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”世界史のなかの”日本史のまとめ 第14話  気候の温暖化と政権の分散(800年~1200年の世界)

この時代はどんな時代なんですか?

―前の時代から、広い地域をまたぐ“まとまり”が各地で生まれていたわけだけど、この時代にはその“まとまり”の中でも各地でいろんな“個性”が生まれていく時代だ。

詳しくは「世界史のまとめ × SDGs 第14回 開発の拡大と研究開発の発展(800年~1200年)」「ゼロからはじめる世界史のまとめ⑭ 800年~1200年の世界」を見てみてください。

 たとえば、ヨーロッパではキリスト教の考え方が正義とされたわけだけど、各地の支配者によって細かい部分には差が生まれている。

ユーラシア大陸と北アフリカでは、現代の世界の宗教の分布に近づいていく(SOURCE: World Religion Database, 2010 figures © CLO)


 西アジアから北アフリカにかけてのイスラーム教、インドのヒンドゥー教、東アジアの仏教や儒教なども同様だ。


でも広い範囲を一人の支配者がコントロールするのは、難しいですよね。

―そうだね。逆にいえば、狭い範囲だけでも十分強い国がつくれるようになっていたってことでもあるんだよ。
 この時代は世界的に気候が暖かかったといわれていて、人々の交流も盛んになった。
 人と人の出会いが増えれば増えるほど、知識や情報もさまざまな人の共同作業によって発達するよね(注:コレクティブ・ラーニング)。

 テクノロジーが発達して、各地で開発がすすんだ時代でもあるんだよ。


上図)ヨーロッパで森が切り開かれていった(注:大開墾時代
中図)水田の「造成は長江下流デルタの湖沼の多い低湿地帯で、もっとも積極的にすすめられた。湖沼を干拓したりして、肥沃な新開の水田をかず多く出現させ、「蘇湖熟すれば天下足る」といわれるにいたった。こうした水田造成を可能にするほど、提防の構築技術や、灌漑などに水をうまく調節する水門建設の技術が、高いレベルに達していたのである。」(『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』教養文庫826、社会思想社、1974より
下図)カンボジアの王国は首都に大規模な貯水池を建設し、お米を大増産した(http://mebaru.ie-yasu.com/can0.htmより)。



この時代、気候が温暖であったとすると、人間の活動もそれにともなって活発になるんでしょうか?

―2つのことに注意すべきだろう。
 まず、地球のすべての場所が同時に温暖になったわけではない。温暖になる時期についてはタイムラグがある。

 それに、温暖になったとしても、その状態が安定して続いたとも限らない。ヨーロッパの古い気候に関するある研究者は、「この時代はむしろ気候の変動の激しかった時期だったんじゃないか」とみている。

 日本については、天皇が主催した「花見の記録」や花粉分析から温暖な時期だったことがわかっている。

 ともかく、この時代には今までは開発の進んでいなかった地域や、住むことができなかった地域での人間の活動が広がったことは確かだ。

 例えば、アメリカでは、ヨーロッパのアイスランドという島からはヴァイキングというグループの一派が、船に乗って北アメリカ(下の動画)にたどり着いているよ。

 同じころ北海道と、その北のオホーツク海周辺でも民族の活動が活発になっている。


アイヌですか?

―「アイヌ」も北海道の先住民として現在でも文化が守られているけど、この時代に活動していたのは彼らに先立つ人たちだ。

 もともと北海道の南の方の人々は,6~7世紀から引き続き,擦文式土器を特徴とする擦文文化(さつもん)を生み出していた。
 一方で、北方ではオホーツク文化という、さらに北の世界から伝わった文化が盛んになっている。農耕文化の影響を受けていない、大地を駆け回っていた狩猟採集民族だ。


ヴァイキングの活動と、北海道の人たちの活動の時期が一致するんですね。

―面白い共時性だよね。

 一方、北アメリカの乾燥地帯では都市が大規模になって、巨大な建造物もつくられている。東のほうの大きな川の流域でもお墓のサイズが巨大化しているから、支配者のパワーが強くなった証拠とみられている(この時期にトウモロコシ栽培が本格化したようだ)。

チャコ・キャニオンの遺跡シエラクラブのウェブサイトより)

北アメリカの南の方のマヤ文明はどんな状況ですか?

―マヤ文明の中心は、従来よりちょっと北に移動している。外から別の民族の侵入があったのかもしれないともいわれているけど、記録が少ないのでなんともいえない。
 メキシコの高原地帯ではいくつもの国が建ちならび、さながら“戦国時代”のようになっているよ。戦闘的な民族が多く、生贄の風習もあった。この中から次の時代のアステカという大きな国が生まれることになるんだ。

メキシコのトゥーラ遺跡世界遺産ハンターより)

南アメリカはどうですか?

―いままでの歴史の中では最も広い範囲を支配する国が出現している。どれもアンデス山脈のあたりの国で、標高の違いを利用して“海の幸”“山の幸”などバラエティ豊かな特産物をコントロールしていたようだ。
 高い技術でアクセサリーや巨大な建物がつくられていたけど、鉄や車はつくられていないよ。

 服はアルパカのような山で飼われる動物の毛からつくられているね。山の天気は昼と夜の気温差が激しいから、天候の急変にも対応できるようにポンチョという服を身にまとっているよ。

 一方、この時期のオセアニア(太平洋エリア)では、大きな建物をつくっていくつもの島々を支配するリーダーも現れている。

トンガでは国王が周辺の島々にも影響力を拡大している

 特に火山島では強力な支配者も現れているけど、規模はユーラシア大陸の農業とは全然違う。それに匹敵するようなパワーを持つ支配者はそうそう出てこない。

ところで、オセアニアの人たちの拡大は続いているんですか?

