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【第2回】ニッポンの世界史:日本人にとって世界史とはなにか?

「世界史」には決まりきった構成があると思っていませんか? 

そんなことはありません。その構成は、長い歴史の中でくりかえし定義されなおし、いまなお変身の途上にあります。お手持ちの「世界史本」の構成も、目新しいように見えて実は、これまで考案されてきた世界史の構成のいずれかのパターンに当てはまるはずです。
その描き方には、日本人が世界や歴史を見るときに突き当たる「困難」が色濃く反映されている。そして、日本における「世界史」は、教科書を中心とする”公式”世界史と、それに対抗する”非公式”世界史のせめぎ合いのなかで再定義されてきた——このような視点から、「ニッポンの世界史」をよみとく文脈を明らかにし、世界史の描き方の現在地を探る特集です。

「世界史」という科目は、どのようにして生まれたのか?


 
前回、1949年に「世界史」という科目がつくられたと述べました。
 どのような経緯で「世界史」という科目が置かれたのでしょうか?
 今回はちょっとお堅い内容にはなりますが、「科目世界史」がどんなふうに誕生したのか、その秘話をきちんと確認しておかねばなりません。
 まずは戦後まもなくの状況を確認しておくことからはじめましょう。

戦後の新科目「社会科」

 1945(昭和20)年9月2日、1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリ号において、降伏文書調印式が行われました。

Public Domain, https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_surrender_signatories_arrive_aboard_the_USS_MISSOURI_in_Tokyo_Bay_to_participate_in_surrender_ceremonies_HD-SN-99-03021.jpg


 9月にはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が本格的に活動を始め、占領政策に着手。GHQの指示をうけた政府が、様々な分野で戦後改革をすすめていくこととなりました。

 改革のメスは教育分野にも及びます。 

 まず、修身、日本歴史および地理の教科を教えることは、GHQの指令によって1945年12月31日に停止され、教科書は回収・廃棄されることとなります。
 これら3教科には「軍国主義的および超国家主義的イデオロギーが、修身、日本歴史および地理の教科に執拗に織り込まれていた」とされたためです。

 翌1946年3月にはアメリカ教育使節団が来日し、1ヶ月後に包括的な報告書を公表。そこには「記録された歴史と神話とが意識的に混同され」た戦前の歴史教育の問題点を指摘した上で、新たな歴史教科書の編纂が提案されていました。

 そして1947年には小学校 6 年・中学校 3 年・高校 3 年・大学 4 年と改められた新しい学制がしかれ、新しく「社会科」という教科が設置されることになりました
 新科目「社会科」の目的は次のようなものです。

 (1)自主的、建設的で、しかも批判的な能力の育成
 (2)社会生活を総合的、連関的に理解し、社会の諸問題を事実に即した知識をもって合理的に解決する能力の育成
 (3)知識と生活を密着させ、それらの学習を通じての社会にとって好ましい態度や習慣の育成。

 社会科は軍国主義的な要素を一掃し、民主主義を徹底するための教科として重視されたわけです。
 そのためにふさわしいとされたのは、問題解決学習と単元学習というアメリカで発達した学習方法です。



高校では「国史」(日本史)の代わりに東洋史と西洋史が置かれた


  しかし、改革は早くも修正されます。

 新学制がはじまったのは1947(昭和22)年4月ですが、これより前の1946年10月14日、GHQは歴史の授業を再開する許可を出していたのです
 それを受け文部省は11月に通達「国史授業指導要項について」を公にしますが、まだ新学制がはじまっていない段階でした。
 そこで、国民学校、中学校、師範学校などで使用する教科書が、わずか1か月半で編纂されることとなります。つまり、新学制において「社会科」が実施されるのとは別コースで、国史の教育が再開されるといういびつな状況が生まれたわけです。
 
 とはいえ、国史はいったんは「軍国主義的および超国家主義的イデオロギー」とにらまれた科目です。
 歴史や地理に関する科目が、新学制の高校ではどのような科目に再編されることになるのかも問題でした。「民主主義を徹底するための教科」としてもうけられた社会科と、整合性をとる必要もありました。

 結果的として、小学校から中学校までの9年間の社会科は、高校1年の「一般社会」(必須科目)に引き継がれることになりました。
 そして高校2〜3年においては、4つの選択科目が置かれます。

