雑記:城北の小松内府

茨城県東茨城郡城里町の小松寺は、「小松内府」こと平重盛ゆかりの寺院であり、寺名も重盛の通称に由来すると言う。

平重盛の遺骨を平貞能が供養するためにこの寺を開き、自らも出家して重盛一族を弔ったと伝わる。

貞能は平清盛の第一の腹心とされた人物で、重盛の次子・資盛の守り役を務め、『平家物語』によれば平家都落ちに際して、重盛の墓が源氏方に荒らされるのを恐れて遺骨を掘り起こして高野山に送ったと言う。

後に平家一門から離脱して下野の宇都宮氏を頼り、宇都宮氏から源頼朝に助命を嘆願されてその命を全うした。

貞能の身柄は宇都宮氏に預けられ、その地で余生を送ったようであり、北関東や東北には重盛や貞能にまつわる伝承を持つ寺院が多いのはそのためであろう。

小松寺もその一つで、寺伝では貞能以前に普明院と言う観音菩薩をまつる寺院があったとされ、重盛や貞能との所縁は事実かどうかはわからないが、江戸時代には水戸光圀が重盛所縁の寺と言うことで本堂を寄進するなど、後世には重盛ゆかりの寺院として認知されていたようである。

本堂裏の白雲山の中腹には、貞能が造立した重盛と夫人の墓とされる宝篋印塔が建っており、貞能自身の墓もあると言う。

ただ、宝篋印塔へ上る石段の手前までしか行けないため(石段の前には門扉があって、その先には入れない)、宝篋印塔は石段の下から仰ぎ見ることしか出来ず、私が行った際には重盛の宝篋印塔しか確認出来なかった(下の写真は門扉の外から望遠で撮影したものである)。

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間近で確認していないため、確かなことはわからないが、宝篋印塔は室町時代頃のもので、貞能が造立したと言うのはあくまで伝承で、後世造立された供養塔と見るべきであろうか(遠目で見ると一対のように見えるが、塔身が中世のものにしては不自然に長く、後補かも知れない)。

『平家物語』の普及で、後年になると朝廷のために清盛をよく諫めた忠臣として重盛は賞賛の対象となっており、重盛の伝承と言うのはそれに伴って生じたものなのかも知れない。


この小松寺と同様に、平重盛の評価が高まるのに伴って重盛にまつわる伝承は全国各地に生まれるようになる。

重盛と何らかのゆかりを持つ寺院に、重盛の墓や供養塔と呼ばれる石塔の伝承があることが多いが、中には重盛との関連がない寺院に重盛の墓と称される石塔が存在するケースもある。

栃木県足利市の善徳寺は足利尊氏開基と伝わる寺院であるが、境内には重盛の墓とされる石塔がある。

石塔は五輪塔のパーツを重ねた乱積みであるが、どのような経緯で重盛の墓と呼ばれるようになったかは不明である。

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