢に戦う技術などといったことを、何よりもまず教育する必要があったはずだ。


その社会によって必要なことって違いますもんね。

―そう。
 つまり一般に「教育」っていうのは、その社会に生まれついた子どもが「その社会のメンバー」になるために必要なことを、成長の過程で身につけることを指す営みといえそうだ(注:社会化)。「言葉を使って、情報を子や孫に伝えていく」というのは、まさに人間にしかできない重要な特徴だ。


つまり教育っていうのは、小学校にあがったらみんな同じ教科書を使って勉強するっていうイメージよりも…

ーもっと「広い」とらえ方をしたほうがいいだろうね。

 漁師には漁師の、ハンターにはハンターの鍛冶屋には鍛冶屋の、聖職者には聖職者の ーというように、集団の数だけ教育があるといっていい。


けっこう固定的ですね。

ー今の世の中、「教育にはその子どもに宿る能力を開花させる使命がある」って考え方が普通でしょ。
 でも、歴史的にみると、そういう考え方が出てきたのは結構最近のこと。

 伝統的な社会では、子どもの個性を大切にし可能性を広げるという教育よりも、その集団の一員としてやっていけるようにするっていう側面のほうが強かった。


「教育」の場はさまざま

じゃあ、今のような「学校」も昔からあったわけじゃないんですね。

ー必ずしも学ぶ場所は今でいう「学校」とは限らないよ。



 現代の日本では、ある程度の年齢になると家を出て「学校」で教育を受ける時間が長くなるけど、それはごくごく最近になってからのこと。

 人類の歴史を見てみると、教育というのは「学校以外の場所」でおこなわれいたことがほとんどだ。


学校以外の場所って?

ーまず重要なのは、生まれた家族やsによる教育だ。

 家族集団のあり方は時代や地域によってもさまざまだけど、「工業化していない社会」にあっては、たいていの場合、学びの場は「共同体」の中に埋め込まれていることが多かった。

 たいていは共同体をとりまとめるなんらかの精神的な指導者がいて、子どもも含めた大人たちをまとめる役割を果たしていた。


子どもは昔から、今みたいに「勉強」していたんでしょうか?

―生産性の低かった時代には、食べ物を確保することが何よりも求められる。主要なエネルギーは人力であったから、子どもはとっても重要な働き手だ。
 子どものうちから大人同然に苛酷に働かされることも普通だったんだ。


子どもだからといって、守られていたわけじゃないんですね。

―例えば、中世ヨーロッパ(⇒800年~1200年の世界史のまとめ)では、アリエスの研究によると、子どもは「大人が単に小さくなった存在」ととらえられていたという。

 子どもだからといって、子供向きの「特別な教育」をされるわけではなく、一定の年齢になれば大人と同じような教育がほどこされることが普通だったんだ。

 また、中国や朝鮮では伝統的に儒教文化の影響が強い。大人と同じように男女の区別をしっかりすることが求められた

 子どもと大人の境目もさまざまだし、生まれた社会階層によっても教育の内容は変わる

 どんな時代・地域でも子どもを同じように扱っていたわけではないんだよ。


産業革命以降、教育が激変する

―しかし、そんな教育の中身が激変したのは、18世紀後半に産業革命が起きてからのこと。


 社会のあり方が根底から変わってしまったからだ(⇒ゼロからはじめる1760年~1815年、ゼロからはじめる1815年~1848年の世界)。


どんなふうに変わったんですか?

―産業の発展に追いつくために、できる限り多くの子どもに必要最低限の読み書き・計算能力を身につけてもらうことが重要となった。
 国にとっても経営者にとっても、規律正しくまじめに働く人材が求められたわけだ。
 社会学者のゲルナーは「国が領域内の国民をまとめようとする動き」(注:ナショナリズム)は、世界史の中でこの時期以降に特有の現象だと言っている。


ヨーロッパでは子どもの教育は教会が担当していたんですよね?