―この時期にはポリネシア人がなんと北はハワイ、東はイースター島にまで到達したと考えられている。
 アウトリガーカヌーをもっと大きくした船によって、計画的に植民がおこなわれたようだ。
 この時期は地球の気候が温暖化した時期にあたる。
 その影響もあったのだろう。
 ちなみにあの有名なモアイ像がイースター島で作られ始めるのもこの時代だよ。

オーストラリアはどうなっていますか?

―オーストラリアは、まだ外部との接触がない。
 先住民のアボリジニーは、狩りや採集による生活を続けている。
 自然の中で自然とともに暮らしてきた文化は、現在になって再評価されるようにもなっている。


ユーラシア大陸の遊牧民にとって、この時代はどんな時代だったんでしょうか?

―ユーラシア大陸の内陸部では、逆にマイナスの影響が出ている。
 日照りが起きて牧草が不足したようだ。
 実際にこの時期のモンゴル高原では勢力争いが激しくなっているね。


温暖化によってヨーロッパや北のほうがで経済が発展したのとは大違いですね。

―そうだね。場所によってどのように影響が現れるかは異なるから、一概にいえないところには注意したほうがいい。


モンゴル高原で勢力を握ったのはどんな人達ですか?

―この時代の草原地帯の主役は「トルコ系の言葉」を話す遊牧民たちだ。
 もともとモンゴルのあたりで活動していたんだけれども、しだいに西へ西へと移動して、各地で定住民エリアを支配する国をつくっている。

 定住民を支配しても、ライフスタイルはほとんど変わらない。
 羊の毛を圧縮してつくった生地(注:フェルト)から組み立て式のテント(注:ゲル)をつくり、移動生活をしているよ。

 彼ら「トルコ系の言葉」を話す遊牧民は、西のほうでは広範囲で“正義”とされていたイスラーム教を柔軟に受け入れ、もともと活躍していた「イラン系の言葉」を話す人々とも張り合っている。
 また、高い軍事的な才能を生かして、各地の王様の下に「雇われ兵士」(注:マムルーク)として仕えた。スキをねらって王様を倒し、国を乗っ取った者さえいるんだ。

 インドの北のほうの高原地帯では、チベット人という民族が広い国を作り、「トルコ系の言葉」を話す遊牧民とともに中国の皇帝の国に対抗しているよ。


中国の政権のパワーが弱まっていたってことですか?

―そうそう。この時代には、黄河流域を中心に広いエリアを支配していた大きな国(注:唐(とう))の支配が弱まる。

 各地で開発が進み、唐のいうことなんて聞かなくてもやっていける有力者が現れるようになったからだ。


国内が分裂すると、周りの民族にとってはチャンスですね。

―そうだね。
 東アジアでは、中国の皇帝が陸でも海でも「警察官」みたいな役割を果たしていたからね。
 中国の皇帝のパワーがなくなると、かえって東アジアは混乱してしまう。


結局どうなるんですか?

―唐という国が滅ぶと、各地の有力者が自分たちの国を建てて栄えるよ。
 黄河流域では唐を受け継いで「皇帝」を名乗る国が現れるけど、支配層には遊牧民出身者も参加していたんだ。

当時の中国では地域ごとに特色ある国が栄えた(コトバンクより)

 また、南の方では北の皇帝のいうことをきかない国が多数建てられて、なかには「皇帝」を名乗る国もあったよ(このうち日本と関係の深い呉越(ごえつ)については詳しくは後述する)。

 結局、北の軍人が「皇帝」として混乱をおさめ、黄河流域で宋という国を建てた。宋は南の方も含めて統一したけど、東アジア各地の民族たちも宋と対等な形で国を建てようとするようになる

中国を統一した宋(北宋、地図注のピンク)も、もはや東アジアの国々の「一つ」に過ぎない状態だ(世界の歴史まっぷより)

そりゃそうですよね。こんな有様じゃ…

―宋は、かつて広い範囲を支配していた「過去の栄光」にすがろうとするけど、現実はめちゃめちゃ弱いし領土も狭い。


 しかも、北からは遊牧民が貿易や土地を求めて頻繁に挑発してくる。
 遊牧民の支配者たちも「自分こそが中国の皇帝だ」と主張するものだから、事態は面倒だ。


南の方をコントロール下に置いたとしても、他にまだ「皇帝」を名乗る国があるんじゃ、
「統一」もくそもないじゃないですか。

―そうなんだよ。

 でも中国の唯一の強みは「経済力」だ。
 長江流域ではたくさんお米がとれるし、巨大な港町がいくつもあって貿易がさかんだ。
 特に福建(ふっけん)という地域の泉州(せんしゅう)という港町は空前の発展を遂げている。

「港町が発展する」なんて、今までの時代の中国のイメージと違いますね。

―だよね。貿易というと、ラクダに荷物を積んでシルクロードを行くイメージがあるよね。

 中国の皇帝は「欲しいものならあげるから、お願いだから手は出さないでくれ」と、周りの民族にお願いをした。


かなり下手(したて)に出ていますね。

―でしょ。
 ベトナム、朝鮮、日本などの支配者も、この時代には中国とは今までよりも“距離”をとって活動ができるようになっているよ。


なるほど。唐という「親分」の力が弱ったので、周辺の民族が活発化したわけですね。

―そうそう。
 朝鮮半島では、内戦を経て高麗という国が建国され、新羅を倒してしまった。この国では仏教が盛んで、経典をまとめた『高麗版(こうらいばん)大蔵(だいぞう)経(きょう)』が編纂され、
 中国以外の磁器としては初となる高麗青磁(こうらいせいじ) もつくられた。次第に宋代の中国で確立され13世紀に朝鮮半島に伝わった朱子学も普及していくようになるけど、この時代の末には武人が政権を握るようになった。

 同じくベトナム北部でも中国からの独立政権ができ、「大越国」として独立。
 中国の西南部の雲南地方でもペー人が「大理」として独立を認められている。彼らは現在でも200万人足らずいて、米が主食でワサビを食べるなど,日本と似通った文化を持つ人たちだ。

さて、ようやくですが、日本はどんな状況ですか?

