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世界史のまとめ × SDGs 第15回 モンゴルによる陸海の交流の活性化と疫病の大流行(1200年~1500年)

SDGsとは―

世界のあらゆる人々のかかえる問題を解するために、国連で採択された目標」のことです。
 言い換えれば「2018年になっても、人類が解決することができていない問題」を、2030年までにどの程度まで解決するべきか定めた目標です。
 17の目標の詳細はこちら
 SDGsの前身であるMDGs(ミレニアム開発目標)が、「発展途上国」の課題解決に重点を置いていたのに対し、SDGsでは「先進国を含めた世界中の国々」をターゲットに据えています。
 一見「発展途上国」の問題にみえても、世界のあらゆる問題は複雑に絡み合っているからです。
 しかも、「経済」の発展ばかりを重視しても、「環境」や「社会」にとって良い結果をもたらすとはいえません。
 「世界史のまとめ×SDGs」では、われわれ人間がこれまでにこの課題にどう直面し、どのように対処してきたのか、SDGsの目標と関連づけながら振り返っていこうと思います。

* * *


Q. モンゴル人はユーラシア大陸にどのような影響を与えたのだろうか?

SDGs 目標16.6 あらゆるレベルにおいて、有効で説明責任のある透明性の高い公共機関を発展させる。
SDGs 目標16.7 あらゆるレベルにおいて、対応的、包摂的、参加型、および代表的な意思決定を確保する。
SDGs目標16.8 グローバル・ガバナンス機関への開発途上国の参加を拡大・強化する。

歴史:ついにユーラシア大陸のほとんどの地域が、モンゴル帝国のもとで「ひとつ」にまとまる時代がやってくるよ。


「ひとつにまとまる」って、「ひとつの国」ができるってことですか?

歴史:モンゴル帝国って聞くとそういうイメージがあるかもしれないけど、そういうガッチリとしたイメージではないよ。

じゃあどういうことですか? 

歴史:今までも遊牧民が定住民を支配するというパターンはあったわけよね。
 支配先の住民の有力者に代わりに支配を任せるのが、彼らの伝統的な支配のやり方だ。

 文書をつかった実務的な行政能力は、定住民のほうが得意だからね。

イランのある歴史家はモンゴル人の支配者につかえ、アダムとイブに始まる「全ユーラシアの歴史」を著している(注:『集史』)


 文書を扱うときにもモンゴル語だけでなく、中国なら漢字の翻訳文書も用いられた。
 モンゴル語と中国語の「会話テキスト」すらあったんだよ。

それだけ多くの人がユーラシア大陸を行きかっていたってことですね。

―そうそう。国を超えて通行する場合も、公に許可証が発行された(注:牌譜)。
 また、商業に関しても、商業のエキスパートたる民族に任せた。
 「餅は餅屋」というわけだ。


じゃあ、モンゴル人の仕事は何なんでしょう?

歴史:彼らの強みは機動的な軍事力だよね。

 それによってユーラシア大陸の治安を改善させたわけだ。

 彼らの支配方式の特徴は、土地を耕させて税を取り立てるばかりではなく、新しいところはユーラシアを東西につなぐ「大動脈」を整備することで、ビジネスを回してリッチにしようとした点にある


なるほど。それだけスケールの大きなことができるほど、軍事力があったってことですよね。

歴史:そうだよ。まだ遊牧民の戦力は、人類史上最強だ。
 定住民が束になって挑んでも、遊牧民にとって良い条件がそろえば無敵だ。
 このようにしてユーラシア大陸を多くのヒト、モノ、カネが移動するようになったのは、モンゴル人のおかげというわけだ。

 その範囲は「地球全体」というわけではないから、「グローバル化」とはいえないかもしれないけど、ユーラシアのビジネスルートは西のヨーロッパやアフリカ方面ともつながっていた。
 このルートは新しくモンゴル人が開発したわけではなく、従来からソグド人、ユダヤ人、ウイグル人、インド人、イスラーム教徒の商人などが歴史的に組み上げてきたものだ。

 少なくともモンゴル人がやったことの意義は、「ユーラシア大陸とアフリカ大陸の世界の一体化」ということにはなるね。

モンゴル人は中国ではどんな支配をしたんですか?