―そうそう。
 そこで「国づくり」を進めようとする政府は教育を担当する力を教会から奪おうと必死になる。
 教育っていうのは国民を育てるための営みなんだから、教会は口を出すなというわけだ。
 この方針を「政教分離」というね(注:フランス共和国のライシテの原則)。

 こうして、19世紀の後半以降、西ヨーロッパやアメリカ合衆国日本では、初等教育を義務化するところが多くみられるようになる。今は当たり前になった「学校での義務教育」が一般化していくことになったわけだ。


国が教育を一手に引き受けるって、なんだか大変そうですよね。

―国としてのまとまりを作るのに適した方法だったんだね。
 特に重視されたのは、国の発展のために役に立つと考えられた教育内容だ。
 それは、一方では国の中枢を担うエリート養成のため(工科大学は産業発展のために外国語教育は外交のためにといったように)、他方では「共通の常識」と「最低限の知識」を備えた「同質的な国民」を育てるためのもの。


ほとんどの人にとっては、「みんな同じ」を目指す教育ですね。

―例えば日本では、行政を担う官僚や軍隊の将校も、形式的には平等に選抜されるようになり、学歴社会が形成されていった。
 共通の尺度に基づき、「がんばればみんなできるんだ」という価値観が共有されるような社会のことだ(⇒"世界史のなかの" 日本史のまとめ 第21話 その4(1870年~1920年))。


でも、「共通の尺度」っていっても、それぞれの子どもに個性があるんじゃないですかね。

ーそうだよね。
 当然、画一的な国による教育に対して、反発も起きるようになる。

 大人中心の教育制度に対して「教育の最大の秘訣は、教育しないことにある」と唱えたスウェーデンの女性(注:エレン・ケイ)。

 子どもの個性を重視した新教育運動(注:イギリスのセシル・レディによるアボッツホルム・スクールやドイツのリーツによる田園教育塾)。

 子どもが主体的に問題をとらえて自分で主体的に解決していくことをサポートする学習(注:デューイの問題解決学習)。


  ドルトンプランウィネトカプランのように、「何を学ぶか」を子どもの裁量に任せようという動きも生まれた。

 いずれも西ヨーロッパ・アメリカで生まれた「国による教育システム」の問題点をどうやったらフォローできるかという視点から生まれたものだ。
 ここには挙げきれないけれど、多くの私学の学校も国と一定の距離感を持ちながら「独自の教育システム」を展開していった。


元・植民地も「学校教育」を導入する

西ヨーロッパ・アメリカ以外のエリアの教育はどうだったんですか?

―19世紀後半には、アジアやアフリカの大部分は、西ヨーロッパ・アメリカ合衆国の植民地になっていたよね。

 西ヨーロッパやアメリカが、工業化を進め世界中に進出することができたのは、「国民国家づくり」を進めるための教育制度を整備していったからにほかならない、ということで、19世紀後半になると植民地の現地人エリートたちの中には、西洋の教育制度の良いところを取り入れようという動きも出るようになる。
 でも、テキストの言葉は植民地の親分国(注:宗主国)の言葉だし、宗主国の政策にもよるけれども、植民地のすべての人が教育を受けられたわけでもない。


植民地から独立した後はどうなるんですか?

―第二次世界大戦にアジアやアフリカの国々の多くが独立したよね。
 その際、教育を国が推進するにあたって問題となるのは、まず言葉

 もともと宗主国だった国の言葉を、新しい独立国の公用語として使う国や、新たに公用語を設定する国もあった。

 しかし、ただでさえ民族の分布に関係なく引かれた植民地の境界線を、そのまま国境線にして「国づくり」をやっていこうというのだから、教育がうまくいかないのは当然だ。

 先進国を中心とする「工業化した世界」との世界規模のネットワークに取り込まれている以上、独立後は工業化をめざして国づくりをしていかなければならない。

 しかし、その基盤となる教育がうまくいかないのだ。
 文字を読むことができる人の比率も、なかなか上がらなかった。

 すると、どうしても「負の連鎖」に陥ってしまう。


「負の連鎖」?

ー教育が行き届かないと、最低限身につけるべき読み書きや計算が身につかない。
 農業が中心の社会でも、悪意のある契約書に「○」を書かされ、損害を被る恐れだってある。
 子どもが病気になっても、薬に書いてある文字が読めなければ、命を失う恐れも高まる。
 家族計画に思いが至らず、女性が自分の人生をコントロールする選択肢も乏しくなる。それに兄弟姉妹が多くなれば、赤ちゃんの面倒をほかの兄弟姉妹がみることになり、学校どころではなくなってしまう。
 工業化した社会であれば、基本的な業務内容が身につかず、仕事が続かない。計画的に物事を進める力が足りないのも、大きな壁となる。
 貧しくなり栄養が不足し、病気にかかっても十分な知識(注:医療リテラシー)がなく、適切な処置をとることができない。
 そうなると、学校に通うどころではなくなってしまう。

