奴隷とパンノキ
1775年、北アメリカの13植民地によって構成された大陸会議は、さる4月にイギリスとの戦闘(アメリカ独立戦争)がはじまったことから、9月以降、西インド諸島にすべての商品の輸出を停止することを決議した。
当時の西インド諸島といえば、イギリスが黒人奴隷をつかってサトウキビのプランテーションを展開していたエリアである。
そこへの食料供給がストップしてしまえば、奴隷に食べさせるものがなくなってしまう。農園主たちは危機感をつのらせた。
そこでイギリスが目をつけたのは、探検家ジェームズ・クックが南太平洋のタヒチで発見したというパンノキだ。
「パンノキをタヒチで獲得し、それをカリブ海に移植すれば、黒人奴隷を養える!」ということで、イギリス海軍の軍艦バウンティ号が派遣され、1789年にタヒチに到着。ところがこのバウンティ号は、タヒチからの帰路で水兵による反乱に見舞われてしまう。これはこれで有名な「バウンティ号の反乱」だ。
とにもかくにも生還したブライ船長は、ふたたび命令を受けて航海を行い、1793年に600本の苗を無事西インドに輸送することに成功したのである。
熱帯産の有用植物を、別の熱帯地域に移植する。そのような取り組みが、18世紀には盛んに行われるようになった。
パンノキの場合はカリブ海のセント・ヴィンセントとジャマイカの植物園で栽培されてから配布されたが、やがていきなり別の地域に移植するのではなく、ロンドンの王立植物園(ロンドンキューガーデン(1759年設立))に集められ、品種研究がほどこされた後に植民地に移植されることが一般化した。
パンノキの移植にせよ、奴隷への食料供給にせよ、生命を増やすという点では共通している。
そして生命を増やす行為は、すなわち国力を増大させる営みに直結していた。
これから見ていく近世ヨーロッパの学問と思想の動向にも、少なからずそうした背景が色濃く関わっている。
プランテーションの奴隷たちは、農園主の思惑を十分に察していた。子どもに同じ思いをさせたくないと、土地に伝わる薬草を用いて中絶する女性奴隷がいたことも明らかになっている。
しかし、「産めよ増やせよ」の掛け声のもとで国富を増強しようとしていたヨーロッパ諸国にとって、中絶薬は都合の悪い存在にほかならない。
その研究は、やがて男性を中心とする科学者共同体により、良からぬものとされるようになる。
このように、純粋に学問的な研究や国家の政策とみえる営みであっても、その根底には、その次代の人々がよって立つ世界観や価値観(世界における物をどのように認識するかをめぐる知的な枠組み(エピステーメー))に、色濃く規定されるものである。
ここで少し時間軸をさかのぼり、近世ヨーロッパの学問や思想の特徴を、その経緯をたどりながら明らかにしていくことにしよう。
科学革命の時代
16世紀にアジア・アメリカに乗り出し“視野”をひろげたヨーロッパ世界は、17世紀になると「科学革命」なる時代を迎える。
“わけがわからない”ことを“わけがわからない”ままにするのではなく、“キッチリわかるところまで、理詰めや観察で突き詰める考え方(近代合理主義)が確立されていったのだ。
池上俊一氏の近著の説明を引いておこう。
そう。
科学革命のベースにあるのは、前にも紹介したようにイスラーム科学の業績だ。
その上でヨーロッパが独自に発展させていったのは、世界の成り立ちを数学的に記述していこうとする方向性だった。
天体の動きを観測し、すべての物体の間には、その質量に応じて引き合う力が働いているのだという「万有引力(ばんゆういんりょく)の法則」を導いたイギリスのニュートン(1642〜1727年)は代表的な自然科学者だ。中世以来の研究の進んでいた錬金術(れんきんじゅつ)にも手を出していたものの、観察した結果を「数式」で表すことで、目には見えない力の存在を導き出した点は画期的なもの。中世においては天上は地上とは別格の神に近い世界と考えられていたのだが、ニュートンは両者を区別することなく、いずれにおける運動も数学的に説明することに成功した。そこがすごいところである。
一定の条件におけるさまざまなケースを観察し、そこから法則を導き出す方法を帰納法という。
世界の物事を認識するためには、なにより世界の物事についていろんなかたちで経験することが重要だとしたイギリスのフランシス・ベーコン(1561〜1626年)の発想は、ニュートンをはじめ多くの人々に影響を与えた。
では、彼ら科学者は、どのような場で研究をしていたのだろうか?