歴史:中国南部の国際的な港町(注:泉州)や長江下流の稲作地帯を擁していた国家である南宋を滅ぼしている。
 モンゴル帝国がまとめる前のユーラシア大陸には、下の地図のように実にいろんな国がバラバラに各地を支配していたんだけど、それをひとまとめにしていったってわけだ。
 その総仕上げとして、中国の皇帝を名乗る「南宋」を滅ぼしたんだね。

 これによりモンゴル人は「海に進出した遊牧民」となった。
 イスラーム教徒との海上貿易も、積極的に行おうとしているよ。

中国支配のために現在の北京に置かれた首都(注:大都には、海に直結する運河が張り巡らされていた。

* * *

 モンゴル人は、中国における従来のエリートよりも、実務能力にすぐれ外国語を解する西方のトルコ人やイラン人を官僚に取り立てた。
 中国人であっても、反抗さえしなければ高官に取り立てたんだ(注:色目人)。
 支配者の権威を後ろ盾に、彼らがキチンとした書式を一筆したためるだけで税がたんまりとれるわけだからね
 そりゃあ重宝されるわけだ。


モンゴル人はユーラシア大陸レベルで、さまざまな「役割分担」をしていたんですね。

歴史:たしかに。はモンゴル人、商業はイスラーム教徒、農業は中国の定住民っていうふうにね。

 モンゴル人のつくったネットワークはその後も残っていく。

モンゴル人のつくった世界地図。ユーラシア大陸のほぼすべてをカバーし、当時のほかの地域の世界地図よりも、ずっと正確な情報であった。

 農民反乱によってモンゴル人が中国から撤退した後、新たに中国に立ち上げられた明という政権も、モンゴル人がかつてコントロール下に置いていた海上交易ルートをふたたび支配下に置こうとした(注:南海大遠征)。



 このときにはアフリカにまで大艦隊が到達したという記録が残っている。


モンゴル人はイスラーム教徒の世界にはどのような影響を与えていますか?

歴史:イスラーム教徒を広めた預言者の「代理人」(注:カリフ)が、アッバース朝の指導者としてイラクのバグダードを拠点に存続していたんだけど、モンゴル人の将軍に殺されてしまう。


イスラーム教のトップが殺されてしまったんですか…。

歴史:その頃、モンゴル人の将軍と戦って名声を得た将軍が、エジプトの政権を武力で倒して、殺されたカリフの親族を「カリフ」として擁立し、自身はエジプトに新しい政権(注:マムルーク朝)を建てた。

 彼は力づくで政権を建てたことへの「負い目」もあって、イスラーム教を保護することに全力を傾けた。この時期にはエジプトにいたキリスト教徒の多くとの摩擦も強まり、イスラーム教徒に改宗するキリスト教徒が増えていった。

 一方、イラクとイラン方面ではモンゴル人の王国が建てられている。


モンゴル人はイスラーム教徒を支配できたんですか?

歴史:中国とおなじように実務的な行政はイランの有力者に任せたので、摩擦は少なかった。
 西のビザンツ帝国と友好関係を深めるという柔軟な立場をとり、のちには君主みずからイスラーム教徒に改宗し、税制も人を単位としてとるのではなく、主に収穫物からとる方式に改めている。


柔軟な方式をとっていたわけですね。
最後にヨーロッパとの関係はどんな状況ですか?

