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史料でよむ世界史 13.3.6 東南アジアにおける民族運動の形成(1)

大きな問い:なぜこの時期の東南アジアでは、植民地に対する抵抗運動が盛り上がったのか。


東南アジアの地域は、タイをのぞくすべてのエリアが植民地の支配下にあった。
いずれのエリアでも、植民地支配に抵抗する運動がみられたけれども、その多くは弾圧され挫折していった。しかしこの時期の運動は、のちの民族運動に大きな影響を与えることになる。
それぞれの地域についてみていこう。


🇮🇩インドネシア

問い:インドネシアでは、なぜ「カルティニ」の誕生日が国民的な祝日として祝われているのだろうか?

インドネシアでは、毎年4月21日、女性たちがインドネシアの伝統衣装の「クバヤ」を着てある人物をお祝いする。
その人物とは、カルティニという女性。
インドネシアでは国民的な “英雄” だ。


彼女の活躍した当時、現在のインドネシアはオランダ領東インドとして植民地支配されていた。


オランダはたいへん厳しい支配をおこなっていたのだが、19世紀末になると、宗主国のオランダでは「このまま厳しい支配を続けていては、オランダ領東インドにおける反発を生み、まずいことになるんじゃないか」という世論も生まれるようになった。
そこで強制的に商品になる作物を栽培させようとする制度(強制栽培制度)を廃止させるなど、植民地政策を見直す動きも強まった。

その結果、20世紀初めには「倫理政策」(りんりせいさく)と呼ばれる政策がはじまった。
これは、インドネシアに対する厳しい支配をやめ、キリスト教を布教して住民の暮らしの質を高めるとともに、現地のエリートに対して権力を一部預けるもの(福祉政策と自治政策)。
その一環で、現地人を役人にとりたてるための学校も設立されることになった。しかし役人になったのは、貴族の子弟がほとんどだった。学校ではインドネシア各地の言葉ではなく、オランダ語の教育や専門教育がほどこされた。

要するに、帝国主義におなじみの、「「文明」の光によって「野蛮」の闇を明るく照らしてやろう」という話だ。

「それはオランダ=白人=キリスト教徒=文明のが、東インド=有色人=非キリスト教徒=野蛮のをはらい、蒙を啓き、文明に導くのだという、現在からみれば独りよがりの思い上がり以外の何ものでもない発想に基づいていた。」(参考 池端雪浦(編)『東南アジア史Ⅱ 島嶼部』山川出版社、1999年、283頁))



しかし、倫理政策には “副作用” もあった。
オランダ語が読めるようになれば、ヨーロッパの最先端の思想にもアクセスできるようになる。そうなると、それらの教育をうけたに子弟のあいだには、「自分たちだって、インドネシア人なんだ」「インドネシア人としての自覚を持たなければ、いつかみんな“オランダ人”みたいになってしまう」という自覚や危機感が芽生え始めることになったのだ。


***


ここで、冒頭で紹介したカルティニ(1878〜1904年)を呼び出そう。


彼女は結婚の準備のために12歳で家に閉じ込められたものの、オランダ人の友人によって16歳に外の世界に脱出。

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このときの経験から、男尊女卑や強制的な結婚などの女性に対する差別とたたかい、女子教育を推進する運動を、25歳という短い生涯の間におこなった人物である。
彼女は次のような手紙を、オランダ人の友人に宛てている。


「教育の目的は
自分の生徒たちを半ヨーロッパ人にしたり、オランダ化したジャワ人に育てあげようなどとは、露(つゆ)ほども考えたことはございません。
自由な教育をほどこす目的は、何よりもまず、ジャワ人を純粋のジャワ人に、郷土と民族への愛とよろこびをもち、民族と郷土との良さを見てよろこび、そして......苦しみをともにする魂をそなえたジャワ人にすることです!」(『光は暗黒を越えて』(カルティニの手紙))


カルティエが、オランダからもたらされた自由や平等といった価値観に影響を受けながらも、「自分たちはジャワ人なのだ」というアイデンティティを持ち、その誇りを出発点にし、因習を改革していこうとしたことがうかがえる。