―日本では、前の時代の終わりに長岡京平安京がつくられて、中国から導入された律令制で国をまとめようとする国家が建設されていたよね。
 これはいわば、「外国産のプログラムをそのまま日本の社会に適用しようとしたもの」だ。

でも、日本の実情は中国の実情と違いますよね。

―そう。そこに矛盾が生じる。
 「タテマエ」としては中国の律令制の仕組みは残されるんだけど、「ホンネ」は異なるわけだから、しだいに日本的な「運用」のされ方に変わっていくんだ。

なるほど。そういうところがなんか「日本っぽい」ですね(笑)

―具体的には、天皇の秘書官(注:蔵人頭(くろうどのとう)())や、京都の治安維持にはじまって後に裁判などのもおこなうようになった天皇の側近(注:検非違使(けびいし))、天皇を補佐する関白(かんぱく)、天皇の権限を代行する摂政(せっしょう)、天皇が決裁する文書を事前に見ることができる内覧(ないらん)といった役職のことだ。
 こういう日本独自の役職のことを「令外の官(りょうげのかん)」と呼ぶよ。
 また、律令には定められているけど余計な人員も「リストラ」されていった。

(注)この時期に、生前退位した天皇(注:平城天皇)が、有力貴族(注:藤原薬子(ふじわらのくすこ)とその兄 藤原仲成(ふじわらのなかなり))と共謀して息子を操ろうとした。それに対し、あとを継いだ天皇(注:嵯峨天皇)側が武力で権力を取り返すということがあった(注:平城太上天皇の変)。要するに前の天皇が首謀者なのであるが、罪がおよばないようにするために「薬子(くすこ)の変」と呼ばれてきた事件だ。
 このように、辞めた天皇が有力貴族に秘密を漏らし、政治を動かそうとするのを防ぐために設けられたのが、蔵人頭(くろうどのとう)という役職である。



 日本ならではの細かいルール(注:格式(きゃくしき))も追加されていった。またルールを解釈するための専門書もつくられている(注:『令義解』(りょうのぎげ)『令集解』(りょうのしゅうげ))
 あくまで中国の律令をベースにし、そこに日本の要素を「ブレンド」したわけだ。

 天皇のいらっしゃるところ(注:宮廷)の年中行事にも、中国的な要素が取り込まれていき、複雑になった儀式の詳細が専用のマニュアル(注:『内裏式』(だいりしき)、『貞観儀式』(じょうがんぎしき))にまとめられていくよ。


日本の「中国化」ですね。

―そうそう。しだいに古くからの神話や古来の儀式のウェイトは小さくなっていったんだ。
 代わってベースになっていたのは儒教。
 専門の教育機関(注:大学別曹(だいがくべっそう))も貴族の家柄別につくられているよ。
 この時期のエリートにとって「漢字を読み書きすること」は必須の教養だった。漢詩の作品集や国の歴史書なども漢字を使って著されている。

 当時のエリートの頂点に立った人物として知られる人物は「学問の神」として今でもまつられているね。


人々の支配の方法は変わっていませんか?

―税の納め方についても、律令に定められた通りにおこなうことが難しくなった。
 「うそ」をついて納税を逃れる農民も多くなっている(注:偽籍(ぎせき))。そういう農民を、大きな神社やお寺、それに有力貴族が「労働力」として受け入れたので、田畑を農民に支給することすらままならなくなっていったんだ。

義務を免除するために男性の人数を過少申告した結果、女性ばかりになっている戸籍。明らかにあやしい。(この時期前半の周防国玖珂郡玖珂郷の戸籍、wikicommonsより)


国から土地を支給されれば、税や負担がのしかかってきますもんね。

―そこで天皇は、土地を農民に支給して税をとること(注:個別人身支配)をやめて、各地の土地に「責任者」を定め、役所に税を納めさせるようにしたわけだ。
 割り当てた土地を「名(みょう)」といい、税を納める責任者を「負名(ふみょう)」という。


そのほうが税が集まるって考えたわけですか?

―そうそう。
 たとえ実際には収穫がない土地でも、その面積に見合った税をキッチリ納めさせる作戦に出たわけだ。


でも、そんなことしたら、「税を納める責任者」をちゃんと見張ってないと、ズルするおそれはありませんか?

―そのとおり。

 従来は地方総督にあたる「国司」は、4つのランクに分けられ、そのすべてが中央から派遣された人だったよね。不正をはたらいたら、それこそ大変なことになる。
 
 でも、この時代になると、中央から派遣されるのはトップのランクだけ。この役職を「受領」(ずりょう)と呼んだんだ。
 で、その下の3ランクは地元の有力者が採用された(注:任用国司)。


そんなことしたら「なあなあ」になりそうですね。

―そうなんだけどね。
 結局この時期には、中央の政府が地方のことまでしっかりコントロールするのが難しくなっていたから、「最低限の税さえ中央に支払ってくれればいい」ってことになっていったんだよ。

 受領も任期中にはキッチリ取り立てようとするわけだけど、任期満了ぎりぎりになるとこうした任用国司らから賄賂を受け取って不正をはたらくものもいた。

 一方、新たに土地を開発して、「国指定の土地」(公田)ではなくて、税を免除される「個人の土地」(荘園)に指定するよう国司に働きかける人々も現れる。新しく開発した土地を公田にするかどうかの判断は、受領がすることになっていたからね。