歴史:当時のヨーロッパは、キリスト教の世界観を旗印に、君主が家柄を重んじて国内をガッチリ支配する体制がつくられていた(注:君主国)。
 “ヨーロッパはキリスト教の世界(=体のようなもの)”という価値観は共有されているけど、各地でその主導権をめぐっていくつもの家柄が、婚姻による同盟や土地をめぐる争いを繰り返している状況だ。
 ヨーロッパは、日本人がイメージするよりも面積が狭いからね。


どうして対抗しているのに、ほかの家柄と婚姻関係を結ぶんですか? 余計にややこしくなるじゃないですか。

歴史今とは比べ物にならないほど乳児死亡率が高いからだよ
 跡継ぎがなくなったときのために「保険」をかけていたわけだ。

 西ヨーロッパのイングランド、フランスでは、国王の力は比較的つよかった。
 フランスの東のドイツ地方には、有力者がひしめく状態が続き、その中から選挙によって「神聖ローマ皇帝」という肩書きを持つ皇帝 兼 ドイツ王を選ぶことになっていた


神聖「ローマ」帝国ってことは、イタリアも支配しているわけですか?

歴史:たしかにイタリアも支配できていなければ格好がつかないわけだけど、なかなかそうもいかない。
 当時ヨーロッパでも、ユーラシア大陸の商業の活況を背景として、北方のバルト海と南方の地中海、そして東方の黒海やインド洋を結ぶ商業エリアが活発になっていた。そこで陸上ルートや毛織物などの産業の拠点、それに港町には有力な家柄の指導者が莫大な富を稼ぎ出していた。

 東ローマ帝国の首都であるコンスタンティノープルは、この時期に組織された「十字軍」という、「キリストの名のもとに集められた戦士たち」によって攻め落とされ、東ローマ帝国は一時的に滅亡してしまった。

 さらにローマのカトリック教会も、教皇をトップに組織づくりを固めており、各地の国王たちよりも「格上」ということが示された。

 そういうわけで、「神聖ローマ帝国」っていうのは名ばかりで、実際の支配地域はドイツに限られていた。


ヨーロッパはモンゴル帝国の攻撃はもろには受けなかったわけですね。

歴史:そうだね。東方のキエフ公国(現在のウクライナにある、ロシアのルーツとなる国)はモンゴル人に服属を余儀なくされているけど、かつてのフン人の襲来のように、西ヨーロッパにまでは攻めてこなかった。


 だから逆にいえば、「キリスト教」という価値観が強く共有されたところはあるね。商業の活発化を背景として各地には高層の教会建築が建てられ、石工職人や修道士たち、学者たちがヨーロッパ各地の都市をまわるなど、同質的な世界が形成されていくことになった。

この時期に建てられた高い塔を特徴とする大聖堂。和音を駆使する教会音楽も発展していった(注:シャルトル大聖堂)。


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Q. 人間は疫病の流行に対して、どのように立ち向かってきたのだろうか?

SDGs目標3.3 2030年までに、エイズ、結核、マラリアおよび顧みられない熱帯病といった伝染病を根絶するとともに肝炎、水系感染症およびその他の感染症に対処する。

ここまでの世界史をみていると、このような調子の良い状況はずっとは続かなそうですね。

歴史:うん、その予感は当たってる。

 人や動物の往来が盛んになればなるほど、病気も一緒になって移動するよね。今までは人里離れたところでしか流行っていなかった病気が、一気にユーラシアレベルに広がってしまったんだ。

「パンデミック」ですね。 インフルエンザですか?

歴史:当時、中国からヨーロッパまで猛威をふるったのは、ペストという病気だよ。
 各地でおびただしい数の犠牲者を出して恐れられたんだ。世界的に気候も寒くなって食料の取れ高も少なくなり、社会不安から反乱や戦争も多発した。 

 その後各地で支配者たちがこの危機を乗り越え、各地で息を吹き返していくことになるよ。
 広い範囲がまとめられたがゆえに、逆に各地で「自分たち意識」が芽生えていったのだともいえる。



例えばどんな国の「自分たち意識」が強くなっていったんですか?

歴史:西のほうではオスマン帝国

 イランではペルシア帝国。
 インドではムガル帝国
 中国では大明という帝国。
 どの国もルーツや特徴をみると、かつてのモンゴル人の大帝国の影響がみられるよ。

 どの国も遊牧民のうじゃうじゃいる中央ユーラシアを避け、活躍の場所を海へ移していった。こうして、ユーラシア大陸の南の方の海の貿易が、史上もっとも盛んになる。

陸から海へ、中心が移っていったんですね。

歴史:そういうわけだ。
 航海の技術も各地で発展していったよ。

ヨーロッパも同じように海へと乗り出していったんですか?