というかむしろ、カルティニがそのように「わたしたちはジャワ人なのだ」と述べたこと自体が、実は画期的なことだった。
「私はジャワ人である」と語ることそのものが、そもそもオランダからもたらされた近代的な価値観だからだ。

私について語る「私」という主体を認識すること。
それは従来にはなかった新しい考え方だったのだ。


これについて東南アジア研究者の白石隆さんは次のように述べている。

「たとえば、ジャワのワヤン(影絵芝居★1)において、語り部の表現する自然を自然についての描写であるとして取り出すことにはほとんど意味がない。自然はそれほどに「この世の人事」と一体化している。そこでの 自然は常に「この世」の運命を暗示するものとして描かれるか、あるいは「この世」の力(典型的には王の力) を称賛するシンボルとして描かれている。したがって、そこに認められるのは、伝統的な「決まり文句」にすぎない。

しかるにカルティニにあっては、自然は自然それ自体としてあたかも風景画を描くように描かれる
。 その核心には「わたしは見る」あるいは「わたしは聞く」という「わたし」があった。カルティニはこのオランダ語の「わたし」を手に入れることによって、「あたかも画家がキャンバスの上に風景を描くように自然を描写」 することができるようになったのである。」(白石隆『海の帝国』中公新書、2000 年、114-115 頁)。

★1 ワヤンはジャワ島に伝わる伝統的な影絵芝居。『ラーマーヤナ』などの演目が上演される。下の動画を参照。



どうだろうか。

「わたし」という主体を出発点に、周囲について語ることや、周囲の世界について描写するということは、伝統的な社会においては意識的におこなわれてこなかった。しかし、カルティニは、オランダ語を通して「わたし」という「考える主体」を手に入れ、「自然」な存在と見えていた環境を、言葉によって意味づけする術を得た。
だいたいそのようなことを言っている。

カルティニは「第三者の視点」を、オランダ語で書かれた小説から学びとったようだ。
「三人称の視点」を獲得すれば、「私」も「私の村」も「ジャワ」も、メタな視点で、俯瞰して見ることができるようなる。



このことがどのような意味とインパクトを持ったのか。次の箇所を読んでみよう。

「このショックは、カルティニのようなオランダ語教育を受けたバイリンガルの「原住民がオランダ語で書いているかぎり、個人的ショックにとどまった。バイリンガルの「原住民」の数など、たかが知れていたからである。しかし、 オランダ語の「わたし」がムラユ語(未来のインドネシア語)の「わたし」に翻訳されると、これがたちまち大きな政治的意味をもった。別に難しいことを言っているのではない。わたしが、いま、ここに、社会的現実と してある「わたし」しか知らなければ、現実を揺らぎないものとして受け入れるほかないしかし、多くの人々が、いま、ここに、社会的現実としてある「わたし」とは別の「わたし」を想像できるようになれば、そうした人たちが「もしわたしがオランダ人であったならば」「もしわたしがオランダ東インド総督であったならば」「もしわたしが県知事であったならば」と問うようになるのは時間の問題である。そのときオランダ東インド会社の 植民地秩序、社会秩序はもう自明のこととしては受け入れられない。

これが、近代的な政治、あるいはもっと平たくいえば、われわれがそれを見て、ああ、これは政治である、 とただちにわかるそういう政治を生み出した。たとえば、われわれ は、ジャカルタのアメリカ大使館前で数十人の人たちがプラカー ドをもって立っていれば、ああ、デモだ、とわかる。......バイリンガルのジャワ人、スワルディ・スルヤニングラットが「もしわたしが オランダ人であったならば」の一文をオランダ語で記し、これがムラユ語に翻訳されてオランダ「流刑」処分となったのが 1912 年、 この年、東インド最初の大衆集会も開催された。......」(上掲、116-117 頁)