そんなことしたら、国の収入は減っちゃうじゃないですか。

―でしょ。
 政府や天皇家は、「ロス分」を埋め合わせるために直営の田畑を経営するようになっている。
 政府はこの時代の初めにはすでに、現在の福岡県の太宰府で、みずからの財源にあたる田畑を経営している(注:公営田)。天皇も勅旨田(ちょくしでん)という独自の財源となる田畑を持つようになった。
 天皇家でさえも「これは自分の土地だからな! 取るなよ!」って言わないといけなくなるほどの状況だったってことがわかるね。

これは俺のだから取るなよ。


大変ですね。

―でもまあ、律令制をガチガチに運用していたころに比べれば、受領を通して確実に税を徴収できるようになったわけだから、現実的な政策ともいえる。
 中央の官僚たちも、それぞれ自分たちの財源となる土地を確保するようになっていった(注:諸司田(しょしでん))。
 天皇は一族に「この畑をやるから、給与の代わりにしてくれ」と支給することもあったんだよ(注:賜田(しでん))。

 そんな中、どうしても公田にされたくない場合は、直接、天皇の周辺にいた支配層(貴族や引退した天皇)や神社やお寺の勢力の「後ろ盾」に頼るケースも出てきた。
 「この土地は、名門の○○家に捧げられた土地だから、国が税金を取ることはできない!」っていうふうに主張したわけだ。
 天皇の周辺にいた支配層(貴族や引退した天皇)や神社やお寺の勢力(注:院宮王臣家(いんぐうおうしんけ))にとっても、「絶好の収入源」となるわけだから「おいしい話」だよね。


「口利き」のようなものですね。うまいやり方ですね。

―でも、これが新たな問題を生んでいく。


どうしてですか?

―院宮王臣家はあくまで「自分たちの収入確保」のために口利きしているわけだよね。
 だから、国に税なんて納めたくないわけだ
 
 一方、地方で開墾に精を出していた「有力な農民」も、まったく同じことを考えている。国に税なんて納めたくない

 そこで利害の一致した両者が結びつき、国司(こくし)が税を徴収させようとしても立ち入れないエリアが増えていくことになってしまったんだ。


なるほど。

―こうして日本各地には、中央の政府が税をとりたてることのできる土地(注:公田)と、政府の立ち入りが難しい土地(荘園)が「入り乱れる状況」となったわけだ。


律令制で決められたルールが破綻してますね。

―ほんとだね。天皇の周辺にいた支配層(貴族や引退した天皇)や神社やお寺の勢力にとっては、荘園としての「お墨付き」を与える代わりに、一定の対価が得られるから「おいしい」制度だね。

 だからこそこの時代には、中央の貴族の文化が「花ざかり」となるんだ。

 ただ「貴族」にとって都合がよくても、国の運営や天皇家にとっては困るよね。
 このまま放置していても困るわけなので、のちに政府も手を打つことになる。


禁止したんですか?

―努力はした(笑)
 国司立ち入り禁止エリア(注:荘園)を停止したり、対抗して国が田畑を支給したりと工夫はこらしたよ(注:延喜の荘園整理令)。

 でも、時すでに遅し
 もはや地方を直接コントロールするのは困難だ。


 そこで、地方の実情に詳しい国司のパワーを認め、最低限の税を中央に納めるように任せる作戦をとったんだ。

 政府は、国司に対して担当国における強い権限を与える代わりに、「しっかりと税を納めろ」と要求。
 国司は有力な農民(注:田堵(たと))を直接コントロール下に置き、国内のエリア(注:名)ごとの責任者(注:負名(ふみょう))とした。
 責任者は、土地の広さに応じて国司に税(注:官物(かんもつ)、臨時雑役(りんじぞうやく))を納入し、国司はそれを国に納めることになった。


律令政治のやり方をやめちゃってるじゃないですか。

―そう。
 人と人の関係、人と土地の関係がしだいに変化しているよね。国が統一的に地方を支配しようとするやり方から、さまざまな人がそれぞれに土地を持っていることを前提とする支配へと変わっていくんだ。
 これを日本史の業界では、”「古代」が終わり、「中世」に入っていく” と表現するよ。

 つまり税は従来のように「人」に対してかけるのではなくて、「土地」に対してかけるものになったわけだ。
 「人」は逃げることができるけど、「土地」の責任者はごまかすことができないからね。
 「取り立て」には、京都出身の「こわい人」(注:国司の子どもや子分たち。郎党)が使われた。


これじゃあ国司のパワーが強くなっちゃいませんか?

―そうだね。
 誰をどこの国司にするかは、中央のランクの高い貴族によって決められることにはなっていたけど、国司は独自に「地方の有力なボス」を官僚(注:在庁官人)として雇うこともできたし、国内の神社をコントロール下に置くこともできた。

国司は、どの神社を「一宮」(いちのみや、その国でトップのランクである神社)とするかを決めるパワーを持っていた(静岡県の富士山本宮浅間大社。静岡新聞より)


それに対する反発も置きそうですね。

「ひどい国司」もいたからね。
 国司に対抗しようとした有力農民らは武装して「目立つ服装」をし、馬にまたがり弓矢の技量をアップさせていくようになる。



 彼らのことを「武士」(ぶし)という。

 武士はその「後ろ盾」「家柄がすごい人」に求めるようになっていく。
 例えば、貴族の血筋を持っている人とかね。
 国司として中央から派遣された人が選ばれた。

 こうして、中央で出世する代わりに、地方で武士たちに担がれる道を選ぶ人たちも現れるようになるわけだ。ただし完全に地方に土着したわけではなく、あくまで拠点は都にも置いているけどね(注:留住)。
 武士団は、この時期の前半に各地で起きた大規模な反乱を鎮圧している(注:天慶(てんぎょう)の乱藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱)。


なるほど。そっから「武士の時代」が始まっていくわけでうね?