歴史:そうだよ。
 この時代のユーラシア大陸西部はペストの猛威を受け、「危機の時代」を迎えている。

 教皇の権威が低下して、異端(いたん)とされたグループの活動が活発化するようになった。そんな中、教皇が独断でなんでも決めるのではなく、公会議で話し合うことが重視されるようになっていく。
 ペストによって人口が激減したことも影響し、農業に基盤を置く領主制も立ち行かなくなっていった。

 また、バルカン半島にはトルコ系のイスラーム教政権であるオスマン帝国が進出し、東ローマ帝国を滅ぼしてしまう
 オスマン帝国は、現地の有力者に利権を与えて順次服属させ、現地の少年を兵士として徴用することで仲間を増やしていった。キリスト教の信仰も認める柔軟な統治スタイルだったんだよ。

ついに東ローマ帝国が滅んだんですね!

歴史:長い歴史だったよね。
 でもこれにより打撃を受けたのはイタリアの都市国家だ。
 東ローマ帝国を介してアジア方面と貿易をしていたわけだから。

 ただ、東方の文化の「窓口」となったイタリアの都市国家では、イスラーム教徒の翻訳した古代ギリシアやローマの文献の影響も受け、キリスト教の考えにとらわれない自由で人間中心的な発想が育っていった(注:ルネサンス)。

イタリアのキリスト教徒にとって「ギリシャやローマの文化」は、もはや「異文化」に近いものとなっていた「自由な発想」を促し、数々のイノベーションにつながった。(注:ルネサンスの中心となったイタリアの都市フィレンツェの現在の風景)

 商売人の出身者でも、簿記の勉強を通して文献が読めるだけの教育水準が整っていたということだ。

なんだか同時期の中国と似ていますね。

歴史:中国では、モンゴル人に支配された時期に出版が盛んになり、庶民の文化水準が上がっている。
 学問の世界にも、「ただ単に難しい書物を読むだけでは「頭でっかち」になってしまう。自分自身の心の中に宿っている「答え」を呼び覚まし、日々の生活の中で、磨くべきだ」とする運動も起きている(注:陸王学)。そのほうが庶民の実感にも合っていたので、広く受け入れられることになっていく。

 お坊さんのインドへの大冒険を描いた『西遊記』(さいゆうき)もこの時代に原型ができあがっているよ。
 文化がアップデートされていくには、異質なものに触れることで視野が広がることが大切なのかもね。


今までになかった視点っていうのはどのようなものですか?

歴史:平民だって聖職者だって、同じくペストにかかって死んでしまう様を見て、「死の舞踏(ダンス)」というイラストが好んで描かれている。
 神やイエスに代わる、斬新なモチーフだ。

この時期の末にドイツの画家が描いたもの(wikicommonsより)


 その人間に中心を置く考え方が、のちにペストそのものの原因を突き止めることとなる「近代科学」につながっていくことになるよ。


ちなみに、アフリカはどんな感じですか?

歴史:あちこちで貿易ブームで成功した国が栄えている。

 西アフリカではサハラ砂漠の横断貿易で、砂漠を流れる一本川の流域に巨大な国が栄えている(注:マリ王国)。
 さらにそことエジプトの中間地点にあった湖(注:チャド湖)にも、貿易ルートをおさえた王国があるね。

 インド洋沿いにも巨大な港町を支配する支配者が現れて、内陸から象牙とか金といった特産品を輸出してリッチになっていた(注:スワヒリ文化)。

 南東アフリカでは、内陸でも特産品をコントロール下に置いた王国が現れ、岩でつくった巨大な宮殿(注:グレート・ジンバブエ)もつくられている。

 ただ、ペストの流行はアフリカも例外ではなく、エジプトの政権(注:マムルーク朝)が衰えるきっかけとなっている。

 ちなみに日本の「夏の風物詩」スイカはアフリカ原産で、このころようやくユーラシア大陸を通って日本に伝わったようだ。


南北アメリカはユーラシアやアフリカ大陸との接点はないんですか?

