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認知

これはあたしの悪い癖でもあるのだけれど、ことばの解釈を間違えることってよくあるんじゃないかなと思う。

例えば、何がの作業に対して丁寧にやる、をゆっくり作業をする、と勘違いすること。
あたしは家庭教師やってるし受験に関わることが多いから勉強とかそういう方向でいうと、
丁寧に勉強しようとノートを綺麗にまとめましょう。間違ってはいないかもしれないけれど少しベクトルが違っている。最近だと、受験前に自分を追い込む。あれ、自分の首を絞める、と勘違いしてる子が多いように思う。あたしもそのクチだったけど(笑)。追い込み方ってあるんだよね。

あたしは理系で大学の研究室に所属しているのだけれど、やはりそういう環境にいるだけあって議論はとても大切である。とはいってもまだ始めたばかりのペーペーなのであまり偉そうなことは言えないのだが。
先生がよく議論をしなさいと言うのだが、最近ちゃんとそういうことしてる?と聞かれたのがきっかけだった。

確かにしてないなぁ、とは思いつつも同時にできていないなぁ、と感じた。

あたしは議論すること、とは

相手の矛盾を徹底的に潰しあうこと。

だと勝手に思っている。相手の意見の欠点を徹底的に突く。相手はそうじゃないことを主張し逆のことをする。その繰り返し。よくないところを潰し合うものだと思う。だからあたしは基本的にどう思う?と言われたらその考えたことのおかしいところを徹底的に探す。そこを指摘して返されれば相手の正当性が認められるし返せなければ別の案を考える。うまく文章には起こせないのだけれど、考えを洗練していく、が近いように思う。これを意識しすぎて文章が書けなくなったはあるのかもしれない、元々そんな書けるわけではないのだが。

言い方の問題もあると思う。現にあたしは言い方がきつい(笑)。

結構皆意見に対してなるほど納得、ということが多いように思っていた。そもそも相手に対する興味がないという観点はおいておいて、2つくらい考えてみた。

1つ目は混同。議論の場は議論の場でそこで終わりだと思うのだが、強い指摘などをされたりすると普段の生活における人間関係にまで持ち込んでしまう場合。結構経験のある人はいるのじゃないかな。なかなか区別するの難しいよね。

2つ目はうまいことばが見つからないのだけれど強いて言えば勘違い。
こっちは割と深刻で、根強いものがあるのじゃないかなって。
誰からでもいいのだけれど、何か怒られたときにすごく落ち込む人がいるけれど、それってあんまりよくないんじゃないかなって。怒られてる側って怒られている自分に焦点を当てて、大げさだけれど、わたしってだめなやつなんだぁ、みたいな。

あれって本人を怒っているんじゃなくて、何か悪いこと(?)をした行為を怒っているんだよね。そこを勘違いしちゃうことって結構あってその後の関係まで少しぎくしゃくしちゃう。

きっと小さい頃の経験がものすごく強い背景になっているんじゃないかなぁ、だから逆に叱り方って大切、とくに小さい頃。

例えば子どもが信号を無視して横断歩道を渡ろうとしたときに、すごく危ないからお母さんお父さんってめちゃくちゃ怒るでしょ。だけど、興奮のあまり過剰に起こりすぎちゃうと自分が否定されているように感じちゃう。本当は信号を渡ろうとしたその行為が悪いはずなのにいつのまにかその行為をしようとした自分が悪い、にすり替わっちゃう。そうすると相手への言い方もきつくなってしまうかもしれないし、指摘に対して、あいつは俺のことが嫌いなんだ、とか間違った解釈をして関係がぎくしゃくする。そうじゃないんだよね。

あたしくらいの年齢になると自覚、意識しないと気づかないよね、この辺りって、多分。小さい頃の影響が大きいように思う。仮に、自分が子育てをするようになったらその辺は考えないとなってつくづく感じる。子育てに奮闘しているお母様お父様、あとは幼稚園とか小学校の先生は大変だよね。この頃の経験って覚えてなくても絶対後々に響くもん…。

否定されるのがつらいから否定しないってそこから迎合とか同意に話が進んじゃって議論ができなくなるのかな、でその背景にそういった間違った認識があるのかなって。

これはあたしの勝手な話で関係ないのだけれど、何かあたしってこういう経験したんだとかこういうことできるんだって話したときに、素直にすげぇ、って言ってもらえるのは嬉しいのだけれど、そればかりすると何か物足りなくなってしまって。いや、お前なんか大したことないよ、俺はこんなことできるし経験してきたんだどうだ!って人に魅力を感じる、というかどこか求めている気がする。

共感も大切だとは思う。全部ひっくるめて伝え方、なのかもしれないね。

#note #エッセイ #叱り方 #ディスカッション
#日常 #子育て #ことば #人生

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