【ニッポンの世界史】第17回:受験戦争が変えた「教養」—1960年代の進学校と予備校
分離ありきで進められた世界史A・Bへの改訂
1960年度告示学習指導要領でA科目とB科目に分けられた世界史。いずれにしても以前に比べて標準単位数が減らされることとなりました。
この背景には前回みたように、企業の求める質の高い就職者を確保するため、実業課程向きのざっくりとした世界史が求められた事情があります
学習指導要領づくりに携わった教材等調査委員会の明石委員は次のように発言しています。
明石と同様のことは、木村茂夫も発言しています。実際にそのような成り行きで改訂されたのでしょう。
ここで出ていたAの案は、のちに1970年度版の学習指導要領で実現するプランでありますが、1960年度版においては、そうはなりませんでした。
これでは、世界史AとBの違いは「Aでは文化の個々の作品について十分扱えない。Bの場合にはそういう点を少しよけいに総合しながら扱っていくということもできる」くらいの異なりにすぎなくなるとの憂慮もあって、Bには5〜10個ほどの主題を設けて、それに約30〜35時間ほどをもうけて具体的に深めていくようにした(木村茂雄による)ということです。
ようするにAとBを分けることが先に念頭に置かれていて、AとBを分ける本質的な理念はまるでなかったわけです。
こうして、A・Bという枠に合わせて「やむなくひねり出した」といわれてもおかしくない、そういった建て付けの科目ができあがりました(『現代の高校教育12』37頁)。
進学校からの不満
進学校の教員たちは、3〜4単位で世界史Bを進めることへの「ゆとりのなさ」を感じていました。
もともと5単位で教えることがしみついていたこともあるでしょう。2年にわたって教える分割履修も「必ずしも時間的に内容的にゆとりをもたらすものではない」とある教員は述べています。ゆとりがない以上、「主題学習」なんてやる暇などないということになるわけです(『現代の高校教育12』145頁)。
これを聞いて、いやいや、まずは「効果的授業を実施する」方法を考えればよいではないか、いかにも前時代的だと感じる教員も多いでしょう。
しかし、いまは、この当時の一教員の声にじっと耳を傾けてみたいと思います。
彼らの考えていたあるべき世界史像とは、「教科書に書かれている内容を、正確に生徒に理解させること」でした。たとえ主題学習の目的に意義があるのだとしても、これでは自分の務めが果たせなくなってしまう。そういう強い不満があったわけです。
ここには戦後間もなく構想され、主題学習で構成された「社会科世界史」の理念の面影は、もはやこれっぽっちもみられません。
彼らのいう世界史教員の務めは、いまや進学校における大学進学者向けの受験指導にほかなりません。
受験産業の成長:学習参考書と予備校
1960年代の大学・短大の合格率は約60%、受験生の10人に4人は不合格となる状況は、旺文社の大学受験情報誌『螢雪時代』(1967年に大判化)によって「受験戦争」「受験地獄」と形容されたほどです。
1960年代ともなると、世界史の入試選抜問題には一定のパターンができあがり、約10年分の過去問を分析・掲載したり、解法を指南したりする受験参考書が多く出版されています。
1960年代を通して大学受験者は右肩上がりで、それに対応する予備校産業も成長しました。1955年に河合塾が学校法人に改組、1957年には高宮学園代々木ゼミナールが創立。神田駿河台に駿台高等予備校(現・駿台予備学校)西校舎(現・お茶の水2号館)が完成したのは1960年のことです。1965年には日本で初めて大学入試難易ランキング表が河合塾によってつくられ、大学入試の序列が受験産業によって可視化されていくこととなりました。
なお、当時の予備校講師は大学関係者が務めることが多く、高校からの人気教員の"引き抜き"も存在しました。
代々木ゼミナールで山村良橘(1970年代後半から1980年代半ばまで登壇)とともに一時代を築いた武井正教(1922〜2016)も、新宿高校から引き抜かれ、高校と代ゼミを兼務していたと回想しています(鈴木正弘ほか「歴史教育体験を聞く」『歴史教育史研究』15、87-103頁。武井正教氏の世界史構想については、またふれます)。
なお、困り果てたのは現場の教員だけではありません。AとBにどう違いをもたせるか、教科書編集者も頭をかかえました。 同じ編集者がA・Bの両方の教科書を担当する場合であれば、活字の大きさをちょっと変えた程度で、Bのほうの最後の資料や主題学習のテーマをおまけのようにつけるといった教科書が横行します。いま高校生の教科書にふれている人であれば、たしかにありそうな解決策だなと思われることでしょう。
なぜ世界史Bの進度は遅れるのか?