 この4つの選択科目のラインナップは以下のとおり。

 ・東洋史
 ・西洋史
 ・人文地理
 ・時事問題

 
 ようするに、高校の歴史科目からは依然として「国史」が省かれたままとなり、歴史科目としては東洋史と西洋史が置かれることとなったのです。西洋史・東洋史はほかの科目とあわせて最低1科目が選択必修の扱いでした。

 歴史研究を国史・西洋史・東洋史に区別する明治以来の日本の歴史研究における3分科制が、国史をとりさることによって、西洋史・東洋史が残されたわけであって、「世界史」が西洋史・東洋史に分けられたわけではありません。
 歴史は東洋史、西洋史、国史で構成されているのだから、戦前の皇国史観の影響を排除するために国史を省けば、のこるは西洋史と東洋史だけということとなります。「世界史」という学問分野自体、存在する余地もありませんでした

 ちなみに、西洋とはどこからどこまでを指すのかというと、実は判然としていませんでした。東洋というくくりは、ほぼ中国を指すものと考えてよいですが、実際には西洋以外の地域、つまりイスラームやインド、アフリカといった地域は、東洋という箱に投げ込まれることとなります。
 
 とはいえ、その導入の目的は、西洋史を学ぶことが、戦後日本の民主化に貢献するという期待にあったことは、学習指導要領試案からも読み取れます。

 


西洋史と東洋史はどのような科目だったのか?


 当時の東洋史、西洋史雰囲気を感じてもらうために、西洋史の学習指導要領(試案)の「はじめに」を、少し長いですが引いておきましょう。

「歴史を学ぶ目的は、一口にいえば、今日の文明の由来を知り、現代文明を理解することにある。即ち、人類がいついかにしてこの地上に現われ、そのつくり上げた文明がどのように発展して今日に至ったかを、さまざまの土地において、かつ時の流れに従って認識することにある。それは結局われわれが今日いかに生くべきか、明日の世界はどうあるべきかということにつながって来る。それ故歴史を学ぶ関心は、あくまで現代から生ずるのであって、そこには歴史観・世界観の問題が重要な意義を持って来る。これまでわが国においては、偏狭な自国中心主義の観点から世界の歴史が眺められる傾きがあったが、今日このような態度は、排除されなければならない。
 しかしこのことは、決してその時々の流行やイディオロギーによって勝手に歴史がつくりかえられるということを意味するものではない。歴史はあくまでも客観的に、公平に学ばれねばならない。そしてそのことによってはじめて正しい歴史観や世界観が育くまれるのである。歴史を学ぶために、世界観が必要だということは、広く現代社会の発展を理解するために、現代の問題に関心を持ちつつ歴史を学べということであって、決してなんらかの先入観を特って、歴史を眺めよというのではない。
 人類の歴史は全体として一つの統一ある発展をなしているが、その発展は地域に応じて差異を生ずる。東洋史と西洋史とが世界史の二大区分をなすのはそのためである。東洋史はわれわれがその一部をなしている東洋の特殊性を知る上に重要であるが、しかも今日の世界の主流をなしているのは、西洋文明であるから、東洋の歴史を知るためにも、西洋史の知識が絶対に必要である。

 「今日の世界の主流をなしているのは、西洋文明であるから、東洋の歴史を知るためにも、西洋史の知識が絶対に必要である」というのは、かなりの直言ですよね。
 西洋史とは現代の感覚でいえばヨーロッパやアメリカの歴史ということになりますが、当時はそうではありません。すでに滅んでしまったオリエント文明も、西洋史の「前史」として位置付けられていました。
 これには、先史時代から古代オリエント文明を経て、ギリシア→ローマ→ゲルマンというように一直線に進んでいったとする、西洋における伝統的な世界史理解が反映しています。

 では、東洋史はどのような扱いだったのでしょうか?
 おなじく「はじめに」をみてみましょう。

「[前略]今日の文化はだいたい西洋文化の系統であって、東洋古来の文化は中途で断絶し、今日につながらない観がある。そのために世人の東洋史に関する興味はすこぶる消極的となり、あるいは東洋の歴史は退歩の歴史であるなどと、誤解する向きもある。しかしそれは決してそうではない。東洋の歴史も徐々にではあるが、着実に進歩・発展して、漢・唐より明・清になったのである。それがたまたま飛躍的に進歩した西洋の近代文化のために圧倒されただけであって、決して衰弱せる東洋が亡びて西洋がこれにかわったわけではない。もちろん西洋の近代文化は優秀なものであるから、東洋の古風文化がこれに圧倒されたのは当然のことであって、ここに全世界は一つになり、東洋はひたすらこの優秀な文化を学習消化することになった。けれども東洋五千年の伝統は亡びるものでないから、西洋伝来の近代文化を吸収同化し尽くしてしまった後には必然東洋固有の特色が新装して現われるであろう。そうしてそれこそ東洋が世界文化に貢献する唯一の道なのである。」

