北関東の石造物⑲:正幸寺石殿(高須隼人一族の墓)

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名称:正幸寺石殿

伝承など:高須隼人一族の墓

所在地:群馬県前橋市三河町 正幸寺


前橋市の正幸寺は戦国時代に開かれ、戦国時代末期に前橋城主となった徳川家康の重臣の平岩親吉と関わりもあった寺院で、山門を入ってすぐ左側には親吉が夭折した養子・仙千代追善のために奉納したと伝わる勝軍地蔵が祀られている。

境内には、平岩親吉の後で前橋城主となった酒井家の家老・高須家の墓所がある。

高須家は前橋藩主酒井雅楽頭家の筆頭家老を代々務めた家柄で、歴代の当主は皆隼人を称した。

中でも五代目の高須隼人定次(定次は初名で、後年「広儔/ひろとも」と改名)は、沼田藩真田家改易後に現地に派遣されて再検知を行い、これが真田家の圧政に苦しめられた農民達から「お助け縄(検知)」と呼ばれて感謝されたと言う逸話が残る人物で、ために今でも沼田から高須定次の墓参に来る人がいると言う。

墓塔はいづれも石殿形式で、蓮の花のレリーフを刻むなど装飾性に富んだものも見られる。

個々の石塔に関する説明は特にないが、最も古いものが寛永六年の銘文を持ち(初代高須定広の墓)、元文よりも下る年号を持つものが見られないので、酒井家が前橋から姫路藩へ転封になる以前の当主と一族の墓所であろう。


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