 まさに「負の連鎖」だ。


複雑化する世界、多様化する教育

―第二次世界大戦が終わると、アメリカ合衆国とソ連の二大勢力による冷戦の時代が到来する。

 先進国では「国力軍事力産業力」の方程式に沿って、科学教育が奨励され、学校の教育内容に大量の科学的知識が盛り込まれるようになっていった。日本も例外ではない
 また、ソ連のグループでは社会主義的な価値観が、アメリカ側では自由主義的な価値観が重んじられた。教育にも冷戦の影が落とされたのだ。

* * *


 しかし、20世紀の終わりに差し掛かるにつれて、「国が主導する教育」にほころびが生じるようになっていく。
 社会の産業化が行き着くところまで行き着き、サービス業に従事する人の割合が増えるなど、社会のしくみが変動する中であらかじめ決められた教育内容を押し付ける方向性に対する抵抗や、その風土になじめない子どもたちが現れるようになったのだ。


 その一方で、世界ではソ連グループの影響力が低下し、アメリカグループの推進する「自由な経済」が、世界中を覆うようになる。「競争原理」が教育の世界に持ち込まれるようになるわけだ(⇒”世界史のなかの”日本史のまとめ 1979年~現在)。

 例えばイギリスの女性首相(注:サッチャー)は、「教育予算の削減」「画一的教育の是正」「地方分権から中央集権へ」「試験制度の再整備」を次々に実現させていった。

 「自由な競争に基づく経済」が世界レベルで奨励されるようになると、同じ国の中でも教育格差が広がるようになっていく。
 その人が生まれ育った環境と学力との間に相関関係があるという意見も多く出されている。環境には、うちに本棚があったかとか、どんな経験をしてきたかといった文化的な環境も含められる(注:文化資本)。

 学校内・学校間の学力格差は国によってさまざまだけど、国による教育は誰にとっても ”平等” だっていう前提は絶対のものではなさそうだ。


 ちなみに、この時代の初め(1979年)にアメリカ側に立つ王様が革命で倒され、イスラーム教の指導者を中心とする体制に代わったイランでは、イスラーム教の教義に基づく学校教育が強化されている。

 この時期の中東では、アメリカに対する「反旗」の意味から、イスラーム教の伝統的な価値観を重んじる教育が推進されるケースも見られる。

 パキスタンでは、女子の教育を禁止しようとする武装勢力(注:アフガニスタンのタリバンと結びついたグループ)が、「自由に教育を受けたい!」とブログで世界に発信したところ、銃撃されて重症を負う痛ましい事件も起きている。



イスラーム教では女子は教育を受けることができないんですか?

ー一律にそういうふうには言えないよ。
 まず、女の子を守るために男女の区別をしっかりするイスラームの教義にのっとって、男の子と会う可能性のある学校に、女の子を預けたくないという親が多いことが背景にある。それにはイスラーム教ではなく、もともとの民族の文化が反映されていることもある。

 だから学校は男女別になっていることが多いんだけれど、そこにしっかりと教壇に立つことのできる女性の先生が確保できているかという問題になると、男女差別というよりも制度や経済面の問題といったほうがいいよね。


)イスラーム ⇔ 西洋
 人権無視  ⇔ 人権保護
 のように対比されがちだけれど、そもそも「人権」というのは西洋起源の考え方。ここに、イスラーム教徒が「女性を保護する」ために行っていることが、西洋からは「女性の人権を無視している」というズレが生まれる。
 イランでは革命後にたしかに学校の男女区別が厳しくなったけど、女子学校の数が増加し、専門教育などの分野で女子の就学率はアップした(注:三成美保『歴史を読み替える ジェンダーから見た世界史』大月書店、2014)。また、近年ではイスラーム教徒の女性にもライフスタイルに多様性が見られるようになっている。
 このことについては、「目標⑤ジェンダー平等を実現しよう」で見ることにしよう。

 これに限らず、宗教が原因に見えることの裏に、実は経済的な原因が潜んでいることは少なくない。

アメリカやヨーロッパの価値観に反発しイスラーム教を本来の教義よりももっと厳しい内容として解釈する動きの根っこには、先進国と結びつく独裁者の支配や、「自由な経済」の世界的拡大に飲み込まれることによって生まれる貧困や不公平な実態がある。
 世界中に広がるテロ(注:グローバル・ジハード)の思想そのものに目が行きがちだけれども、そうした根っこの部分を変えることが求められていると思う(⇒池内恵 第272回国際政経懇話会「グローバル・ジハードのメカニズム」講師講和概要)。


質の高い学習のために

で、初めの話に戻りますけど、「質の高い教育」って何なんでしょうかね?