 「西洋の近代文化は優秀」であったから、いったん東洋の「古風文化がこれに圧倒され」、「全世界は一つ」になった。
 しかし、「東洋固有の特色」は絶えてしまったわけでなく、必ずやまた違ったかたちでリバイバルするはずだ
——おおづかみに言うと、まあ、こういう理解になりますね。
 この部分を読めば明らかなように、明らかに西洋=進歩/東洋=停滞という対立図式が認識の根っこにあったわけです。




「暗記科目ではない」


 もうひとつ東洋史の「はじめに」で注目しておきたいのは、以下の箇所です。

「従来はややもすると、歴史を暗記物などと称し、史実を暗記するものと誤解する傾向があったが、それはもちろん誤りである.歴史もやはりこれを了解し体得すればよいのであって、決して理解できない知識を詰め込むものではない。了解した事項で暗記していないことがあれば、必要な参考書について確かめればよいのである。教科書ももちろんそういう意味の一参考書であって、これを丸暗記する必要はない。今後の教科書がやや詳細にわたって部厚くなるのもそのためである。たびたび参考し、理解している中には、必要なことだけは自然に記憶に残るものである。」


 ここでは歴史は暗記教科ではないことが、実にはっきりと掲げられていますね。
 これには敗戦直後という状況もあるでしょう。当時は、現在のように国による教科書検定制度がなく、代わりに「参考書」が示されるだけでしたし、教科書の編纂も間に合わなかった。
 指導要領(試案)には「学校当局として特別の努力をして多数を備え、生徒に自発的研究の便宜を提供すべきである」とあります。たとえば西洋史なら東洋史なら那珂通世の『支那通史(全3巻)』(岩波書店、昭13〜16)という具合です。


 では指導要領には何が載っているかというと、「こんなふうに問いを立てて学習をすすめるとよいですよ」という、たとえば次のような問いの事例です。
 単元一 東洋の古代文化はどのようにして成立したか。
 単元二 東洋の文化はどのようにして拡充したか
 単元三 庶民生活はどのように向上したか
 単元四 古い東洋はどのように老成したか
 単元五 東洋の近代化はどのように進んでいるか




国史の復活を求める声


 ですが、東洋史と西洋史というように、外国史が分断されているのはおかしいだろうという見方があったことも事実です。
 
 しかも、高校の選択科目から外された国史の研究者からの批判も強まります。高校から国史がなくなるれば、国史を学んだ大学生が、新制高校で教鞭をとることができなくなってしまうという就職口の事情もあったようです。

 さらに細かな事情になりますが、戦前と戦後で、前期中等段階、すなわち中学校にあたる部分の扱いが変わり、そこで何を教えるかということも問題となっていました。
 戦前の義務教育は初等教育、すなわち戦後でいう小学校までで、卒業後の進路は陸軍・海軍の学校も含め、複数のルートにわかれていました。しかし、戦後は中等教育のうち前期にあたる「中学校」までを義務教育とし、後期が「高等学校」とされます。そうなると、教育内容が校種によって多様であった戦前の中等教育をひとくくりにしようとしても、農業や工業など職業に関する中等教育をおこなっていた学校のカリキュラムと、普通科の学校のカリキュラムの間にギャップが生まれてしまう。そのため、職業高校と普通普通高校にかかわりなく、国民全員の教養として、高校生が学ぶべき共通教科・科目をつくるべきだという声が出てきたわけです。

 こうしたさまざまな事情から、1949(昭和24年)年に東洋史と西洋史の代わりに、日本史(旧・国史)と世界史とすることが決められます。
 新たに5 単位分の「日本史」を設けて選択科目にくわえるために、「東洋史」と「西洋史」が便宜的にひとまとめにされたと見るべきでしょう

