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歴史のことば No.19 「今日の気候変動は別の意味で歴史の産物でもあるのだ。」

人新世という言葉が、だいぶ知られるようになった。

自然科学の用語なのだから定義がしっかりしているのかといえば、そういうわけではない。学術的には、かなり込み入った論争を含むやっかいな言葉でもある。
だが、「人間が地球におおきな影響を与える時代」という意味として、おおかた流通しているようだ。
すべての流行語がその道をたどるように、言葉の送り手と受け手のあいだで、必ずしも意味の一致をみないものの、それとなく流通している。そんな「言語ゲーム的状況」にあるのが、現状の「人新世」の使われ方ではないか。


そこで今回は『水の大陸アジア―ヒマラヤ水系・大河・モンスーンとアジアの近現代』を取り上げ、いったい何が議論の的になっているのか、かんたんに紹介してみたい。




『水の大陸アジア』



装丁からして、一見すると一般向けのサイエンス関係の書籍のようにもみえる。わたしも書店で見かけたとき、はじめはそうおもった。だが、その内容は

スニール・アムリス

著者解説によると、スニール・アムリスはイェール大学の歴史学教授。南アジアの移民史、環境史、公衆衛生史を専門とする。
インド人の両親のもとケニアのナイロビで生まれ、シンガポールに移り住んだ。その経験が、アジアの海洋都市、民族、文化への関心を育てたのだという。

スニールによる本書は、人間社会がどのように自然に対処してきたのかを描いたものではない。
自然も人間とおなじ「アクター」として取り扱い、人間とモンスーンの織りなす国境を超える歴史(グローバル・ストーリー)を描くものだ
そこには、自然をコントロールしようとする人間の挑戦と、互いをときにケアし、ときに苦しめる人間たちの営みが丹念に記されている。


南アジアには、いまだに貧困がはびこっている。

その原因は、イギリスによるひどい植民地主義にあったのだし、その影響は独立後もつづいている

このように、独立後もつづく旧宗主国による”加害”を告発する思想を「ポストコロニアリズム」という。ヴァンダナ・シヴァに代表されるインドの社会運動においても、インドの社会問題や環境問題は、しばしば欧米諸国に対する異議申し立ての文脈の中で語られてきた歴史がある。

たしかにヨーロッパによる統治は、インドの社会や生態系に、計り知れない影響を与えた。


しかし、「緑の革命」や巨大ダムの開発それ自体は、独立後のインドが「近代化」のために積極的に推進してきた政策だ。
また、1990年代以降、インドは世界の資本市場に門戸をひらいた。21世紀に入り、その経済活動のもたらした自然改造が、アジアのモンスーンの流れ自体を変化させるに至っている現状もある。
もはや、加害と被害を固定的にとらえることは、むずかしい。


スニールは次のように述べる。

「雨雲、ヒマラヤの氷河、河川の流れ、海岸線の姿、海面の高さ、サイクロンの勢力など、気候変動はあらゆる形態の水に影響を与えずにはおかない。それは後戻りできない歴史的な現象なのだ。スウェーデンの歴史家でマルクス主義の理論家アンドレアス・マルムは、「気候変動の嵐は、正確にいうなら、過去2世紀にわたって無数に繰り返されてきた燃焼行為から力を得ている」と説いている。しかし、今日の気候変動は別の意味で歴史の産物でもあるのだ。

同書、371頁。

アンドレアス・マルムは、近代以降欧米諸国の推進した資本主義が気候変動に与えた影響を論じ、人新世はむしろ「資本新世」であると主張する研究者・社会運動家だ。
これに対しスニールは、加害と被害の構造を、より長いスパンでとらえようとする。欧米諸国がスタートさせた化石燃料に基づく経済成長は、1950年代以降、非欧米諸国においても採用されるようになっているのだから。同様の視点は、最近ではむしろインドの文学者や思想家の中からも指摘されるようになっている。




『大いなる錯乱』


そのうちの一つが、アミタヴ・ゴーシュの『大いなる錯乱』だ。あまり注目されているようには思えないが、昨年訳書の刊行があって驚いた。さすが以文社。


アミタブ・ゴーシュ



このなかで、作家アミタヴ・ゴーシュも、植民地主義というたかだか200年ほどのスパンの出来事を、どのように地球全体の歴史に接続して考えることができるのか、魅力的な議論を展開している。
うんとシンプルに言えば「地球温暖化は欧米諸国による植民地主義のせいなのか?」という問いをめぐる議論である。


ゴーシュは次のように挑発的な仮定を披露する。

[…]もし脱植民地化と(日本をふくむ)帝国の解体がより早く、たとえば第一次世界大戦に生じていたら、なにが起きていたのだろうか。アジア大陸諸国の経済成長はもっと早い段階で加速していたのだろうか。
もし答えがイエスならば、おなじように肝要なまた別の問いが生じるだろう。帝国主義はアジア・アフリカの経済的拡大を遅らせることによって、気候危機の開始時期を実際に先送りしたのだろうか。もし20世紀の主要な帝国がもっと早く解体していたならば、[地球上で現在の生命環境を維持できる最大許容量とされる]大気中の二酸化炭素濃度350ppmという目標値は、実際よりもずっと前に突破されていたのだろうか。
 その答えはほぼまちがいなくイエスだ、とわたしは思う。実際このことは、グローバルな気候交渉に際してインドや中国、その他の国がとってきた立場のなかに暗黙のうちにほのめかされている。ひとりあたりの二酸化炭素排出量にかんする公平性についての議論は、ある意味で、失われた時間についての議論なのだ。

アミタヴ・ゴーシュ(三原芳秋・井沼香保里訳)『大きなる錯乱―気候変動と〈思考しえぬもの〉』以文社、2022年、183頁。


人新世をどうとらえるか


人新世をどのようにとらえるか。人間が地球を”管理”するべきだという言説は、裏を返せば人間に地球を管理しうるほどの力を認めるということでもある
でも、果たしてそんな力を人間がもっているのか?
持っているとすると、それは科学者だけなのか?
その力を、何のために、どの程度なら使うことが許されているのだろうか?

いわゆる気候変動の「ティッピング・ポイント」の引き金を引いた責任は、特定の”加害者”に帰せられるものなのだろうか?
 
それともわれわれがもし、政治体制や経済体制にかかわりなく、いわば集団的にこの惑星の気候変動に加担しあっているのだとしたら?

いや、そもそもそこでいう「責任」っていったい何なのか?


こうした問いに答えるためには、目の前で起きていることを長い歴史的なスパンでとらえる力、そして国境を超える想像力が必要だ。
かつて叫ばれた「国際化」のような文脈ではなく、地球全体の営みを視野にいれた想像力のことである。


環境危機の時代を迎え、ローカルな歴史やナショナリズムに訴えるだけではもはや十分とは言えない。現在、アジアが直面する水のリスクを記した地図やグラフを容易に見ることができるが、こうしたリスク評価は、国境に対して注意を向けていないのは明らかだ。これまでにない環境の歴史―河川によって結ばれ、拡大してきたアジア全体の歴史―が約束するのは、こうした河川も文化的な意味づけや政治的な意味づけで満たすことなのだ。

同書、434頁。

関連して、来月初旬、ディペシュ・チャクラバルティの著作が、日本はじめて訳出刊行されるという(ようやく!!)。チャクラバルティはもともとポストコロニアル歴史学の旗手であり、近年は地球の歴史を人間の歴史とどのように接続させるべきかを思索しつづけている。こちらも必読だ。楽しみにしたい。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