池上氏の説明するように、科学革命は、科学者たちが自国を強国にしようとする国家の庇護を受けながらも、「ヨーロッパ」を単位とするアカデミックな交流のひろがっていく、その2つのベクトルの中で展開していった。
むしろ、国による庇護を嫌い、自由な思索をもとめて国をまたいで活動する思想家もいた。
その代表は『方法序説』(1637)・『省察』(1641)をあらわしたデカルト(1596〜1650年)だ。
彼の人生はまさに流浪そのもの、フランスでイエズス会の学校の中世スコラ学的な教育に飽き飽し、卒業後は「世間という大きな書物」において学ぼうと旅に出た。
折しも三十年戦争(1618〜1648)が始まろうとしていた。
1618年に志願将校としてオランダ軍に入ったと思えば(そこでオランダ人の医師から物理や数学に関する知識を得て開眼する)、三十年戦争が勃発すると1619年にドイツでカトリック側の軍に入った。ドイツでの従軍中での思索をきっかけに、これまでの学問を改革してみようとする意志を固め、1620年に軍を離れて旅に戻る。オランダ、フランス、イタリア、フランス…ヨーロッパ中を経巡り、最終的にオランダに移住し、研究に没頭する。そんななか、1633年に勃発したのが、地動説を支持したガリレオ・ガリレイに対するローマの宗教審問所による有罪宣告だ。
純粋に自然科学の論文を執筆したかったデカルトだが、ガリレイを支持しただけでも異端宣告を受けてしまうような時代である。1637年には自然科学に関する3つの試論と『方法序説』、1641年には『省察』、1649年には『情念論』を著すも、悪目立ちしてしまったデカルトは、自由の国オランダでも肩身が狭い思いをすることとなる。
そんななか、哲学に関心を寄せるスウェーデン王国のクリスティーナ女王の招きに応じ、1649年からストックホルムに滞在するも、翌年死去。まさに旅のような人生だった。
そのような中「じゃあどうすれば真理に迫ることができるのか?」ということを考えたときに、彼は「われ思う、ゆえにわれあり」(いま自分が頭を使って考えている。考えている自分がいるということ自体は、少なくとも疑うことはできない。この考えている私こそが、真理に至る出発点だ)ととらえた。
「なーんだ当たり前のことじゃないか」と思うかもしれないけれど、『聖書』の記述や信仰、迷信や悪弊などにとらわれず、「頭を使って合理的に考える方法を考えよう!」というのは、当時の人々にとっては、まさに“革命的”だったのだ。
自然法
この時代の人々の好奇心は、人間社会そのものにも向かった。
その背景にあるのは、ヨーロッパ人がアメリカやアジアの見知らぬ人々との出会いだ。
たとえばアメリカ大陸の人々の扱いをめぐり、16世紀のスペインで論争が起きたことはすでにこちらで紹介した。
一方、16世紀から17世紀にかけて、イエズス会の宣教師が赴いた中国に関する情報も、ヨーロッパの人々を驚かせていた。
「むしろ中国のほうがはるかに先進的な制度を発達させているのではないか?」
18世紀にはシノワズリ(中国趣味)と呼ばれる中国ブームが巻き起った。
ライフスタイルも価値観も違う人間同士に、共通の「決まり」があるとしたら、それはいったいどんなものなのだろう?「人間なら、いつの時代もどんな場所でも、守るべき不変のきまり」(自然法)というものはどんなものだろう?
そんな議論が盛り上がっていった背景には、キリスト教によるつながりを重んじる中世の価値観の崩壊と、主権国家体制の形成があった。
16世紀には各地で王権が権力を強め、それぞれの領域を囲い込み、富国強兵に邁進した。
かつてのローマ教会や神聖ローマ帝国のような、普遍的な権威はもはや通用しない。
そのような現実のなか、王権を支える新しい理論が求められた。
その典型例が、フランスのジャン・ボダン[ボーダン]の『国家論』だ。
ボダンは、国王といえども、法に従うべしとの中世的な考え方を明確に否定し、国王は法よりも優位にあると主張する。
特に宗教戦争が苛烈をきわめたフランスにおいては、王権の強化は国内の秩序のための至上命題であったのだ。
ただ、どの国も同じような行き方をすれば、行き着くのは果てしない戦争だ。
実際17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパ諸国は、ヨーロッパ内の領土と海外の植民地をめぐり熾烈な抗争をくりひろげた。
かつては、各国の主権よりも上位にローマ教会があって、普遍的な権威を及ぼすことができた。
それがもはやなくなった以上、それに代わる新たな法が求められたのは無理もない。
中世以来の議論を引き継ぎながら、「自然法」を持ち出し、国家の法を超える「国際法」について論じたのが、17世紀前半のオランダで活躍したグロティウスだ。
彼はこの『海洋自由論』の中で、スペインがオランダ人の航行を認めないことに対して、「海は誰の所有物でもない」という”自然の命令”をもとに反論しようとしたわけだ。
社会契約説
もうひとつ、この時期に流行った学説に、社会契約説がある。
先ほど言ったように、16〜18世紀は、ヨーロッパ各地の君主が国を統一的にまとめようとしていく時代だ。
しかし、君主も人間である。
なかには人々のことなど考えない邪智暴虐な君主も現れかねない(いわば君主ガチャである)。
なかには君主の権力をキリスト教の神によって説明する学説(王権神授説)も生まれたのだが、それに対抗し、人々(人々といっても、現在のように必ずしもすべての国民を指すものではないことに注意)の権利を確保しようとする思想家が現れた。
彼らの議論は「そもそも国というものは、どういう事情から生まれたものなのだろうか?」というところからスタートする。国家成立の事情から、「どのような国家のあり方が望ましいかを議論するのだ。
もちろん、はるか昔の時代のことなんてわからないからフィクションではあるんだけれど、さまざまな人が「自然状態」(国がまだなかったころの人間たちの状態)を想定した。
でもそんな状態、どうやったらわかるのだろう?