この指摘にはなるほどと思わせるものがある(同様の議論としては、柄谷行人の「風景の発見」がある)。



なぜこの時期の東南アジアでは、植民地に対する抵抗運動が盛り上がったのか。
それは、植民地政府に対する「われわれ」という主体が、宗主国の言葉によって生み出され、意識化されたからではなかったかというわけである。
そして、いったん「われわれ」意識が生み出されると、今度はその適用範囲をめぐって、さまざまな政治的な想像力が生まれることになる。
わたし」のことを意味づけする「わたし」意識が意識化されると、「わたし」はあるときには「女性としてのわたし」となるし、あるときには「小作人としてのわたし」になる。
「オランダに支配されているわたし」でもありうるし、それを「ジャワ人であるわたし」に上書きすることも可能だ。
わたしを意味づけるカテゴリーはいくらでも交換可能だし、「オランダ人であったかもしれないわたし」というように、現実には存在しないカテゴリーについても考えることを可能にする。
だからこそ、わたしの理想のあり方について、自由に考えることができるというわけだ。

宗主国の言語を通して「わたし」をめぐるさまざまな意見が噴出し、やがて宗主国の支配そのものを揺るがす「われわれ」意識へと発展していく。
この時代はまさにそのような時代であった。

なお、現在のインドネシアでも、カルティニは国民的ヒロインとして尊敬されている。



しかし早逝したカルティニの「本当に言いたかったこと」や「生き様」が、彼女の後代の評価と一致するとは限らない。
先ほど紹介したカルティニの「手紙」の内容も、実は死後に友人の一人が編集し、手を加えたものが書籍化して広まった。

オランダ人にとっては、カルティニは、1901年にはじまった倫理政策の絶好の成功例。オランダ語教育をしっかりとすれば植民地の人々も、カルティニのように立派に西洋化・文明化されるのだというわけだ。
彼女の死後、妹たちは女子教育のための学校を設立し、その遺志を受け継いでいくことになる。

とはいえ「女性の解放を訴えた」という側面が、実像以上に強調されてしまっているところも否めない(以下のリンクを参照)。
彼女が素朴に抱いていた故郷のジャワへの想いと「ジャワ人としてのわたし」意識は、やがてインドネシア全体の「われわれ」意識へと拡大されていくことになる(1964年にインドネシア大統領のスカルノが、カルティニの誕生日である4月21日を「カルティニの日」(カルティニ・デー)に制定し、12月22日には「国家独立英雄」に認定している)。


ある人物の考えていたことが、その後、さまざまな人によって意味づけがなされ、いつの間にか、どんどんスケールの大きな評価へと膨らんでいってしまうことは、これに限らずよく起こることだ。
ほかにもどのような事例があるか、探してみるのもいいだろう。


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カルティニの死後のオランダ領東インドでは、民族主義的な運動が一気に盛んになった。

ブディ・ウトモ

1908年に医学生を中心に結成された「ブディ・ウトモ」は、ジャワ語で「最高の英知」という意味。初の民族主義的な運動(インドネシアの民族主義の出発点)として位置付けられるけれど、会員はエリートに限定され、一般庶民にまで裾野はひろがらなかった。

サレカット・イスラム

一方、1911年にはジャワ島で相互扶助を目的として「サレカット=イスラム」(イスラム同盟)が成立した(下図)。
コメの不作や疫病の流行、自然災害の多発、それに中国人の政治的活動の活発化を背景に、小さな助け合いの組織としてはじまったこの組織は、「われわれ」意識の基盤をイスラーム教に求める方向性を打ち出した。
なぜか。
それは、当時はまた「インドネシア人」という言葉が定着していなかったからだ(当時は、オランダ語でもムラユ語(現在のインドネシア語)でも、単に「インド」と呼ばれていた(参考 池端雪浦(編)『東南アジア史Ⅱ 島嶼部』山川出版社、1999年、282頁))。

サレカット・イスラムは、政治的な組織へと発展。1913年半ばに会員数は30万人を超え、ブディ・ウトモとは違って、大衆的でゆるやかな組織体へと発展していった。

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1918〜20年に民族運動がもりあがると、サレカット・イスラムはロシア革命の影響を受け、社会主義を掲げるようになる。1920年に成立した「インドネシア共産党」(アジア初の共産党。下図)も、サレカット・イスラムと歩調を合わせ、ストライキなどの運動を激しくおこなった。

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しかし、結局両者はしだいに対立。植民地政庁による弾圧が激しくなる中、1923年には共産党とサレカット・イスラムはたもとを分つこととなった。

結局、その後もオランダの植民地政府による弾圧を受け、組織は崩壊してしまうことになる。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