 教育学者・茨木智志が詳細に研究するように、なぜ、どういう経緯で「世界史」という科目がうみだされたのか、占領下での改革ということもありいまだ謎に包まれた部分もあります(注)。
 ただ明らかのは、そこになんら学問的議論もなければ、世界史の内容構成に関する教育上の議論もなかったことです(高澤紀恵「戦後・教科「世界史」・西洋史学」『法政史学』(96)、2021年、1-4頁)。

 

怪物とよばれた新科目「世界史」


 このように、「世界史」という科目は、敗戦直後のドタバタの中で急ぎ産み落とされました。

 どのくらいドタバタであったかというと、新科目「世界史」が始まった当初は、教科書もなければ、学習指導要領もありません。学習指導要領(試案)は、ようやく1951年になって発表されます。

 「まえがき」を見てみましょう。

「(前略)社会科は現代社会をいっそうよい社会に形成させるに必要な知識や態度・能力を養うことがその最大目的である。
(中略)
現代社会を理解して、将来に向かい有為の社会人を形成させるためには、単に、みずからをとりまく周囲の社会を知るだけではふじゅうぶんであり、時間的・空間的に視野を広げて、さまざまな異なった社会生活を学ばせなければならない。この時間的視野の立場に立って歴史を学ぶのが、社会科における歴史教育なのである。」

(「まえがき」より)


 ここからは「社会科における歴史教育」とあるように、世界史は、おなじく新科目として戦後にはじまった「社会科」の枠内に設置されたことがわかります。

 学習の方針については、次のように「教科書全部の暗記」や「教科書全部の講義」を否定しています。

「生徒の使用する教科書は、従来のごとく、教師が、これをページをおっていちいち講義するものではなく、その内容は、そのまま生徒の学習内容となるものではない。現在の教科書は、生徒が、問題解決の学習のため、各自必要に応じて、使用するものである。したがって、教科書全部を教師が講義するものではなく、生徒は教科書全部を暗記することを要求されているものでもない。」(「まえがき」より)


 ここには歴史そのものを学ぶことが目的ではなく、歴史を通して「のぞましい社会」に対する認識を育てるという方向性が、一貫してうちだされているわけです。


時代区分は一応示されたが…


 時代の区分については「いろいろな区分が考えられる」としながらも、一応の案として「近代以前の社会」と「近代以後の社会(近代社会と現代の社会)」という区分が採用されました
 いまでは考えられないほど大雑把なものですが、現代の社会を理解するためには、近代以前の細々とした知識の暗記は捨てて、現代により近い時代への問題意識をもってもらおうということでしょう。
 ただ、問題解決学習をうたいながらも、学習指導要領のその後の箇所には、一応の参考として内容が列挙されています。

「近代以前の社会」
1.原始社会の発展
2.古代国家の形成
3.古代文化とその特色
4.西欧封建社会の成立と発展
5.アジアにおける専制国家の変遷
6.民族と文化の接触交流
7.宗教と生活文化

「近代社会」
1.市民階級のたい頭とその影響
2.絶対王制と市民革命
3.産業革命とその影響
4.近代民主主義とその発展
5.ヨーロッパ勢力の世界進出
6.アジアの近代化
7.近代文化の発展

「現代の社会」
1.第一次世界大戦とヴェルサイユ体制の成立
2.全体主義と第二次世界大戦
3.戦後の世界情勢
4.世界史上における現代日本の位置

 この構成をみると、特に「近代の世界」はほとんどが「西洋史」といってよい建て付けになっています。
 この構成が、やがてどのように変化していくのかが、「ニッポンの世界史」を考える上でとっても大切になってきます


問いをベースにした単元構成


 教室では、これらの事項のすべてを網羅的に扱うのではなく、「単元」を設けて、生徒の自主的な問題解決学習や主題学習をさせるということになりました。
 しかし、ついこの間まで、講義形の一斉授業をおこなっていた先生たちに、いきなりこんなことをさせるのは、当然むずかしいですよね。さすがに現場に「丸投げ」ということになっては困ると考えたのでしょう。
 指導要領では、次のように4つの案が示されました。