歴史:この時代のいちばんおしまいの頃、ようやく接点が生まれるんだ。

 当時、ユーラシア大陸の「ど田舎」だったスペインの王様は、イベリア半島のイスラーム教徒の政権を滅ぼしていたところだ。

 すでにイスラーム教徒の勢力を追放していたポルトガル王国の王様は一足先に貿易ブームに乗っかろうとしてアジアへの貿易ルートを開拓していた。
 アフリカ最南端をまわって、東アフリカに到達。


 イスラーム教徒から交易ルートを教えてもらい、季節風の力でインドに到達した。

じゃあ、スペインもおなじようにインドへ?

歴史:いや、それがひょんなことに、たどり着いた先はアジアではなくて、まったく未知の大陸(南北アメリカ大陸)だったんだ。


どうやってアメリカまで行ったんですか?

地理風の力を利用した船だよ。イタリアの最新技術の船を参考にしたものだ。
 スペインからアメリカまでは、一年を通して東から西向きの風が吹く(注:北東貿易風)。
 行きはこの風に乗ればいい。
 で、帰りはちょっと針路を北にとる。
 すると、北のほうに一年を通して西から東向きの風が吹くエリアがあるから、これに乗れば帰れるというわけだ(注:偏西風)。


さぞかしびっくりしたでしょうね。お互いに。

歴史:当時のヨーロッパ人にとったら「火星に着陸するようなインパクトだよね。
  それでもまあ現地に住んでいる人は、「宇宙人」ではなくて、自分たちと同じ「人間」なんじゃないかということになった。

 でも彼らには鉄や車もないし、ヨーロッパ人の持ち込んだ病気でバタバタと倒れていくこととなった。

 ヨーロッパ人とアメリカ人との出会いは初めっから「対等」ではなくて「不平等」な出会いだったんだよ。

 ちなみに、アメリカからはトマト、トウモロコシ、ジャガイモ、トウガラシなど、今となっては世界中で料理に欠かせない食材が持ち出され、世界中に広まっていくことになる。


ちなみに北アメリカはどんな状況だったんですか?

歴史:前の時代(800年~1200年)にヴァイキングがヨーロッパからグリーンランドや北アメリカに渡って集落をつくっていたの覚えてる?

暖かかった時期のことですよね。覚えています。

地理:それがこの時期には、地球は寒冷化に向かうんだ。

犬ぞりhttps://www.sleddogcentral.com/canadian_eskimo.htmより)


 それにともない、まず北の寒冷エリアの狩猟採集民の生活がガラっと変わる
 もともとは大規模なクジラの漁もできなくなり、寒冷化が進んでクジラの漁ができなくなると、トナカイやアザラシの狩りを中心とする生活へと変わっていったんだ。犬ぞりを交通手段とする。
 一部はグリーンランドにも進出している。もともとヴァイキングの住処のあったところだ。

ほかに変わったところはありますか?

地理:家の材料だ。今まではクジラの骨が使用されていたけど、しだいに冬季には氷の家(注:イグルー)も作られるようになっていく。
 彼らは現在の北アメリカ大陸に分布する「エスキモー」という民族の直接的なルーツだ。。

彼らなりに気候変動に適応したわけですよね。それが現在まで維持されているってすごいことですね。

地理:気温の低下の影響は北アメリカの内陸部では「乾燥化」として表れた。
 もともと南西部には「オアシスアメリカ」といわれる乾燥エリアでトウモロコシ農業を営むエリアが発展していた。


 周辺にはナラやブナの林もあったことがわかっているし、その東には「プレーリー」と呼ばれる温帯の草原も広がっていた。
 でも、この時代の終わりには乾燥化によってこの文明は壊滅的な被害を受けることとなる。

プレーリーの風景(アメリカ合衆国サウスダコタ州、wikicommonsより)

巨大な集落があった(注:チャコキャニオン

人類の生存にとって、環境ってとても大切なものなんですね。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