たとえばイングランドのホッブズ(1588〜1679年)という人は、人間の本性を合理主義的にとらえ、 その謎を解き明かそうとする。
どうだろうか。
人間社会ってのは機械みたいなもんであり、その運動によって成り立っているのが国家だ。
つまり、国家を理解するには、その“部品”たる人間とは何かが分かればよい。
…というわけで、ホッブズの考察は、人間の心理へと進んでいく。
おもしろいのは、ホッブズが「人間の思考や感情は相互に似かよっている」と言っていることだ。
人間ってのは、だいたいみんな似たようなものだから、難しく考える必要はない。自分自身を知ろうとすれば、それがほかの人々を知ることにつながるというわけである。心の作用が国家というよくわからない人工物を生み出すのだとすれば、そのメカニズムを深掘りしよう。ホッブズはそのようにアタリをつけた。
こうしてホッブズは、自然状態を「国がなかった頃の人間たちは、自分や味方ことばかりを考え、限られた富を奪い合う状態(万人の万人による闘争)だった」との推論に至る。でも、それじゃあ怖い。だから人間はその状態を避けようとする。そうして自主的に自分が生まれつき持っている権利を「ひとつの存在(主権者)」に委ねる形で、「国家」があらわれてくる。
ようするに「国家」というのは、個々にバラバラな「個人」という要素が集まってできたものなんだという発想だ。
ホッブズの『リヴァイアサン』の表紙には、たくさんの人々が集まって「リヴァイアサン」という強大なパワーを持つ怪物(たった一人の主権者)を構成しているイメージ図が掲載されている。
ホッブズの世界観は突飛に聞こえるが、機械論的に世界をみようとする当時の潮流に根差したものだったといえるだろう。
一方、違った方向から国家の成り立ちについて考えた思想家もいる。
イングランドで名誉革命が起きた時に活動したロック(1632〜1704年)だ。
彼は、「もともと人々は、自分たちの自由や財産を守るため、それを保護してくれる政府に支配を“任せる”契約を結んだのだとする。
でも万が一、政府が勝手なマネをして、人々と結んだはずの約束を守らなくなってしまったらどうすればよいのだろう?
これについてロックは、次のように説明する。
ロックにとってもっとも大切なのは、所有権をはじめとする自身の安全と安心の確保だ。
そりゃあ、国家などつくらずに、のほほんと暮らせたら、そもそも国家による自由の侵害なんて考える必要はないのだが、人間の社会はそんなに甘くない。所有権が脅かされるおそれがある。だから自ら立法府を設立し、自分たちの共同体を樹立する。だが、その共同体の意志が、常に人々の意志と同じであり続けるとは限らない。だからこそ、人々の意志を履き違えた立法府を倒す権利(革命権;抵抗権)を、人々に確保しておく必要があると、ロックは考えたのだ。
ホッブズにせよロックにせよ、人間の本性や社会について、じつに緻密な吟味をくわえていることがわかるだろう。
しかし、これらホッブズとロックのいずれにも与しないの異色の思想家・作家が、18世紀フランスに現れる。ジャン・ジャック・ルソーである。
その主著『社会契約論』の冒頭は、まさに、人間の自由をどのように確保するかという問いから始まる。
ホッブズの場合は、人々はまず自分たちの国家をつくる契約を結び、その上で第三者との間に主権を認める契約を結ぶ理屈になっている。
だが、それでは第三者が、人々の意志と食い違うおそれがあるのではないか。第三者に主権を譲り渡してしまったら、その時点で人々は主権者ではなくなってしまい、自由を失うのではないか。
ルソーの批判はそこにある。
また、ルソーはロックの学説も次のように批判する。
人は一人では生きることができない。しかし、共同体をつくったとたん、自由を支配者が登場するかもしれない。その危険を防ぎながら、人々の自由を守るにはどうすればよいのか。
ルソーの用意する答えは「一般意志」を実現する直接民主制である。
このようにして社会契約説は、ルソーの理論により、最終的に「人民主権」にもとづく新しい国家理論へと発展することになる。
(続く)