最後に、先ほどから紹介している一高校教員が、授業の進度が遅れている理由についても、耳を傾けておくことにしましょう(『現代の高校教育12』、147-149頁)。
彼によれば、第一に挙げられるのは、文部省の標準単位が、実際に実施可能な授業数(実時数)にあっていないというもの。特に突発的に入る行事によって、授業時数の見込み違いが起きてしまうというわけです。
これについては教員が正確に見込んで、把握するべきだと述べています。
二つ目は授業の組み立て方による原因です。
「われわれは常に教科担当者として生徒たちがより広く、より深く理解し学習になじんでくれることをのぞみ世界史教科の試験にはそれ相当の成績をとってもらいたいと願うのは人情であろう」とした上で、そのために必要以上に専門的内容をほりさげる教材研究をしてしまいがちだが、それが授業進度を長くする原因だというのです。
これもうなずける話でしょう。
では具体的に、何が授業を長くさせるのか。おおまじめに分析された結果は次のとおり。
なにかを見せるにしても、掛け図や印刷物しかなかった時代です。スライド写真の投影機があれば万々歳というところでしょう。しかし調子に乗って「いたずらに数多く提供することは逆に生徒の混乱と負担をまねき、さらに進度の展開を阻害するのではないか」と述べています。
とはいえ、この教員が続いて指摘するように、先ほど述べた世界史の大学入試科目化の流れも、授業の進度を圧迫する要因と感じられていました。
「大学入試科目としての世界史」>「教養」
さはさりながら、この教員はこの状況になんとか適用するにはどうしたらよいか、苦慮しつつも考えようとします。
第一については、これを達成するに時間的制約を意識して、理解度を高めるような「反復的」指導が必要で、それを無視して機械的にすすめていくだけでは学力もつかないし、実際行われている例が多かったという「半強制的課外や個人教授」を迫ることになり、生徒の主体性もなくなってしまうだろうと指摘されます。
第二点については、時間的制約を意識するあまり、学習事項の省略に走ってしまったら、「それはたんに一般教養的なものとしてただ暗記されるだけのものであってなんら歴史的な人生観、世界観の把握に研修する興感すらわかないのではなかろうか」と述べられます。
ここで注目すべきは教科書の内容をさらに省略してしまったら、それは単なる「一般教養」の暗記になってしまうという、この教員の「教養」に対する認識でしょう。
前回みたように、教養といえば、旧制中学的な、大正時代以降の読書を基盤とした人生観にふれるような営為を指すものでした。戦後間もなくは、むしろ「働く青年」たちの間に、実利に直結しない教養を求める動きがあったのでしたよね。
しかし、どうでしょう。
ここでの認識は、大学入試科目の世界史が、一般教養よりも一段上に置かれるものとなっています。
しかもそれを教えこむのは常に「時間との戦い」なのであって、資料を満足に読み込む時間すらなく、講義一辺倒になってしまいかねないものでありました。
すべての事項について、その理屈を説明し、「消化」させる必要がある。その理路を生徒に講義する時間が減ってしまったならば、それは単なる痩せ細った知識の暗記、すなわち「一般教養」に堕してしまう——。
豊かな読書に支えられた教養に対する眼差しの変化は、受験戦争の激化とも連動するものでもあったようです。
なお、最後の三つ目の地方高校教師としての悩みは、いいかえれば教育インフラ、あるいは文化資本の問題です。いまでこそ生涯学習や社会教育の目的で、土日にも開館されるようになった図書館ですが、特に地方ではまだまだ充実した設備が整備されてはおらず、教員にとっての一番の悩みは、教材の入手であったというべきでしょう。
「学校世界史」「受験科目世界史」を超えて
こうしてみてみると、世界史A・Bの目指すものが曖昧であったことや授業数の突然の減少が、大学受験の競争激化とも重なり合って、世界史の暗記科目化をいっそう推し進めたように思われます。
ただ、この傾向に直面した高校教員や予備校講師がみな、この流れに棹さしていったわけではありません。
これ以降の世界史教育は、高校だけでなく予備校も舞台に加え、受験という目的に対してあるいは反発し、あるいはこれを手懐けることで、「学校世界史」あるいは「受験科目としての世界史」に対するアンチテーゼを探っていくようになります。
(続く)
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