―いきなり武士が政治の中心にのぼりつめたわけじゃないよ。

 武士のリーダーに従った者たちもまだまだ戦いごとに募集をかけられた個人的な契約関係の強い「傭兵」(ようへい)に近いし、どちらかというと「貴族」的な性格も強い(注:軍事貴族)。戦いに参加するときには、政府の許可(注:追捕官符(ついぶかんぷ))も必要だった(注:私闘の禁止)。

 でもこうした反乱鎮圧を目の当たりにして、中央の貴族たちは貴族との血縁的なつながりを持つ武士団を、自分たちのエスピー(注:侍(さむらい))や国家の軍事組織(注:検非違使)として用いるようになっていった。
 彼らの能力を買ったわけだね。

 じっさいにこの時期の中頃には、朝鮮半島から北九州に侵入した民族の撃退に、武士の軍事力が使われている(注:刀伊の入寇(といのにゅうこう))。


えっ、モンゴル人ですか?

―それは次の時代。
 じつはこの時期にも朝鮮半島から女真人(じょしんじん)の襲来を受けていたんだ。
 女真人は、当時貿易のパートナーだった渤海という国が、急拡大した契丹(きったん)という民族に滅ぼされたために「ジリ貧」になってしまい、朝鮮半島のほうに南下して沿岸を襲っていたんだよ。

)このときに捕らえられた日本人捕虜は、高麗(こうらい)によって救出され、日本に送還されている。高麗との間には民間の貿易も盛んだった。
 日本の国内と国外を分け、外の世界は「けがれている」と考える世界観も、この時代には生まれつつあるよ


中央の政府ではなくて、地方の勢力を頼らなきゃ地方のゴタゴタを解決できないなんて、ちょっと国の形が変わっていませんか?

―するどいなあ。
 こんなところにも「時代の変化」があらわれているよね。

 この時期にはまだ、確固たる「武士団」が形成されていたわけではないけど、外的撃退や反乱鎮圧などの「手柄」を積み重ねていくことで、中央の名門貴族に結びつく強力な「武士団」(注:兵の家(つわもののいえ))も現れるようになるよ(注:清和源氏)。


で、これら名門貴族の資金源は、全国の国司の支配地域だったわけですね。

―そうだよ。
 さっき見たように、この時期の国司は各地で有力農民(注:田堵(たと))から税を徴収しようとしていたわけだよね。
 でも有力農民の側も温暖な気候を背景にがんばって田畑の開発をすすめ、大規模な経営を展開するようになっていた。彼らのことを「開発領主」(かいほつりょうしゅ)というよ。


有力農民は国司と対立したんですか?

―カンタンにいうと「うまくふるまった」んだ。
 国司の支配に協力して役人(注:在庁官人)として仕事をする一方で、裏では税を逃れるために開発した田畑を中央の「セレブ」や「神社やお寺」に捧(ささ)げたんだ。


どうしてそんなことするんですか?

―そうすれば、「この土地にクビをつっこむと、ヤバイことになるぞ」と脅せるでしょ。
 「セレブ」(=領家)はさらにその土地を、「さらに上のランクのセレブ」(=本家)に捧げる場合もある。
 これじゃあ、誰がその土地の「ほんとうの支配者」なのか曖昧だよね。

 実際に支配権を持っている人を本所(注:ほんじょ)といい、有力農民はその土地の実務担当者(注:荘官(しょうかん))として、その下の農民たちから税をとって本所に納める義務を果たした。

 こういうタイプの荘園を「寄進地系荘園」(きしんちけいしょうえん)というよ。
 この仕組みの下で、キッチリと特定の土地から税を取るために、田畑は「名(みょう)」という単位に分けられた。それぞれの「名」には、さらに下の農民たちから税を徴収する「名主」(注:みょうしゅ)という有力農民が住んでいた。

 でも、これじゃあ国司は困るよね。
 そこで国司も荘園に対抗して、新たな土地の開発をどんどんすすめた。

 同じ時代には、ヨーロッパや中国など、世界各地で農業生産力がアップしているよね。


温暖だったわけですね。

―国司も、田畑が有力農民に先に開発されないように頑張った。先をこされたら、中央の貴族や寺社の所領になっちゃうからね。

 国司は新しく開発した土地をエリアに分け、そこに責任者(注:郡司、郷司(ごうじ)、保司(ほうし))を配置していった。
 しだいに国司の役職は「名ばかり」のものとなり、実際の地方での支配権は、郡司、郷司(ごうじ)、保司(ほうし)などの責任者の下で農民を働かせている「名主」(みょうしゅ)と呼ばれた有力農民になっていく。


あれっ。さっきの「寄進地系荘園」と同じじゃないですか。
結局、公領でも荘園でも、土地を「名」(みょう)っていう単位に分けて、「名主」っていう有力農民を通して、税が確保されるしくみになってませんか?

―そのとおり。
 この時代は「各地で有力農民が成長していた時代」だったからこそ、こんなふうにすればきっちり税を取り立てることができるんじゃないかと考えられたわけだね。

 国司の管轄エリアであっても、有力農民の協力がなければ税は取り立てられない。
 でも、国司を通して税が中央に集まらなければ国は成り立たないし、有力農民から税を集めることができなければ「セレブ」たちはぜいたくな暮らしができない。
 
 こうした事情から、「国司の管轄エリア」(注:公領)と「中央の「セレブ」のお墨付きをゲットした荘園エリア」(注:寄進地系荘園)が混在する体制が生まれたわけだ。これを荘園公領制というよ。


ちなみに、この時期の文化って、貴族の華やかな「国風文化」でしたよね?