(A案)
第1単元
 アジアの社会とヨーロッパの社会の発展にはどのような相違があるか。
(中略)
内容
1.われわれの生活には外国文化がどのように取り入れられているか。
(1)西洋人とわれわれの生活とにはどのような違いがみられるか。
(2)中国人・朝鮮人などの東洋人とわれわれの生活とにはどのような違いがみられるか。
2.人類はどのようにして発生し、社会生活を営むようになったか。
(1)人類はどのようにして文化的にその地位をたかめたか。
(2)今日の未開民族の生活と原始人の生活との間にはどのような似た点と違った点があるか。
(3)原始人の社会生活とわれわれの生活とではどのような違いがあるか。
3.人類はどのようにして国家を形成するようになったか。もれは地域によってどのように違うか。
(1)文明はどのような地域に発生したか、それはそれぞれどのような特色をもっているか。
(2)ピラミッドや万里長城のような大工事はなぜ営まれたか。
4.世界のおもな古典文明にはどのようなものがあるか、それはどのような社会的地盤の上に発生し、どのように今日の生活に影響を与えているか。
(1)ギリシア・ローマの文化はどのような社会的地盤の上に発生したか、そして今日の社会にどのような影響を与えているか。
(2)中国・インド・日本などの古代文化はどのような社会的地盤の上に発生したか、そして今日の社会にどのような影響と与えているか。
(3)わが国でローマ字が普及し、漢字制限が叫ばれているのはなぜか。
(以下略)

(B案)
第1単元 どのようにしで近代以前の社会は発展し、今日のわれわれの社会に影響を与えているか。
第2単元 世界における主な文化はどのようにして生まれ、今日の社会にどのような文化遺産を残しているか。
第3単元 近代社会はどのようにして発展したか。
第4単元 近代文化はどのように発達し、現代社会にどのような役割をもっているか。
第5単元 世界各国相互の密接な交渉により、どのような問題が生じたか。
第6単元 世界平和の維持と民主化のためにどのような努力がなされたか。

(C案)
第1単元 大昔の人たはどのようにして生活を切り開いていったか。
第2単元 生活にほとんど自由のなかった社会で人々はどのような暮しをしたか。
第3単元 人々はどのようにして生活の自由を得ようと努力したか。
第4単元 人々の自由はどのようにして確立されようとしているか。

(D案)
第1単元 国家と社会主活とはどのようなつながりで発展してきたか。
第2単元 市民の活躍は社会の発展にどのような役割をつとめたか。
第3単元 世界平和はどのようにして求められてきたか。

 なかなか大胆ですよね。
 現場にいかに多くの裁量が与えられていたかがわかるでしょう(成立期の事情については、「文部省通達「高等学校社会科世界史の学習について」(1950年9月)の世界史教育史上の位置づけ」『歴史教育史研究』2、2004、19-28頁に詳しい)。


怪物と呼ばれた新科目「世界史」


 社会科世界史はこのように、見切り発車というか、帳尻合わせのようなかたちでスタートしたわけですが、なにせ戦後まもない復興期のことです。暗中模索の現場には、当然ながら混乱も見られました。
 たとえば1950(昭和25)年に出版された『世界史の可能性』という書籍があります。これは歴史学者どうしの分断された状況や、教育現場とのギャップを生々しく伝えている重要な資料で、その冒頭において編者で成城高校で教鞭をとっていたの尾鍋輝彦は、次のように伝えています。

 「一つの怪物が、1949年の日本に突如として現れた。社会科世界史という怪物が。文部官僚も、西洋史家も、東洋史家も、はたまた日本史家もこの怪物の正体がつかめない。ましてこれと取り組む運命におかれている高等学校の教師と生徒にとっては、難解なることゴルギアスの結び目の如くである。」

国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2974361/1/3 


 歴史教育畑でしばしば引用される「名文」です。


 このように「怪物」とされた世界史は、やがて暗記科目の代名詞となる一方、21世紀にはビジネスパーソンに必須の「教養」と目されることになります。

 そのあいだ、世界史はいったいどのような道のりを歩んできたのでしょうか?
 前回紹介した小川幸司の指摘のように、「暗記地獄」となった原因は、本当にひとえに受験を見据えた高校教師の善意にあったといえるのでしょうか?

 まずはこのまま「教科世界史」の動向や歴史学・歴史教育界に軸足を置いて、日本人の世界史意識の変遷を教科書的にたどってみたいと思います。

 (続く)



(注)茨木智志「成立期における高校社会科「世界史」の特徴に関する一考察」全国社会科
教育学会『社会科研究』72、2010、pp.11-20。木崎弘美「新制高校「世界史」の創設─2009年度歴研大会 茨木智志報告をめぐって」、歴史学研究会編集『歴史学研究』No.865、2010、pp. 27-32も参考になる。

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