ーここまで社会が複雑化しているからね。

 「これがどこにでも通用する理想の教育!」というのはないのかもしれないね。

 でも、それぞれの社会で求められるものは細かいところ違っても、共通して求められる要素はあるんじゃないかな。
 発展途上国の場合、それがなければ「失業→貧困→飢え→病気」といった負の連鎖に陥ってしまうような要素だ。
 年々減少しているとはいえ、発展途上国ではまだまだ多くの子どもが十分な教育機会を受けられていない。

 SDGsの指標をみてみると、まずは最低限の読み書き・計算能力が重要だ。技能だけでなく、心理的な発達も重要だね。貧しさや戦乱にあおられ恐怖におののき続けるような環境下では、とてもすくすくと育てないよね。それに女性と男性の差別(⇒SDGs目標5:ジェンダー平等を実現しよう)、障害の有無による差別(注:特別支援教育)、年齢による差別がないかどうかといったことも大切だろう(注:インクルーシブ教育)。

自閉症は、「常に自分の殻に閉じこもっている状態」と考えられたり、「親の育て方が冷たかったということが原因ではないか」と思われることがありますが、これは正しくありません。」(世界自閉症啓発デー



 教育は子どもだけが対象とは限らないからね。一旦ドロップアウトしてしまったら働き先がないとか、学び直しができないというのは、社会にとっても損失だ(⇒リカレント教育)。



「教育にアクセスすることが、生活の向上につながる」という視点ですね。

ーそのためには具体的には教員の養成や教員数の確保が不可欠だ。
 発展途上国では財政的な理由から十分な数の教員を雇うことができないことも多い。
 また、女子が学校に通うためには、女子トイレの設置(⇒SDGs目標6:安全な水とトイレをみんなに)も重要だ。
 日本では当たり前のことだけどね。



一方、先進国は先進国で、大変なところもありますよね。

―世の中の移り変わりが激しくなると、それについていくのは大変になってしまうよね。

 内容は勉強したことがどんどん古くなってしまう、そこでこの時代には、流行り廃りに関係なく、移り変わりの激しい社会でやっていくことができる能力(注:コンピテンシー)を育てるべきだという議論が進んでいったんだ。

 今までの「学校スタイル」にとらわれない教育の場も注目されるようになっているけど、民間の側に多様な選択肢が生まれることで新たに ”生まれによる「教育格差」”が進行するのではないかといったことも懸念されている(注:ペアレントクラシー)。


課題はまだまだたくさんありそうですね。

ーそうだね。

 国際理解教育、環境教育、安全教育防災教育、STEM教育、人権教育、宗教教育、同和教育、食育、歴史教育、消費者教育、服育住育、性教育、公民教育、平和教育などなど、挙げたらキリがない。

 課題は山積みである一方で、少子化の進む先進国では財政的な問題もあって、教育への予算の配分は少なくなりがちだ。

 その裏では、新興国の政府は教育にとっても力を入れている。例えばシンガポールでは、最新の情報機器を取り入れ、トップダウンの政策により熾烈な競争をもたらしている


でも、これまでほかの目標で何度も見てきましたが、開発を重視することによる”負の側面”も考えないとですよね。

ーそうだね。
 先進国は”しくじり先生”として、失敗を生かす知恵を他国と共有することができるだろうし、途上国には途上国のサステナブルな生活の知恵がある。
 世界中に広がったインターネットなどの技術を通して、ますます密接になるつながりを利用すれば、国を越えて学びを解決できるフィールドは、まだまだたくさんある。


知識の共有と言い伝え(注:コレクティブラーニング)は、人間のにしかできない強みですもんね。

ーかつて、インドの女性思想家は、自分とはまったく異なる境遇の人のことを理解するには、意図的に「自分が今まで学んできたことをunlearnする必要がある」と書いた(注:スピヴァク)。
 learnの反対(=un)で、アンラーン
 「学び捨てる」という意味だ。

 SDGsで挙げられている課題と向き合うときにも、「当たり前」だと思っていることを「思い切って疑う力」が求められているのかもしれないね。

  


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