―そうそう。
 漢字を参考にした仮名文字を使った日本語文学や、『源氏物語絵巻』のような大和絵(やまとえ)がつくられるようになっている。

 ただ、100%「純日本文化」であったわけではないよ。
 貴族にとってのあこがれはやっぱり中国文化。漢字のほうがひらがなよりも格が上だし、「メイドインチャイナ」の製品(注:唐物(からもの))は憧れの的だった。
 当時の女性貴族の作品にも、中国の唐の時代の文学(注:『白氏文集』)の影響が色濃い。

 中国古来の占い(注:陰陽道(おんみょうどう))も貴族の間で強く信じられていた。

 また、平安京が奈良のお寺を遠ざけた影響から、仏教といえば「人里離れた山奥で修行したり、まじないをするもの」という傾向が強まった。
 中国に留学したもうひとりのお坊さん(注:最澄(さいちょう))は、日本に仏教のお坊さんになるための本格的な学校を立ち上げた。この比叡山はその後も日本の仏教界の中心となっていく。

 従来の仏教のように「教えが文字に書かれているわけ」ではなく、「本当に大切なことは文字に表すことなどできない」という神秘的なスタンスの仏教(注:密教(みっきょう))も流行っている。この密教とよばれる「新しい仏教」がお坊さん(注:空海)によって中国から、輸入されているよ。彼は諸民向けの教育機関も設立している(注:綜芸種智院(しゅげいしゅちいん))。ちなみに彼の弟子(注:円仁(→山門派)や円珍(→寺門派))も、しだいに密教の教えを取り入れるようになるよ(注:台密(たいみつ))。インドのサンスクリット語など外国語で書かれたお経を読むために「カタカナ」も発達し、五十音字表がつくられた。

 「秘密の教え」を「可視化」するために「曼荼羅」(まんだら)という絵も描かれた。

密教では、ブッダの生まれる前から「仏の世界」があったのだと考える。(「胎蔵界曼荼羅」(たいぞうかいまんだら))

「今から2500年前に釈尊が悟られて教えを説かれて仏教がかたちづくられました。でもその悟りの世界(境地=真理)は釈尊が悟る前から存在していた。ずっと前から真理(自然の摂理)は存在していて、それを始めに発見したのが釈尊だから、ずっと前から存在した真理(法)そのものを仏さまのお姿で象徴したのが大日如来なのです。真言宗では大日如来がさまざまな仏さまに変身(変化)して、迷える人に最も親しみやすいお姿となり、目の前に現れるのです。」(吉祥院珍珠院ウェブサイトより)



 「おまじない」(注:加持祈祷(かじきとう))によって、現実での幸せが望まれたんだ。

占いやまじないはなぜ信仰されたんですか?

―伝染病もしばしば流行したことから死が身近で、この世の終わりも意識されたんだ。

 同じ頃のヨーロッパでも「世界の終わりが近づいている」という説が広まっていたから不思議だね(注:千年王国説)。聖地巡礼ブーム(注:サンチャゴ・デ・コンポステラ)も起こっている。


 「あの世での幸せ」(注:極楽往生(ごくらくおうじょう))を祈ったり(注:浄土信仰)、「誰でも平等に仏になれる」ということが説かれたお経(注:大乗仏教の『法華経』(ほけきょう))が流行しているよ。

 また、「短い言葉」(注:念仏)を唱えるだけで「仏様はみんなを救ってくれる」(注:阿弥陀信仰)という信仰も広まっている。庶民にわかりやすい言葉で、こうした気軽に実践できる仏教を広めたお坊さん(注:空也(くうや))も活躍しているね。

 密教が流行った頃は、一本の木から一つの仏像を彫るスタイルの一木造(いちぼくづくり)で神秘的な仏像がつくられた(注:観心寺如意輪観音像。下図)。


 その後、貴族は競うようにして仏像を建てたがったので、この時期には仏像の大量生産技術(注:寄木造(よせぎづくり))も開発されている。

 なお、中国の「伝説の書家」(注:王羲之)の中国風の書道(注:唐風)も紹介されたけど、日本の貴族によって「日本式の書道」も開発されている(注:藤原行成)。トップアーティストは天皇、お坊さん、貴族から輩出された(注:三筆(嵯峨天皇、空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)))。
 服装もおなじように唐の服装を日本風にアレンジされているね。


唐が滅んだ後も、日本は中国人と交流できたんですか?

―唐が滅んだ後も、日本は「呉越」(ごえつ)と盛んに取引をしていた。仏教のお坊さんの交流も盛んだった。


「呉越」?

―長江の下流付近の国だよ。唐が滅んだ後、短い期間の間だけ独立していた国だけど、農業生産力をアップさせて大変栄えた国だ。
 長江の下流エリアは、遣唐使の上陸地点でもあるし、日本とのゆかりの深いところだ。

 で、その後の中国を再統一したのが「宋」だ。
 貿易の窓口として博多(はかた)が栄え、太宰府(だざいふ)という北九州にある役所を通して国が貿易をコントロールしていたんだよ。

先ほどの支配の方法についてですけど、そういえば天皇には「荘園」が増えることについて不満はなかったんですかね?

― 藤原氏という貴族の力があまりに強すぎて難しかったんだよ。


どうして藤原氏はそんなに強くなったんですか?

― 古くから天皇につかえていた貴族たちよりも、「律令制」のシステムに同化するのがうまかったんだ。
 また、個人的に天皇に近づく力にも長けていた。

天皇に個人的に近づくにはどうすればいいんでしょうか?

