さてさて、16〜18世紀を通して、西ヨーロッパでは経済成長が進んでいった。
これは、軍事力と戦費調達能力を強化し、国内産業への投資により輸出を増やす政策(重商主義政策)がとられるようになった成果である。
これに対し、東ヨーロッパは、相対的に西ヨーロッパの穀物を調達する後背地に成り下がっていった。
工業製品をつくる西ヨーロッパと、その原料を調達する東ヨーロッパに、命運が分かれた。で、その影響が、いまもなお影を落とし続けているというわけだ。
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オランダの覇権
とはいえ西ヨーロッパのなかにも、工業化の進展には差が見られる。
たとえばオランダは、造船技術にすぐれ、ユダヤ商人や新教徒を受け入れたことから人材も豊富。バルト海貿易で繁栄した。
…といっても、あまりピンとこないかもしれない。
バルト海貿易?
そう。
17世紀当時の国名でいうと、デンマーク、スウェーデン、ポーランドに囲まれた海域である。
ここにオランダ船がさかんに出入りしていたのだ。
ここに面白いシミュレーション動画がある。
1750〜1850年の間に、どの国がどの海域を移動していたのか、季節別にパターン化したものだ。
主に春から夏にかけてオランダ船の出入りがさかんになるのがよみとれるだろうか。
オランダはバルト海の魚介類、穀物や木材(貴重な船材となる)を運ぶ、物流の要となったことがよくわかるだろう。
オランダはまた、17世紀前半にはイングランドやフランスに先駆け、アジアやアメリカ大陸に進出する。
たとえば現在のニューヨークのもとをつくったのはオランダだし(もともとの名はニューアムステルダムだった!)、出島に居住がみとめられていたのも、そういえばオランダ人だ。
とはいえ、17世紀後半になるとイギリスとの戦争に敗れてしまう。国内産業への投資が少なかった分、他国への投資は旺盛で、金融や情報部門では覇権を維持し続けた。
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イングランドとフランスの覇権争い
オランダの後釜を狙ったのはイングランドとフランスだ。
しかしイングランドも負けてはいない。
国王と議会の間におきた内乱が、最終的にオランダから新国王を迎える形で終結し、議会が主導する強固な立憲君主政に落ち着いたのだ。
これは、17世紀後半に王権神授説を唱えたルイ14世の体制と好対照をなす。
彼は官僚制と常備軍を整備し、ヴェルサイユ宮殿を権力のシンボルとした。また財務総監コルベールは重商主義者の典型で、王立マニュファクチュアを設立し、輸出を増やそうと尽力した。
しかし、ルイ14世が周辺諸国に自然国境説を唱え、たびたび侵略戦争をおこしたことは、イングランドと周辺諸国との同盟関係をかえって強固なものとしてしまう。
しかも18世紀を通じて植民地においてイングランドとの戦争を重ねた。これがもとで、フランスの財政状況は悪化の一途をたどることとなった。
東欧諸国の動向
このように17〜18世紀のヨーロッパ諸国の動向は、得てして西ヨーロッパを軸として展開されがちである。
東ヨーロッパは脇役というのが関の山。
プロイセン、オーストリア、ロシア、あとは…ポーランド、といったおまけ扱いだ。
こうした取り扱いを支えているのは、現在の東ヨーロッパの置かれた位置にも現れている。
そもそも「東ヨーロッパ」というのは、東西冷戦時代に実体化した地域区分にすぎない。アメリカ率いる自由主義陣営の西ヨーロッパに対する、ソ連率いる共産主義陣営としての東ヨーロッパ、あるいは西ヨーロッパ→東ヨーロッパ→さらにその東にあるソ連邦というような地域認識に基づくものだ。
これとは別に「中央ヨーロッパ」(中欧)という呼称や、「中東欧」といっ
た呼称を使おうという意見もある。
西成彦氏は次のように整理する。
ようするに「中欧」という呼称には、東=遅れた野蛮という意識を払拭する意味合いがあるというわけだ。
しかし冷戦終結後になって、ロシアの側の地域認識にも変化が訪れている。
これが1920年代に起源をもち、冷戦後台頭している「ユーラシア主義」という思想である。
浜由樹子氏は読売新聞紙上のインタビュー記事では、さらに次のように答えている。
現在のロシアの自己認識にも影を落とす、ヨーロッパとの遠近感覚。
ロシアがながらく西ヨーロッパに「学ぶ側」であったことは、有名なエピソードをあらわした以下の絵画に、ありありと示されている。
しかし、そのような上下関係はまっぴらだ。ロシアはヨーロッパの東でなければ、むしろヨーロッパではない。それがどうした? だからといってアジアでもない。ヨーロッパとアジアの中間に位置し、ユーラシア大陸の中間を占めるのがロシアだ。つまり、ヨーロッパの中心に君臨する国こそが映え有るロシアなのだという地理認識である。
西ヨーロッパではなく、中欧、東欧と呼ばれる地域そしてロシアの側からヨーロッパ史を描いてみたらどうなるか?
2022年にはじまった戦争の最中だからこそ、とりあげるべき視点だろう。
たとえばプーチン大統領はみずからをピョートル大帝になぞらえる発言をしたことがある。
これはピョートル大帝が領土をスウェーデンから獲得したところにポイントを置いた発言である。
だがよくよく考えるまでもなく、先に見たようにピョートル大帝は「西欧への窓」としてペテルブルクに遷都し、みずから西欧を視察し、文化や技術をとりいれた人物だったはずだ。
近世ヨーロッパの亡霊は、今なお国威発揚のために姿をあらわしているのである。
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人口動態と「17世紀の危機」
最後に、17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパ主要諸国の人口推計を確認しておきたい。
アクセスしやすいのは、高木正道「近世ヨーロッパの人口動態(1500~1800年)」、『静岡大学経済研究』 4(2)、1999年、147-174頁だ。
イタリア・スペインなどの南欧にくらべ、北西ヨーロッパにおける人口増加が目立つことがわかるだろう。
いっぱんに食料価格は、人口が増えれば需要増となるため、上昇する。
次のグラフからは地中海の小麦価格が1600年をさかいに減少傾向となり、かわって北西ヨーロッパ(イングランド。下図ではエクセタ。ほかにブルッヘも見よ)が17世紀前半に南欧(イタリア。下図ではウディネとナポリが該当)の小麦価格を抜くことが読み取れる。
しかし、17世紀なかばは気温がひどく落ち込んだ時期にあたる。17世紀なかば以降の停滞は、この「17世紀の危機」によるものだ。
しかし、1700年以降、北東欧(ポーランド。下図ではワルシャワ)の食料価格が上昇傾向となり、北西欧・南欧との差が縮まっていく。
これは3地域が、工業製品の生産国(北西欧。近代世界システム論でいうところの「中核」)、それに後背地として従属する原料の供給地(東欧と南欧。近代世界システム論でいうところの「半周辺」)という単一の分業関係にはいっていったことをあらわすものである。
主権国家体制についてどのように扱うかは、「ウェストファリア神話」を念頭に置き、同時代のアジアとの比較やつながりを意識させてもよいだろう(こちらでも少し触れた)。いずれ稿をあらためて整理するつもり。基本線はこちらを参照のこと。