 必要なのは、政治のパフォーマンス能力、漢字を使いこなし伝統を理解する教養などだね。
 ほかにも、天皇から「源氏」の姓を与えられた息子や娘たちの一族にも、個人的に天皇と近付くチャンスがあった(注:賜姓源氏(しせいげんじ))。 

 で、このうち藤原氏が駆使したのは、「天皇の母方の親戚(ミウチ)」になるという作戦だ。母方の祖父になれば「摂政」や「関白」というポジションに就いて天皇にあれこれ口出しすることも可能になる。

 そのために数々の陰謀が起こされた。
 それを経て、藤原氏は絶頂期を迎える(注意:藤原道長、藤原頼通)。

 この時代中頃の天皇のお母さんは、ほとんど藤原氏出身だったんだよ。
 藤原道長は律令制を破壊したわけではなく、律令制の「スキ」をついて利用し、うま~く権力の座についたわけだね。
 各所の有力者も、「藤原氏に取り入れば、高い役職(特に「受領」(ずりょう)が人気)につくことができる」と考え、全国から藤原氏にみつぎものが集まった。


じゃあ、お母さんが藤原氏じゃない天皇が即位できればいいわけですね。

―その通り。その作戦をとった天皇(注:後三条天皇)が現れたんだ。
 ただ、主導権を握るには財源が要る。

 そこで、全国に広がっていた荘園(しょうえん)を規制し、国司を置く公領(こうりょう)を増やそうとした。


どうしてですか?

―荘園から吸い上げられた富は、藤原氏などの有力貴族のふところに入ってしまうからね。
 そこでこの天皇は宮殿の建設費(注:造内裏役)として、「公領だろうが荘園だろうが、すべての土地から税をとってやる!」と強気の対応に出た(注:一国平均役)。で、支払ってないやつに対する取り立てや、支払うべき人の指定などにも、特別の役所(注:記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ))をつくって直接介入することにしたんだ。


「天皇のリベンジ」は成功したんですか?

―彼以降の天皇(注:白河天皇や鳥羽天皇)が、生前退位して息子に天皇位をゆずって「上皇」になる作戦をとったことで、藤原氏に対する「ブロック」は完成した。
 まだ元気なうちに引退して次の天皇を守ることで、貴族の介入を防ごうとしたんだ「上皇」の住処を「院」というので、院政(いんせい)というよ。
 
 院政の財源は、藤原氏のせいで今まで高いランクにのぼることができなかった中・下級の貴族や全国の国司だ。
 また、彼らは仏教をあつく信仰し、紀伊半島のお寺を巡礼したり三十三間堂を建てたりしている。「仏教が国を守る」思想の高まりから、「>仏」ではなく「神<」という思想(注:神は仏の化身(けしん)という本地垂迹思想(ほんじすいじゃくしそう))も生まれた。


院政は長持ちしたんでしょうか。

―でも、さっそくこの制度はうまくいかなくなっていく。
 まず、上皇に近い人々(注:院の近臣)を国司としてコネ採用しまくったのはいいんだけど、彼らはしだいに中央に税を納めたがらなくなっていくんだ。
 かえって国司のパワーはどんどん強くなってしまい、こうして各地の公領は「上皇や上皇に近い人々の荘園」のようになってしまう。
 同時に、上皇に近い人々がお墨付きを与えた荘園も、全国で急増している(注:八条院領、長講堂領)。


今まで力を持っていた貴族は対抗策を講じなかったんですか?

―どうしようもない側面もあるんだよね。

 かつて天皇の補佐をしていた有力貴族だけでなく、有力な神社やお寺も各地の経済基盤を増やしていったでしょ。
 神社やお寺のパワーがここまで大きくなるなんて、律令制の仕組みではまったくの想定外のことだった。

 そうなると、各地で土地をめぐる紛争も起きるよね。
 興福寺(こうふくじ)や延暦寺(えんりゃくじ)のように独自に軍をつくるお寺さえ現れるようになっていたんだ(注:僧兵)。

 それに対し、上皇や貴族が軍事力として利用したのが「武士」だった。
 貴族はお寺の「まじない」の力を恐れるけど、武士はそれを恐れない
 上皇としても、天皇経験者ではあるもののもう天皇じゃないから多少の無茶もできる
 貴族としても、武士の力を頼らなければ地方の秩序は保てない。


なるほど。寺社や武士が台頭してきたことを受け、天皇や貴族が律令制によって日本全体をまとめるのは「もう無理」ってことになって、あらたな体制として「院政」が必然的に求められたわけですね。

―そういうわけだ。
 当時の有力な武士のグループは、高貴な家柄と血筋が関係していることをアピールして勢力を強めていた。
 関東地方を拠点とする人々が多かったのは、東日本には牧(まき)が多く、良い馬の産地が多かったからだ。

 はじめに力をのばしたのは源氏(げんじ)だった。
 東北地方の支配をめぐる戦いが起きたときに、軍事力が利用されたんだ(注:前九年合戦、後三年合戦)。
 源氏は戦いの後、戦いに参加してくれた関東地方の有力者私財をはたいてご褒美」を与えたことで、ますます支持を得ていく。自腹を切ったんだから、そりゃ心を動かされるよね。

 それに対し、平氏(へいし)は、荘園を捧げることで上皇との結びつきを強め存在感を高めていく。
 その後、中央での2度の内戦(注:保元の乱、平治の乱)が起こった。
 「武士団」がガッチリと形成されていくのは、この頃からのことだ。

 中央の争いが「暴力」によって解決され、政治や儀式をおこなう貴族や天皇に対して、「武士」が武力にものをいわせる時代がやって来たわけだね。


それで、ようやく平清盛が登場するわけですね。

―そう。
 この時代の終わり頃に、平氏のリーダー(注:平清盛)が、武士として初めての太政大臣に就任した。
 

彼の政権って「武士の政権」って見ていいんでしょうか?

―微妙だね。
 たしかに彼は「武士」の出自を持っているけど、京都では「貴族」としてもふるまった。東日本の武士からの支持も受けていない。
 
 それにお金の出どころも、全国に任命された国司や、中央の貴族や天皇家と結びついた荘園領主からの上納に頼っているわけだから、従来の「律令制」の仕組みに「半分足をつっこんだ状態」といえるね。

イメージ図(すべての主体が源氏側に立ったわけではない点には注意)
平氏の権力独占に反対するさまざまな勢力は、自分たちの利権を守ってくれる権力として新たに源氏に期待をかけたんだ(図中の「→」は「期待」の方向を表す)。源氏は東日本を中心とする武士団のトップ(注:武家の棟梁)の地位にあったからね。


 さらなる経済的基盤を得ようと、宋との貿易もやっている。もともとお坊さんたち(注:奝然(ちょうねん)、寂照(じゃくしょう)、成尋(じょうじん))が半分オフィシャルな使節として宋の皇帝と会ったりもしてるから、関係は友好的だったんだ。
 現在の神戸港の近くに海外貿易の大型船が入ることのできる港湾インフラ(注:大輪田の泊)も建設した。

大型の船?

―ジャンク船という巨大な船だ。
 外用を操舵できるように、この時期に発明されたものは何でしょう?


地図?

―正解はコンパス(羅針盤)。星や太陽、海流や景色などを頼りにせずとも、方角がわかるようになったんだ。
 中国南部の港町には、盛んに西アジアからのイスラーム教徒商人も来航しているよ。
 

ちなみに当時の日本にもイスラーム教徒はやって来ていたんでしょうか?

―日本に滞在したイスラーム教徒に関する記録はまだないけど、ユーラシア大陸の東端に島国があったことは認知されていたようだ。
 当時つくられた地図(注:イブン・フルダールズベの『諸道と諸国の書』)に登場する金を産出するという「ワークワーク」という地名が、日本を指しているんじゃないかと昔から言われているね。


 実はこの時期の中国ではほかにもさまざまな技術が開発されている。
 例えば火薬。
 材料の硫黄はレアな鉱物の一つ。この時期の日本は硫黄の輸出をさかんにおこなっている。

 木版の印刷もこの時期の発明だ。
 版木(はんぎ)を1枚つくれば、摩耗するまでいくらでも印刷できるようになったため、必死に書き写す必要がなくなった。
 これにより「」の印刷が盛んになり、「巻物」に変わって「」が主流になっていく。

 このように情報伝達手段が増えたことで、中国国内の商業はいっそう盛んになり、地味だけど味わい深い陶磁器(注:白磁)や茶のようなヒット商品がさかんに取引された。


地味なのにどうして人気になったんでしょうか?

―中国のエリートの間には、ド派手なものよりも、地味なもののほうが「奥深い」「洗練されている」っていう価値観があったんだ。
 当時の中国のエリートたちは、今までは「国を安定させるための思想」だった儒教をしだいに「人間力を深めるためのスピリチュアルな思想」へとアレンジしていった。


 仏教にもその影響があり、「心を見つめる」ために質素な場で座禅を組む禅宗(ぜんしゅう)というグループがたいへん流行した。
 禅宗のお坊さんは中国と日本の間をさかんに行き来し、両国の指導者にも徴用されているね。


お茶を伝えたのは禅宗のお坊さんでしたね。

―そうそう。
 そのお茶を、石炭を蒸して作ったコークスの高い火力で焼き上げたお茶碗に入れて飲むようになったんだ。

 さて、さっき出てきた平氏の政権だけど、「武士の政権」っていうにはまだまだ未熟だった。
 しだいに天皇家(注:後白河法皇)や東日本の武士からの反発も高まり、結局ライバルの源氏に滅ぼされてしまうことになる。


こうしてできたのが鎌倉幕府ですね!

―そのとおり。
 すでに、のちに鎌倉で政権をひらくことになる人物(注:源頼朝)は、京都の政権と話し合って、東日本の支配権を認めさせることに成功していた。
 しかし、平氏を滅ぼしたのは弟(注:源義経)だ。
 
 そこで、当時出家していながらも力を持っていた上皇(注:後白河法皇)は、この弟に目を付け、兄を捕まえるように命令を出した。
 兄弟の勢力を互いに対抗させようとしたんだ

 しかし上皇の命令を、兄やその家来たちは聞こうとしなかった。これは上皇の誤算だった。兄は上皇に迫り、弟に出した命令を撤回させてしまう。さらに、「東日本(東海・東山道)の軍事権」を認めさせ、独自に「税をとる権利」「犯罪者を捕まえる権利」も獲得したんだ。

 こうして源氏は、東日本においては「国司の担当エリア」の支配権も獲得することになったわけだ。
 東日本で所領を持っていた人々(注:かつての名主(みょうしゅ))は、「自分たちの所領を守ってもらうために」源氏の側につくことを選択した。


ちなみに源氏の「弟」のほうはどうなったんですか?

―兄が上皇のお墨付きを得て討伐軍が編成され、東北地方に逃亡した。
 当時の東北地方では、北方との交易で奥州藤原氏が一大勢力を築いていた。
 
 彼らは京都を中心とする政権(=朝廷)のいうことを聞きつつ、同時に東北地方や北方の民族などの朝廷のいうことを聞かない民族を従えていた。

 でも結局のところ奥州藤原氏は、この「弟」をかばいきれず、「兄」のもとに結集した軍事力を前にして「弟」は自殺した。


この頃の沖縄はどのような状況ですか?

―沖縄諸島の人々は“貝の文化”ともいわれる先史文化が12世紀前後まで続きました。海産物が腕輪や首飾りなどに加工され、日本列島につながる“貝の道”という交易ルートが発達していた


 沖縄諸島には水稲耕作は伝わっていない。
 また、宮古・八重山諸島では台湾やフィリピンなどの文化の影響が強く見られるのは今までどおりだ。

今回の3冊セレクト


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